ザラメのことを考える
本を読むということ。それはたぶん,亡骸を抱く,という行為なのだ,と思うのです。
砂浜はときどき,本の香りがする。
それはとても素敵なことかもしれないと,ふいに思うのです。
記憶という記憶が,おしなべて汀にあるとすれば,
いつでも会いにゆけるでしょう。
ふかい海にしずんでいたものたちにも,
いつか会いにゆけるのでしょう
うずめていたのは,わたしなのに。
“水には記憶する能力があるという。”※1
けれど,砂は?
たぶん。いいえ,きっと,砂にも。
砂にも,きっと,記憶が詰めこまれているはずなのです。
それは,砂のようにざらつくザラメ。
あたたかな紹興酒に,とろけて消えてしまったのだけれど,
そこに居たことは忘れないよ。
あなたのこと。
私たちはいつも,亡骸を抱いて眠る。
朝の早いころ,寒暖のすきま,青天とアスファルトの境界に,
ふと,ザラメのことを考える。
眩むようなお日さまが,わたしのことを弱らせているにちがいない
夜の喪に服しているわたしを忘れていまいか,
石を積んだことを忘れてはいまいか,
撓んだ朝がつづく,
夜の続きではなく,
つぎの日,
未だ白い息が暗闇に溶けてしまうころ,
しずかにドアを開きます。
音をたてないように,そっ,と。
いけとしいけるものはみな,眠りのさなか,
ほら,時計は真夜中を指しているのでしょう。
さあ,でかけましょう。
お日さまの光をまるごと飲み干してしまったかのような
まっ白で,まぶしくて,とても素敵なところへ。
2012年 04月09日 01時00分
参考文献:
※新川和江『記憶する水』思潮社,2007年05月