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死と復元を繰り返した私たち  作者: 御影のたぬき


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清算

【一】カノ・リツコ



それを見つけたのは、偶然だった。


ミズノへの任意聴取が始まってから三週間が経っていた。捜査は進んでいたが、決定的な証拠の特定には時間がかかっていた。カノは毎日記録を更新し、調査チームと情報を共有し、新しいフラグが上がれば対応した。第一復元センターのフラグは誤報だった。別の技師が使っていた古い端末の接触不良で、外部からのアクセスではなかった。


通常業務に戻った週の木曜日、カノは半年分の同期ログを遡って確認する作業をしていた。ミズノ関連の証拠を補強するための、地道な作業だった。


五件の案件の対象者について、停止前後の同期データを比較していた。


カワムラ・ケイイチのデータを開いた時、いつもと違う数値が見えた。


最終同期から停止までの間のデータではなく、もっと前——復元後の同期データに、微細な異常があった。


復元後の同期データとは、復元された個体がクラウドに最初に接続した時のデータだ。復元が完了すると、バックアップサーバーに「復元完了」の信号が送られ、対象者の最新データが更新される。


カワムラの復元後の最初の同期データに、余分なパケットが含まれていた。


ほんの小さな余分だった。バイト単位の余剰データ。通常であれば通信の誤差として無視される水準だった。


カノが引っかかったのは、その余剰データの種別だった。


位置情報だった。


カワムラが復元後に最初の同期をした際、復元センターの座標と一緒に、別の座標が含まれていた。


(なぜ二つの座標が含まれているのか)


一つは第二復元センターの座標だった。正常な値だった。


もう一つは——


カノは座標を地図に変換した。


市街地の南東、工業地区の外縁だった。


建物の種別を確認した。


医療関連施設、登記上は「医療機器メンテナンス施設」だった。


登記した企業の名前を確認した。


ミズノ・サトシが代表を務める、別法人だった。



カノは手を止めた。


座標が余剰データとして含まれていた理由を、考えた。


E-441が発生した時、二体が生成される。モリは照合精度に従って一体を処理した。処理、という言葉が使われていた。その定義は文書に書かれていなかった。


処理が「廃棄」を意味するとは、誰も明示していなかった。


(処理した体が、別の場所に移送されていたとしたら)


あの余剰データは、移送先の座標だった可能性がある。


復元センターの端末に外部コマンドが送られ、E-441が引き起こされた。モリが手順に従って処理した後、「処理された」体が、ミズノの施設に移送された。


その移送の痕跡が、バイト単位の余剰データとして同期ログに残っていた。


(生きているかもしれない)


