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認知症の母が残したノート

掲載日:2026/09/26

この物語は、失われていく記憶の中で、それでも消えなかったものについて書いた小さな話です。

机の上のノートには、自分の字で書かれていた。


   わからなくなったら読むこと


その下には、


   ここは施設です。


   家ではありません。


とある。


何度も読んだ気がする。


それでも夕方になると、帰りたくなる。


窓の外が赤く染まる頃には、胸の奥が落ち着かなくなる。


帰りたい。


どこへ帰りたいのか、自分でもよくわからない。


夫はもういない。


そのことも知っている。


知っているはずなのに、夕方になると、夫が帰ってくる気がする。


台所では何かが煮えていて、自分はそれを待っている気がする。


だから帰りたい。


理由はわからない。


気持ちだけが残る。


木曜日は、誰かが来る日だった。


ノートにそう書いてある。


昼過ぎになると、男の人がやって来た。


その人を見ると、少し安心する。


名前は思い出せない。


けれど、知らない人ではない。


「こんにちは」


男の人は椅子に腰掛けた。


天気のことや食事のことを話してくれる。


私は頷く。


途中から、何を話していたのかわからなくなる。


最近は、そういうことが増えた。


言葉がどこかへ行ってしまう。


「元気?」


男の人が聞く。


私は頷いた。


本当は、夜が怖い。


朝になると、昨日が遠い。


目を閉じるたび、何かが少しずつ減っていく気がする。


でも、うまく言えない。


代わりに、口から出る。


「帰りたい」


男の人は黙った。


少しだけ目を伏せた。


それを見て、後悔した。


また困らせた。


夜、ノートを開く。


   また帰りたいと言った。


   次は言わない。


次の日。


   今日も言った。


   ごめんなさい。


しばらくして、男の人は来たり来なかったりするようになった。


   今日は来なかった。


   忙しいのかな。


次のページ。


   今日も来なかった。


   どうせ家でごろごろしてるくせに。


そこに線を引く。


   うそ。


   あの人はそんな人じゃない。


さらに次のページ。


   少し腹が立った。


   でも元気ならいい。


それから、また何週間か過ぎた。


「次はいつ来る?」


帰るとき、私は聞いた。


男の人のコートの袖をつかんでいた。


「来週」


男の人はそう言った。


私は頷いた。


夜、ノートを開く。


   来週来る。


   お菓子を買う。


丸を付けた。


その次のページは白紙だった。


また会った。


男の人は笑っていた。


私も笑い返した。


けれど、その瞬間に気づく。


名前が出てこない。


どこで会ったのかも思い出せない。


何も。


何も出てこない。


夜。


ノートを開く。


   今日来てくれた人。


そこで手が止まる。


長い間、考える。


そして書く。


   名前がわからない。


   でも安心する。


   手を握るとほっとする。


それが最後の文章になった。


二


母が亡くなったあと、施設から段ボール箱を受け取った。


「お母さまのものです」


職員がそう言った。


箱の中には、青いノートが何冊も入っていた。


最初の一冊を開く。


   明日は来る日。


   好きなお菓子を買う。


思わず手が止まった。


子どもの頃によく食べていた菓子の名前だった。


もう何年も口にしていない。


ページをめくる。


   また帰りたいと言った。


   困らせた。


   ごめんなさい。


あの日のことを思い出した。


母が何度も帰りたいと言い、僕が声を荒げた日だ。


「無理なんだよ」


面会室にいた人たちが、こちらを見た。


母は黙った。


ただ、黙っていた。


続きを読む。


   今日は来なかった。


   忙しいのかな。


次のページ。


   今日も来なかった。


   どうせ家でごろごろしてるくせに。


思わず笑いそうになった。


母らしかった。


昔から、腹が立つと、少しだけ意地悪なことを言った。


その下。


   うそ。


   あの人はそんな人じゃない。


そこで笑えなくなった。


さらにページをめくる。


   次はいつ来る?


   来週来る。


   お菓子を買う。


丸が何度もなぞられていた。


来週。


僕は行かなかった。


日曜日だった。


何の予定もなかった。


昼過ぎまで寝ていた。


コンビニで弁当を買った。


映画を見た。


もう一本見た。


外が暗くなった頃、施設からの留守番電話に気づいた。


そのまま削除した。


最後の冊子を開く。


文字は大きく崩れていた。


   今日来てくれた人。


   名前がわからない。


ページをめくる。


   でも安心する。


   手を握るとほっとする。


その次は白紙だった。


さらにめくる。


最後から二枚目のページにだけ、文字があった。


   また来てくれるかな。


それだけだった。


日付を見る。


日曜日だった。


箱の中には、まだ読んでいないノートが何冊も残っていた。


窓の外で風が鳴った。


何の映画だったのかは、思い出せない。


僕は、そのページを閉じることができなかった。

この物語の中に大切な誰かの姿や、自分自身の記憶を重ねてくださったなら幸いです。

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― 新着の感想 ―
(母親は) 名前がわからなくても、 大切な人だとはわかる・・ みんな、そうなんでしょうね。 そして、 (子供は) 誰でも経験している状況ですね。 私ごときが生意気言いますが、 大変よかったです。
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