矛盾した彼女の庭
僕の家の庭には、色とりどりの花が咲き誇っている。
毎日手入れされている庭には、枯れている花なんて一つもない。
植えられる花は季節によって、種類が変わる。パンジー、向日葵、金魚草、ガーベラ、マーガレット、――僕が見たこともないような花もある。
僕は書斎の窓から、庭を見下ろした。2階の窓から見る庭は、まるでミニチュアのように小さくて、そして完璧と言えるくらいに美しかった。庭の真ん中に大きな噴水、それからテラスなんかがあったら、それこそ完璧だったんじゃないかと思う。
黒い点が、庭の真ん中をうろうろしているのが見える。あれが、この『完璧な』庭の世話をしている僕の妻だ。彼女は小さなじょうろを手に持って、ビオラに水をやっていた。彼女は花に水をやる時、絶対にホースを使おうとしない。常に小さなじょうろを持って、水道と花の間を何往復もして水をまくのだ。
小さなじょうろといえば、普通はどんなものを想像するのだろうか。――妻の使っているのは百円均一の店で売られている、象の形をした玩具のようなじょうろだった。あんな小さなじょうろを使って毎日毎日水をやってるんだから、呆れるを通り越して感心する。
彼女の庭は、近所でも有名だった。豪邸のようだといわれるが、それはあくまで庭のみの話だ。僕たちの住んでいる家は、さして広くもなければ新しくもなかった。あくまでもすごいのは、いつまでも色落ちすることのない彼女の庭だけだ。
どうしてそんなに庭造りに精を出すのかと、妻に訊いたことがある。答えはこうだ。
「庭がいろんな色で塗られていたら、目立つでしょう? そしたら私がここに存在ことも、気付いてもらえるかと思って」
僕は、黒い服を着た彼女の姿を見守った。彼女が着るのは、いつだって黒か白か灰色、――つまりはモノクロだった。そのことに言及した時は、
「私の存在には、誰にも気付いてほしくないから。目立ちたくないの」
こう言った。
彼女は自分自身の言葉の矛盾に、気付いているのだろうか。
気付いてほしいのに、気付いてほしくない自分の存在。
赤色や黄色やオレンジ色の花が眩しく光るこの庭で、黒い服を着た彼女がどれだけ浮き立っているのか。
彼女は、気付いているのだろうか。
彼女が、庭に執着するようになったのはいつからだろう。
小さなじょうろで、花に水をやるようになったのは。
黒い服しか着ないようになったのは。
彼女が壊れ始めたのは、いつからだろう。
「私が死んだら、花壇いっぱいにイチゴを植えて」
有無を言わせない口調で、彼女はそう言った。僕はその時、リビングでニュース番組を観ていて、彼女は夕食の準備をしている最中だった。
「……どうして?」
彼女は、花しか植えない。野菜も果物も植えない。そんな彼女が、イチゴを植えてほしいと言ったのは意外だった。「私が死んだら」は、聞かなかったことにした。
何度も自殺未遂を繰り返している彼女の口から、「私が死んだら」という言葉が出るのは珍しいことではないのだ。……そんな風に、慣れてしまっている自分が怖かった。
「イチゴなら、不器用なあなたでも育てられそうだから。あと、――赤くて、かわいいから」
赤くてかわいい。それはきっと、イチゴに向けた言葉ではなかった。
「イチゴがなったらちゃんと収穫して、イチゴジャムを作ってよ。すごく甘いジャムにしてね。そしたらきっと、」
彼女はそこまで言うとこちらを振り向いて、笑った。
「そしたらきっと、苦いことは全部忘れられるから」
それから七年後。庭には、赤いイチゴが実っていた。かつて花が植えられていたはずの庭はもはや、イチゴ畑のようになっている。花はといえば、庭の隅に申し訳程度にチューリップが咲いている程度だった。
僕は庭に出ると、イチゴを収穫しようかと手を伸ばした。
「あ、だめよ! それはこの子と一緒に収穫するんだから!」
そんな声が背後から聞こえてきて、僕は苦笑した。後ろには予想通り、バスケットを持った妻が立っている。彼女の横には、もうすぐ五歳になる、僕たちの娘。
「ごめん。おいしそうだったから、つい」
「後でジャムにするから、もうちょっと待ってよね」
彼女はそう言って笑うと、てきぱきとイチゴを収穫し始めた。
どうしてイチゴばかり植えるようになったの? という質問に、彼女は娘の寝顔を見ながらこう答えた。
「だってこの子が、お花よりもイチゴの方が好きって言うんだもの」
パステルカラーの服を着るようになった妻は、綺麗な庭に閉じこもっていた時よりも明るく見えた。それはきっと、服の色のせいではなくて。
「……ジャムは、ものすごく甘くするの?」
「もちろん」
僕の問いに当たり前のように答える妻は、咲き誇る花のように微笑んでいた。
「自分たちで育てて、収穫して、作ったジャムか。皆で食べたら、おいしいだろうね」
摘み取られていくイチゴを見ながら、僕は呟く。妻はイチゴを摘むのをやめると、こちらを見て
「素敵な思い出になるでしょうね」
そう言ってから、娘と二人で嬉しそうに、笑った。