カノは立ち上がった。


端末を持ったまま、廊下に出た。


調査チームのリーダーに電話した。


「至急確認してほしい場所があります」



令状の申請に半日かかった。


施設への立ち入り検査は翌朝になった。


カノはその夜、ナガセとモリに連絡を取った。


「明日、ミズノの別法人が持つ施設に入ります。同席できますか」


ナガセが少し間を置いてから答えた。


「行きます」


モリは電話を取るのに時間がかかった。夜の十時を過ぎていた。


「施設に何があるんですか」


「確認できていません。ただ——」


カノは座標のデータをモリに送った。


「この座標が、カワムラの復元後の同期データに含まれていました」


長い沈黙があった。


「……行きます」



【二】施設



工業地区の外縁にある施設は、外観は倉庫に近かった。


外壁に医療機器メンテナンスの看板があったが、窓はなく、入口は電子錠で施錠されていた。捜査官が令状を提示し、施錠を解除した。


中に入ると、廊下が続いていた。


医療機器の保管棚が並んでいた。スキャナーや処置台の部品、交換用のパーツが整然と収納されていた。


廊下の奥に、ドアがあった。


「医療機器のメンテナンス施設に、なぜ医療用のベッドが必要なのか」


捜査官の一人が言った。


ドアを開けた。


部屋があった。


広い部屋だった。


医療用のベッドが並んでいた。六台。


そのうち五台に、人間が横たわっていた。


全員、目を閉じていた。生命維持装置に接続されていた。呼吸していた。


カノは動けなかった。


隣でモリも止まっていた。


「……生きている」


モリの声は小さかった。


医療スタッフが駆けつけ、五人の状態を確認した。


「全員、生命活動は維持されています。深い鎮静状態。自発呼吸あり。栄養点滴が接続されています。長期管理されています」


「いつから」


「装置の記録を確認します。数か月から——半年以上、可能性があります」


五台のベッドに、五人が横たわっていた。


カノは一台ずつ顔を確認した。


四人は知らない顔だった。


一人は——


「モリさん」


モリが近づいてきた。


カノが指したベッドを見た。


横たわっている男の顔を見た。


「カワムラ・ケイイチ」


モリが名前を言った。声が揺れていた。


「照合精度が99.74パーセントだった方です」


部屋に沈黙があった。


ナガセが後ろから言った。


「照合精度が99.81の方は、今どこにいますか」


「第二復元センターから退院して、普通に生活しています」


「……二人いる、ということか」


「そうなります」


部屋がまた静かになった。


生命維持装置が低く鳴っていた。



【三】モリ・シンジ



施設から出た後、モリは一人になった。


捜査官が施設の管理を引き継いだ。五人は救急搬送された。安定しているが、長期鎮静の影響を調べる必要があった。


モリは施設の外の駐車場に立っていた。


夜の空気が冷たかった。


(エラー体として処理した側が、生きていた)


手順に従った。照合精度の低い方を「エラー体」として処理した。


「処理」の定義が文書に書かれていなかった理由が、今わかった。


「処理」はミズノが実施するものだったからだ。モリが鎮静剤を投与して「停止」させた後、ミズノの人間が体を回収して、あの施設に移送した。


モリは「廃棄」したつもりで、実際には「移送」していた。


知らなかった。


だが。


(エラー体として処理した側が、生きていた)


二人が今存在している。


どちらが本物のカワムラ・ケイイチか、という問いに、答えが出ていない。


照合精度の差は0.07パーセントだった。


モリは駐車場のアスファルトを見ていた。


その差は、本体とエラー体を区別する根拠として十分なのか。


十分だと言い切れなかった。


言い切れないままで、自分は二人のカワムラに対して何をしたのかを考えた。


一人を「正体」として送り出した。


もう一人を「エラー体」として処理し、ミズノの施設に移送させた。


結果として、二人とも生きている。


では「正しかったのか」という問いに、今答えられるか。


答えられなかった。


ナガセが近づいてきた。


「大丈夫ですか」


「わかりません」


「わからない、でいいと思います」


「あなたは大丈夫ですか」


ナガセが少しの間、考えた。


「同じです」



カノが戻ってきた。


三人で施設の外に立った。


「明日から、二人のカワムラの問題に対処する必要があります」カノが言った。「捜査側と医療側と、施設側が協議することになる」


「二人はどうなるんですか」


「前例がないので——制度的には、まだ決まっていません」


「施設にいた方が意識を取り戻したとして、その人間はどういう立場になるのか」


「法的には——」カノが言葉を選んだ。「現在の法律では、同一IDに対して法的人格は一つです。復元センターから送り出された方が、現在の法的カワムラ・ケイイチです。施設にいた方の法的な扱いは、判例がありません」


「今夜の段階では」


「今夜の段階では、二人が存在している、という事実だけが確認されました」


三人が沈黙した。


「一つ聞いていいですか」とモリが言った。


「なんですか」


「施設にいた五人は、ミズノにとって何だったのか。なぜ廃棄せずに保管していたのか」


カノが少し間を置いた。


「推測の段階ですが——五人は全員、ミズノの会社の退職者です。退職理由が問題になっていた。おそらく五人は、会社の不正行為を知っていた。それを理由に退職した。ミズノはE-441を使って、問題のある記憶や知識を持つ人間を入れ替えようとした」


「入れ替え」


「処理した体には、停止前の全ての記憶が残っています。鎮静状態で保管すれば、証言能力はないが消えてもいない。廃棄すれば証拠が残る。保管すれば——何かの交渉材料になる。あるいは、万が一の時に利用できる状態にしておきたかった」


