神聖ローマ帝国の場合
意識が切り替わった瞬間、私は「それ」に圧倒された。
視界を埋め尽くすのは、天を突くような巨大な石柱と、色鮮やかなステンドグラスから差し込む柔らかな光。
遠くからかすかに、多分讃美歌が聞こえてくる。
私の時代の讃美歌とは違ったものだけど。
(……大聖堂?
また、嫌な夢の世界にいるのね……)
またも思い出す、この時代の私の記憶。
名前はマリア。
ここ神聖ローマ帝国の最下級の貴族、帝国騎士の娘。
高校の時の世界史の好きな友達が言ってたっけ
「『神聖』でも『ローマ』でも『帝国』でもないのが神聖ローマ帝国だ」
と。
この時代の私の記憶では、単に「帝国」とだけ呼んでいて、私は皇太子と恋仲になり……
……また元婚約者の関係者から酷い目に遭わされる役回りなのね……。
乙女ゲームのハッピーエンドの後の物語で。
そう思って回りを見渡す。
隣には、豪華な衣服……天の声が教えてくれたところによると「家紋が刺繍された深紅のシュルコーを纏い、肩には純白のアーミンの毛皮を裏打ちした重厚なマントを羽織っている」美貌の青年、ルートヴィヒ皇太子が、私の手を強く握りしめて立っている。
彼の向こう正面には、ケルン大司教が座している。
黄金の司教杖を携え、法衣を纏ったその姿は、慈悲深い聖職者には見えない。
冷酷な「法の番人」、裁判官みたいな感じね。
「……重ねて問おう、ローマ王。
マイセン辺境伯の令嬢にして、我が養女であるエリーザベトとの婚約を、真に解消されるおつもりか」
天の声の補足で、次期皇帝は皇太子ではなく、ローマ王またはドイツ王と呼ばれるみたい。
私は面倒だから、今後も皇太子で通すけど。
そんな皇太子に対し、大司教の声は静かだが、石造りの聖堂内に恐ろしいほど響き渡っている。
ルートヴィヒは胸を張り、朗々と宣言した。
「然り! 私は神の御前で嘘を吐かぬ。
私の真実の愛は、このマリアに捧げられたものだ。
政略の道具としてエリーザベトを娶ることは、魂の誠実さに反する!」
ゲームなら、ここで拍手が起きるシーンかもね。
だけど、現実は違っていた。
参列していた帝国貴族たちが、一斉に目を伏せる。
それは感動ではなく、関わってはいけない「狂人」に対する態度だった。
『分かりますか、マリア。
これから貴女たちが味わう苦難が。
前の体験のような武力による報復だけが、歴史の残酷さではないのですよ』
脳内に「天の声」が響く。
『エリーザベトは「マイセン辺境伯」という、帝国きって武闘派貴族の娘であり、同時に「選帝侯」であるケルン大司教の養女です。
マイセン辺境伯では家格が釣り合わなかった為、ケルン大司教の子という形にされました。
日本史ではよくある話ですよね。
そして、婚約破棄は2つの家を敵に回した行為。
貴女は覚えているか分かりませんが、この神聖ローマ帝国の皇帝は、ある時期まで選帝侯という貴族・大司教たちの選挙で選ばれた存在です。
後の時代には世襲になりますが、今はそうです。
今回の婚約破棄は、皇帝を選ぶ者の一票と、教会の支持、その両方をドブに捨てたことを意味します。
いや、影響力を考えれば、一票失っただけでは済みません。
……見ていなさい、これから貴女たちの周りから「人間」が消えていきますよ』
天の声の予言は、あまりにも正確だった。
翌日から、目に見える変化が始まる。
昨日まで跪いていた従者たちが、一人、また一人と姿を消していった。
王宮の廊下ですれ違う貴族たちは、私たちが存在しないかのように視線を逸らし、無言で通り過ぎる。
給仕は食事を運ばなくなり、暖炉の薪は補充されない。
ルートヴィヒがどれほど怒鳴っても、誰も応えない。
ただ、冷たい視線を返すだけ。
それでも、ゲームでは攻略対象であった皇太子派の騎士たちは、まだつき従ってくれた。
だけどついに、決定打が訪れた。
王宮に、突如として教皇の使節が現れたの。
彼は一枚の羊皮紙を広げ、氷のような声で宣告した。
「……ルートヴィヒ、およびその愛妾マリアを、聖なる公会議の名において『破門』に処す。
この者らに宿を貸す者は呪われ、この者らと口を利く者は神の敵と見なす。
彼らの命を奪う者に、罪は問われぬ」
その瞬間、私たちは皇太子とその愛妾から、この世の最下位の存在に堕ちた。
破門。
それはキリスト教が絶対の中世において、「人間」であることを剥奪される、法的な死だ。
ルートヴィヒが私の手を握ろうとしたが、その手は小刻みに震えていた。
かつての自信に満ちた皇太子の面影はない。
「マリア……どうしてだ……。
私は愛を選んだだけなのに、なぜ誰も私を見ない?