「人間を、交渉材料として」


「それが、今回の件の本質だと思っています」


夜風が吹いた。


施設の入口に、捜査官が立っていた。中から明かりが漏れていた。



【四】カノ・リツコ



翌朝から、カノの仕事量が三倍になった。


施設で発見された五人の法的地位の問題、ミズノへの本格的な捜査の開始、バックアップシステムへの外部介入に関する追加調査。全てが同時に動き始めた。


その中で、カノには別にやらなければならないことがあった。


ヤマシロ・コウのファイルを再度開いた。


三か月前に「原因不明」として閉じたファイルだった。


ヤマシロが残したノートは、カノの監査部門のサーバーに保管されていた。開示申請を経由せずに読んだため、正式な証拠としては登録されていなかった。


今の状況を考えると、ヤマシロのノートを正式に提出する必要があった。


E-441によって五人に起きた「微細な変化」——夢を見なくなった、親しい人の顔が一瞬知らない顔に見える——これらが何を意味するかを解明するために、ヤマシロの記録が必要になるからだった。


ヤマシロは四百三十一回の停止と復元を経て、自分に起きた変化を精密に記録していた。変化の内容、発生した回数、身体的な変化の項目、感覚の変化の項目。二十年にわたる個人観察の記録は、復元後の変化を追跡した唯一の系統的なデータだった。


だが、ヤマシロのノートを正式に提出すれば、カノが「原因不明」として処理した判断が問われる可能性があった。


あのファイルに「バックアップ消去」と書けば、ヤマシロは制度破壊者として永久記録に残る。


「原因不明」と書いたのは、カノがそうすることを選んだからだった。


ヤマシロが求めていたものが何かを、あのノートを読んで理解したからだった。


(消えることを、選んだ人間の記録を、制度への違反として残すことが正しいか)


カノはファイルを見た。


カーソルが原因欄で点滅していた。


今回は書き直す必要がなかった。「原因不明」は変えない。


ただ、ヤマシロのノートを別の形で提出することはできた。


匿名化した個人観察記録として、医療研究の資料として。制度への違反記録としてではなく、復元後の変化に関する唯一の長期観察データとして。


カノは申請書を書き始めた。


「復元後神経変化に関する長期個人観察記録の提出について」


資料の提供者は、匿名の提供者Aとした。


ヤマシロの名前は出さない。死亡理由も書かない。


ただ、その記録を、世界に残す。


それがカノにできることだった。



申請書を送信してから、カノはもう一つの作業に入った。


五人の対象者——施設で発見された五人と、現在も社会生活を送っている五人——それぞれの同期データを過去に遡って比較した。


E-441が発生した前後で、神経パターンにどんな変化があったかを調べた。


ミズノが送った外部コマンドによって、E-441の一歩手前の状態が引き起こされた案件でも、神経パターンに変化が生じている可能性があった。


夢を見なくなった。


妻の顔が一瞬知らない顔に見える。


これらの変化が、E-441のプロセスによって生じた副作用だとすれば、データに痕跡があるかもしれなかった。


一日かけてデータを分析した。


出た。


微細だったが、確実にあった。


E-441を引き起こすための外部コマンドが送られた際、対象者の神経パターンに意図しない変動が生じていた。E-441が完成した案件はより大きく、途中で止まった案件はより小さく、だが全件に同様のパターンがあった。


その変動の大きさは、ヤマシロが記録した「一回の停止・復元による変化」の三十倍から五十倍だった。


(一回の操作で、三十回から五十回分の変化が生じた)


夢を見なくなった理由がわかった。


妻の顔が一瞬知らない顔に見える理由がわかった。


それは本人の錯覚でも、思い込みでも、復元への不安から来る心理的な反応でもなかった。


実際に、変化していた。


変化は本物だった。


そして変化は、ミズノが意図的に引き起こしたものだった。



【五】モリ・シンジ



施設で発見されたカワムラが意識を取り戻したのは、搬送から三日後だった。


モリは連絡を受けて、病院に行った。


病室のドアの前で、少しの間止まった。


扉を開けた。


ベッドに男が座っていた。


三十九歳。モリが処理した日から、それ以上老いていなかった。長期鎮静の影響で顔色が悪かったが、意識は明確だった。


「カワムラさんですか」


「……はい」


「私はモリといいます。第二復元センターで技師をしています。あなたの復元を担当しました」


カワムラが、少しの間モリを見た。


「……担当した、ということは。あの日の」


「はい」


「処理した方が、私だったということですか」


「照合精度が99.74パーセントの方が、あなたでした」


「……私は、死んだんじゃないんですね」


「結果的には、そうなります」


カワムラが窓の外を見た。病室の窓から、秋の空が見えた。


「どれくらい経ちましたか」


「約二か月です」


「二か月」


「はい」


カワムラが天井を見た。長い時間をかけて、何かを確認しているような目だった。


「もう一人の私は」


「現在も社会生活を送っています」


「そうですか」


「……ご自身の感覚として、あなたはカワムラ・ケイイチですか」


カワムラがモリを見た。


「それを聞くのは、あなたにとって何か意味がありますか」


「私にとっては、あります。どちらを処理すべきだったかを、私はずっと確認できなかった。確認する方法が、処理した後にはないと思っていた」


「今は確認できますか」


「あなたと話すことで、少し近づけるかもしれません」


カワムラが少しの間、考えた。


「デュエルの日の朝、何を食べましたか」


「私はあなたのデータにアクセスする権限があります。確認すれば——」


「確認しないで答えてもらえますか。私の記憶が正しいかどうか知りたい」


モリは手元に資料を持っていなかった。


「……知りません。私はあなたの停止後に関わったので」


「そうですよね。私はトーストを食べました。卵も食べた。それは正確に覚えている。もう一人の私も同じことを覚えているはずです。同じ記憶を持つ二人が、今日から別の場所で生きていく。それが可能かどうかは、私にはわからないけれど」


「あなたは、もう一人のカワムラに会いたいですか」


カワムラが窓の外を見た。


「……わかりません。会うべきかどうか、考えがまとまらない」


「それは、今すぐ決めなくていいことです」


「そうですね」


モリは立ち上がった。


「一つだけ言わせてください」


カワムラが顔を向けた。


「私はあなたを処理した時、手順に従いました。照合精度の低い方を処理する、という手順に。あなたの照合精度は99.74パーセントで、もう一人は99.81パーセントだった。手順上はエラー体として処理することが正しかった。ただ——」


「ただ」


「あなたを処理した後から、最初の確認項目を始める前に、一秒間画面を見る習慣がつきました。何を確認しているのかわからないまま、それが続いていました。今日、あなたと話して、わかりました」


「何を確認していたんですか」


「あなたのことを、確認していたのだと思います。手順が正しかったかどうかを確認する方法がないまま、それでも確認しようとしていた」


カワムラが、少しの間、モリを見ていた。


「……私はあなたに怒っていません」


「怒る必要はありません。私は——」


「あなたのせいじゃない。それはわかっています。ただ」


「ただ」


「あなたに覚えていてほしかった、と思います。エラー体として処理した人間がいた、ということを。手順通りだったとしても」


「覚えています」モリは言った。「ノートに記録しています。半年前から、あなたの案件を含む全ての記録を」


カワムラが頷いた。


それだけで、二人の間の時間は終わった。


モリは病室を出た。


廊下に出た。


その時、初めて、最初の一秒が何だったかを完全に理解した。


確認する方法がない、ということは確認しなくていいということではなかった。


確認できないまま、確認し続けることが——それがあの一秒だった。



六日後、モリは二人のカワムラが同じ部屋にいる場面に居合わせた。


カノが調整した。施設側と医療側と捜査側の協議の場で、双方の同意を取った上で、対面が設定された。


部屋に二人が入った。


まず、施設から搬送された方のカワムラが入った。まだ回復中で、少し歩き方がぎこちなかった。


次に、復元センターから普通に退院して生活していた方のカワムラが入った。


二人が向かい合った。


同じ顔だった。


同じ体格だった。


同じ三十九歳だった。


部屋にいた全員が静かだった。


二人のカワムラが、互いを見ていた。


「……おはようございます」


施設から搬送された方が先に言った。


「おはようございます」


もう一人が答えた。


「私はカワムラ・ケイイチです」


「私もカワムラ・ケイイチです」


二人が同時に言った。


それから二人とも、少しだけ笑った。


笑い方まで同じだった。



対面の後、モリはカノとナガセと三人で廊下に出た。


「二人は、どうなるんですか」とナガセが聞いた。


「法的な手続きが進んでいます」カノが言った。「施設にいた方——便宜上、カワムラAとカワムラBと呼ぶとすれば、カワムラBは現在法的には存在しない人間です。IDを持たない。バックアップも持たない。複数体の生存に関する規定が整備されるまで、暫定的な措置が必要になります」