なぜ……」
彼は日に日に壊れていった。
その時までは、まだ皇太子に従っていた騎士たちも、次々と「忠誠の誓い」である右手の皮手袋を返して去っていく。
人によっては、皇太子の足元に唾を吐くような無礼な行為もした。
いや、もうその行為が無礼にならなくなっている。
親しい者たちも皆離れていき、父である皇帝も声をかけない。
代理として牢番という身分の低い者に
「どこかの馬鹿のせいで、我が家はおしまいとなった。
もう次の帝位など、望めるわけもない。
どこかの馬鹿のせいでね」
といった事を、毎日言葉を変えて伝言形式で罵らせる。
こんな繰り返しの中、最初は意地を張っていたルートヴィヒも変わっていく。
誰もいない壁に向かって謝罪し、夜中に叫び声を上げたりする。
もう「真実の愛」への情熱なんて薄れているのが分かる。
「神から見放された、この世にもあの世にも居場所はない」
そんな精神の抑圧に押し潰され、彼の表情は醜く変わっていった。
ついにルートヴィヒは、私を突き飛ばして叫ぶ。
「お前のせいだ!
この売女!
お前が私を惑わしたから、私は神に捨てられたんだ!」
そうしてひとしきり私を殴った後、彼はおかしな笑いをしながら部屋を飛び出した。
私たちは鍵のかかった部屋に閉じ込められたわけではない。
出入りは自由だ。
誰にも相手にされないだけで。
そして、「かわいそうな男」が飛び出して行ったのを、誰も気にも留めないようだった。
これは後から聞いた話。
ルートヴィヒが向かった先はローマ、そう教皇のもとだった。
彼は歩いてローマにたどり着いたけど、服は襤褸となり、靴は失われ裸足となっていた。
こんな姿で教会に向かって跪いたが、門番に叩き出される。
そこで司祭や助祭を見かけると声をかけ、許しを乞う事を数日間も続けたという。
やがて、教皇直接ではないが、
「人は過ちを犯す。
この度の行為を神は憐れみ、再び我が子として迎え入れる愛を示された。
もう同じ過ちを繰り返さぬように」
と説教をされ、破門は解除されたという。
しばらくして、新たな十字架を携えて戻ってきた彼に、諸侯たちから冷徹な言葉が浴びせられる。
「神の許しを貰えたようで重畳。。
なれど、マイセン辺境伯と大司教への侮辱は消えませぬぞ。
貴公の父上、皇帝陛下は教会への莫大な寄進を決められた。
それに加え『二度と皇帝を輩出されない』を事を承認する誓約に署名された。
貴公も誓約しなされ。
そしてローマ王の地位は自主的に返上されますように。
お分かりですな」
ルートヴィヒに反発する気力は最早無かった。
こうして頂点にまで登った貴族の未来が、息子の気まぐれな恋によって永遠に断たれたのである。
分かると思うけど、ルートヴィヒの家系だけでは終わらない。
その牙は私の家族にも向けられた。
「帝国騎士ベルグ家。
異端者を育て、皇太子をたぶらかした罪により、騎士の身分を剥奪し、領地を没収する。
……東方、ボヘミアの荒れ地へ追放。
二度と故国の土を踏むことは許さぬ」
私の父も、母も、何も言わなかった。
かつての誇り高き騎士の正装を剥ぎ取られ、泥まみれの荷車に揺られる家族。
その背中は、絶望というよりも、もはや何も感じない「空虚」に支配されていた。
荷車はボヘミアへと続く深い森を進んでいた。
霧が立ち込める夕暮れ時。
不意に、馬の嘶きが聞こえる。
前方から現れたのは、黒い覆面で顔を隠した騎馬集団だ。
「強盗だ!