「整備されるまでどれくらいかかるのか」


「わかりません。前例がない」


「その間、カワムラBはどういう立場で生活するのか」


「それも、現在協議中です」


「……会社は」


「カワムラAの方は職場に復帰できます。カワムラBは——また別の手続きが必要です」


三人が沈黙した。


「一つわかったことがあります」モリが言った。


「何ですか」


「今日、カワムラAとBの照合精度を再測定しました。病院の医療チームに協力してもらって」


「結果は」


「カワムラAが99.71パーセント。カワムラBが99.83パーセントでした」


カノが動きを止めた。


「逆転した」


「二か月の時間で、逆転しました。AはBより照合精度が下がった。Bは二か月間、鎮静状態で変化が最小限に抑えられたため、照合精度が維持されました」


「……つまり、今測定すれば、処理すべきだったのはAの方だった、ということになる」


「手順書の基準に従えば、そうなります」


三人がその意味を考えた。


「手順書の基準が、時間によって変わる」とナガセが言った。「測定のタイミングで、どちらが本物かが変わる」


「照合精度は瞬間の数値だということが、今回の件で明確になりました」モリが言った。「瞬間の数値を根拠に処理の判断をすることの、限界がある」


「だから、あの手順書には意味がなかった」


「意味がないのではなく——唯一の根拠として使うことに、限界があった」


カノが端末を開いた。


「この測定結果を報告書に加えます。手順書の改訂が必要だという根拠として」


「改訂を求める具体的な内容は」


「照合精度だけに依存しない判断基準の確立。複数回の測定による平均値の使用。そして——」


カノが少し止まった。


「ヤマシロのデータと組み合わせた、長期変化の予測モデルの導入を提案します」


モリが顔を上げた。


「ヤマシロさんの記録を」


「匿名化した上で、研究資料として提出しました。四百三十一回の変化記録は、今まで存在しなかった長期データです。これを基に、復元後の変化が個人差の範囲内かどうかを判断するモデルが作れる可能性があります」


「それがあれば」


「夢を見なくなったとか、顔が一瞬変わって見えるという変化が、どの程度のことなのかを、外部から評価できます。今は評価する基準がない。基準があれば、対応もできる」


モリはカノを見た。


「ヤマシロさんは、それを望んでいたんでしょうか」


「望んでいたかどうかは、わかりません。ただ、あの人は二十年間記録し続けた。記録することをやめなかった。記録が残れば、使われる可能性があると知っていたかどうかに関係なく——残ることには意味があった」


「……そうかもしれません」



【六】ナガセ・ユイ



ミズノの捜査が本格化した翌週、ナガセのもとに珍しい依頼が来た。


依頼主は、カワムラBだった。


「デュエルの依頼ではありません。直接話を聞いてほしい」



病院の近くの喫茶店で向かい合った。


カワムラBはスーツを着ていた。法的には存在しない人間が、普通のスーツを着て喫茶店にいた。


「ミズノに関する情報があります。私が退職前に知っていたことで、退職後は話せなかったこと」


「なぜ今まで話せなかったのか」


「鎮静されていたから、物理的に」


「その前は」


「脅されていました。施設の存在をちらつかせて。自分が施設に送られた経緯は記憶にないが、退職後に、ミズノから『あなたの記録は私が持っている』という連絡が来ていた。意味がわからなかった。今は、わかります」


「何を知っていたのか」


カワムラBがテーブルの上に手を置いた。


「ミズノの会社は、E-441の技術を三年前から外部に売っていました。買い手は複数いる。復元センターへの外部アクセス技術と、プラナリア幹細胞の過剰活性コードをセットで販売している。私はその取引の経理を担当していました」


ナガセは端末を取り出した。


「記録してもいいですか」


「どうぞ」


「買い手は誰ですか」


「複数います。企業、個人、一部は国外の組織です。資料があります」


カワムラBが封筒を差し出した。


「これは捜査機関に提出するべき資料です。私に代わって届けてもらえますか。私は現在、法的に存在しない人間なので、窓口がない」


ナガセは封筒を受け取った。


「なぜ私に頼むのか」


「あなたが私を停止させた。正確にはAを停止させた。あなたが戦ったことで、捜査が動いた。あなたに渡すのが一番届くと思った」


「……わかりました」


「もう一つお願いがあります」


「なんですか」


「カワムラAに会いましたか」


「対面の場には居合わせました」


「……Aに伝えてほしいのですが、伝えるべきかどうか判断を任せます。デュエルの日の朝、私はいつもの定食屋ではなく、駅のベーカリーでトーストを買いました。店員にコーヒーを勧められて断った。それだけの話です。Aも覚えているはずです。同じ記憶があるはずだから。ただ、二人が同じ記憶を持っているということを、お互いに確認できることが——何か意味があるかもしれないと思って」


ナガセは少し考えた。


「伝えます」


「ありがとうございます」


カワムラBが立ち上がった。


「一つ聞いてもいいですか」


「どうぞ」


「あなたはこの仕事をしていて、正解かどうかの判断ができますか」


ナガセが少しの間、答えなかった。


「今は少しできます」


「どうやって判断するのか」


「試合前に相手のバックアップを確認することを、私の条件にしました。バックアップが確認できた相手とだけ戦う。それが今の私の基準です。小さい基準ですが、なかった時より、ある方がいい」


「それを持つようになったのはいつですか」


「アサノ・タロウという人間と戦った時です」


「どんな人間でしたか」


「バックアップを消去しようとしていた人間でした。バックアップが怖いと言った。怖いなら、生きていると私が言いました。その言葉を言えたのは、確認したからです」


カワムラBが静かに聞いていた。


「確認したから、言えた」


「確認したから、戦えた。確認したから、翌日に戻ってくると信じて、停止させることができた」


「……なるほど」カワムラBが頷いた。「小さくない基準だと思います」


カワムラBが喫茶店を出て行った。


ナガセは封筒を手に持ったまま、少しの間テーブルの前に座っていた。


手元に、ミズノの取引記録がある。これが捜査機関に届けば、ミズノの件は完全に動く。


ナガセは立ち上がった。


カノに連絡を入れた。



その夜、ナガセはカワムラAに連絡を取った。


電話した。


「カワムラAさんですか」


「……ナガセさん。はい」


「一つ伝えたいことがあります。直接でなく電話でも構いませんか」


「構いません」


「あなたがデュエルの日の朝、いつもの定食屋ではなく、駅のベーカリーでトーストを買ったこと。店員にコーヒーを勧められて断ったこと。カワムラBから、これをあなたに伝えてほしいと頼まれました」