護衛もいない我々ではどうにも出来ない。
私はここで戦い、足止めをする。
お前たちは荷物を置いて逃げろ!」
父が叫んだが、遅かった。
覆面の男たちは、金目のものには目もくれず、真っ先に父に襲い掛かる。
父は帝国騎士で武芸の心得がある。
そんな父を、賊は連携の取れた攻撃と、武芸を習得した者の動きで打ち倒す。
「……あ……ああ……っ!」
逃げ惑う母も、幼い弟も、無慈悲に槍で貫かれた。
私は転がり落ちた地面で、一人の男の足元を見上げた。
外套で隠された中に、あるものを見た。
……婚約破棄をされたエリーザベト嬢の血統上の父、マイセン辺境伯の紋章。
これは強盗ではない。
「後始末」だ。
会議で処分が決まった者に対し、強大な武力を持つ貴族が表立って武力で報復すれば、その狭量さを笑われる。
だから、こうして「事故」として処理したのだ。
それが、帝国貴族たちの洗練された復讐。
「真実の……愛……なんて……」
私の首に、冷たい刃が押し当てられた。
最期の瞬間に見えたのは、血に染まった家族の死体と、神すら味方しない灰色の空だった。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……!!」
汗びっしょりになって、私は自室のフローリングに転がっていた。
ベッドからも転げ落ちていたようね。
思わず喉元を押さえるけど、傷はない。
でも、あの「無視される恐怖」と「神に見捨てられた絶望」は、まだ魂にへばりついている。
「前回みたいな単純な武力じゃない……。
『この世界に居場所は無い』というのが、あんなに恐ろしいなんて……」
中世ヨーロッパでキリスト教というものが、どれだけ逆らえないものだったかが、骨身に染みて理解出来た。
その神の代理人を介してなされた婚約破棄が、教会のメンツを傷つけるという事も。
『良い勉強になったようですね、真里』
脳内で、ルンルンとした楽しげな声が響く。
正直こんな勉強、もうごめんだ。
ゲームの世界では、教会なんて余り出て来ないし、出て来ても普通に祈ったり奇蹟を授ける存在だったから、気にもしていなかった。
あと、もうドイツ人嫌い。
あんな人たちとは思わなかった!
神様に対して敬虔過ぎるでしょ!
ちょっとはフランス人の愛に対する大らかさを見倣ったらどうなの?
口は禍の元、なんでまたやっちゃんだ。
いや、喋ったわけじゃないんだけどさ。
天の声が聞こえて来た。
『次はフランスがお望みですね。
貴女の願い、かなえましょう』
もう眠りたくない……。
天の声は、ファッキンクソバードや、コズミック害鳥や、クソリプ鳥や、人類に対する粘着荒らしではありませんので。
もっと下位概念です。
高尚な思想(笑)をもって罪を犯した(?)人類に報いを与えるのではなく、上位概念の意向に沿って動いているだけの下っ端です。