電話の向こうが静かになった。


長い沈黙があった。


「……覚えています」


「そうですか」


「同じです。私も、コーヒーを断った。同じことを」


「はい」


「B、は元気にしていますか」


「回復しています」


「そうですか。……ありがとうございます」


電話が切れた。


ナガせは端末を置いた。


同じ記憶を持つ二人に、それが確認できた。


それが何を意味するかは、まだわからなかった。


ただ、確認できた、という事実は残った。



【七】カノ・リツコ



ミズノへの起訴状が出たのは、カワムラBの情報が届いてから四日後だった。


バックアップシステムへの不正アクセス、複数体の違法な生体保管、E-441技術の不正販売、これらが複合的に起訴された。買い手への捜査も連動して始まった。


カノはその報告を確認してから、ヤマシロのファイルを最後にもう一度開いた。


「原因不明」という記録は変えない。


ただ、付記欄に一行だけ追加した。


「提供資料:復元後神経変化に関する長期個人観察記録(提供者A、匿名)。当事案との関連性について詳細は別途記録。」


保存した。


ヤマシロの記録は、これで制度の外に残る。犯罪記録としてではなく、一人の人間が二十年かけて積み上げた観察の記録として。


カノは画面を閉じた。



三日後、研究機関からの連絡があった。


匿名提供資料を受け取ったという確認と、「この記録を基に、復元後神経変化の長期モデルを構築したい」という依頼だった。


データの提供者の身元を問われた。


カノは「提供者の意向により開示できない」と返した。


それだけだった。


ヤマシロは制度を破壊しようとしたのではなかった。


制度が追いついていない場所に、先に行ってしまったのだと、今なら言える。


追いつくことができるかどうかは、これからの話だった。



【八】五人の証言



施設から搬送された五人が、それぞれ意識を取り戻した後、カノは順番に話を聞いた。


全員が、退職前にミズノから何らかの情報を得ていた。退職の理由も、全員が「会社の不正行為を知ったから」だった。


不正行為の内容は重複していた。E-441技術の外部販売、バックアップシステムへの不正アクセスの請負業務、そして——一件だけ、別の内容があった。


イケガミ・ツヨシが語った内容だった。


「私が知っていたのは、E-441が自然発生だけではないということです。ミズノが意図的に引き起こす前から、特定の条件下でE-441は起きうる。その条件を、私は知っていました」


「どういう条件ですか」


「特定の薬剤との相互作用で、プラナリア幹細胞が過剰活性する。医療機器の制御システムと組み合わさると、復元中の一瞬に複数体が生じる。ミズノはその研究を、最初は善意で始めていたんです」


「善意で」


「E-441は怖い事象です。偶発的に発生したら、施設も技師も対応できない。だから、発生のメカニズムを理解して、防ぐための研究をしていた。最初は」


「それが変わった」


「発生させる方法がわかれば、利用できる、と思った人間がいた。ミズノが最初にそう思ったのか、外部からそう提案されたのかは、私にはわからない。ただ、気づいた時には、研究が別の方向に動いていた。私はそれを上に報告しようとした。そして停止させられた」


カノはメモを取りながら聞いた。


「夢を見なくなったと、以前話してくれましたね」


「はい。今も見ないです」


「外部コマンドによって引き起こされた神経変化の副作用だと、分析で判明しました。E-441を引き起こすコマンドが、プロセスの中で神経パターンに意図しない影響を与えていた。夢に関わる睡眠中の神経活動のパターンが、わずかに変化した可能性があります」


「……治りますか」


カノは少しの間、答えを探した。


「研究機関が現在分析中です。変化が固定されているか、可逆性があるかが、まだわかっていません。ただ、あなたの変化は確認されました。原因も特定されました。あなたの感覚は正しかった」


イケガミが少しの間、窓を見た。


「正しかった、という言葉が——何か意味を持つかどうか、まだわかりません。夢を見ない夜が続いているから。ただ、理由がわかったのは——少し違います。何かが違う気がしていた時、証明できないから黙っていた。でも、違いは本当にあった」


「あなたが黙らずに話してくれたことで、今日ここまで来ました」


「施設のベッドで寝ていた二か月を、そう使ってもらえるとは思っていませんでしたが」


イケガミが小さく笑った。



ナカムラ・ソウイチにも、カノは会いに行った。


「妻の顔が一瞬知らない顔に見える変化は、今もありますか」


「あります。ただ——」


ナカムラが少し考えた。


「最近は、その一瞬の後、ちゃんと妻の顔に戻ります。戻る、ということがわかってきた。最初は一瞬が怖かった。今は、一瞬があって、戻る、と思っています」


「変化が固定されているかどうかの研究が、これから始まります」


「固定されていたとして——それが自分に何を意味するかは、自分で考えます。妻の顔が一瞬見知らぬ人に見えても、戻ってくるならそれでいいと、今は思っています」


「そうですか」


「あなたは今回の件で、何かスッキリしましたか」


カノが少し笑った。


「スッキリとは、少し違います。でも、確認できたことがある」


「どんなことですか」


「記録が間に合った、ということです」


ナカムラが頷いた。



【九】モリ・シンジ



カワムラBとAが同じ部屋で話した後日、モリは二人に別々に話を聞く機会を作った。


医療チームの協力を得て、双方の同意を取った上で行ったインタビューだった。


目的は一つだった。


照合精度以外の判断材料を探すこと。


二人に同じ質問をした。


「子供の頃、何が好きでしたか」


カワムラAが答えた。「昆虫が好きでした。カブトムシをよく捕まえていた」


カワムラBが答えた。「昆虫が好きでした。同じことを言うかもしれませんが、カブトムシをよく捕まえていた」


「お母さんの料理で、一番好きだったものは」


A:「肉じゃがです。週に一度は作ってくれた」

B:「肉じゃがです。A……もう一人の私も、同じことを言うと思います」


「今、怖いことはありますか」


A:少し間を置いてから「Bが自分よりカワムラに近いと思われることです。今の私の照合精度がBより低いと聞いたから」


B:少し間を置いてから「Aが自分を本物じゃないと思うことです。Aは普通の生活を続けてきた。私は二か月、何もできなかった」


モリはその回答を記録した。


二人は全ての質問に対して、ほぼ同じ答えを出した。記憶は一致していた。感情の傾向も似ていた。ただ、今現在感じていることは、二か月の差によって微妙に違っていた。


「二人の質問を終えて、私の考えをお伝えしてもいいですか」


二人に別々に伝えた。


「照合精度は瞬間の数値です。今日の測定と来月の測定で、数値は変わります。どちらが本物かを照合精度で決めることには、限界があります。記憶は一致している。感情の傾向も同じです。二か月の時間の差がある。ただ、二か月の差は、同じ人間が二か月の時間を別々に生きた差でもあります」


AもBも、同じ顔で聞いていた。


「どちらが本物か、という問いに、私は答えられません。ただ——二人とも、カワムラ・ケイイチだと、今の私は思っています」


Aが言った。「どちらも本物、ということですか」


「どちらかが偽物である根拠が、測定上も記録上も見当たりません。二人が存在しているという事実が、今の現実です」


Bが言った。「法律はそう言っていない」


「法律は追いついていません。追いつくまでの時間があります」


「その時間の間、私たちはどうするのか」


「それは二人が決めることです。私が決められることではない」


BとAに同じことを言った。


二人の反応は少しだけ違った。


Aは「……わかりました」と言って、少し目を伏せた。


Bは「それで十分です」と言って、頷いた。


どちらが正しいかではなかった。


二人がそれぞれの時間の中で、それぞれの答えを出した。


モリはその差を、ノートに記録した。



施設への外部コマンド送信に使われた端末の解析が完了したのは、その翌週だった。


コマンドの送信源が確定した。ミズノの会社のシステムから、複数の中継を経由して送信されていたことが、技術的に証明された。


証拠が揃った。


モリはその報告を受けた時、カノに電話した。


「E-441の処理が、誰かによって意図的に引き起こされたものだということが証明されました」


「はい」


「私の署名した確認書は——」


「手順通りの処理をした、という記録は変わりません。ただ、その手順が外部の操作によって誘発されたという経緯が、追記されます」


「私の判断の余地がなかった、という記録になるのか」


「そうなります」


モリは少し間を置いた。


「……それで、私はどう思えばいいのか、まだわかりません」


「どう思えばいいかを誰かに決めてもらう必要はありません」


「そうですね」


「一つだけ確認させてください」


「なんですか」


「モリさんが、確認できないまま確認し続けたこと。最初の一秒。それが今回、何かに繋がりましたか」


モリは少しの間考えた。


「……繋がったかどうかは、わかりません。ただ、カワムラBと話しました。彼は私に、覚えていてほしいと言いました。私はノートに記録し続けていた。記録があったから、覚えていることができた。その意味では——一秒は、無駄ではなかったと思います」


「そうです」


電話が切れた。


モリは翌朝の案件のリストを開いた。


七件。全件、デュエルによる停止。バックアップの状態は全件「良好」。


最初の確認項目を開く前の一秒があった。


その一秒に、今は意味がついていた。


外部からの干渉がないかを確認する一秒。


確認できる保証はない。ラグが出ていなくても、干渉が来ている可能性はある。それでも見る。


確認できないまま、確認する。


それが自分の仕事に追加された一項目だった。


確認項目は十七から十八になった。


モリは最初の案件を開いた。



【十】カノ・リツコ



ミズノの起訴から一か月が経った木曜日、カノはヤマシロのファイルを最後に確認した。


「原因不明」は変えていない。


付記欄に追加した一行は残っている。


提供者Aのデータは、研究機関に届いた。


研究機関から最初の中間報告が来た。


「提供資料に基づき、復元後神経変化の長期モデルの初期フレームを構築した。回数に比例した累積変化量の推定式を試算中。今後、施設ごとのデータと照合することで、復元の標準的な変化範囲を定義できる見込みがある」


その一段落を読んだ時、カノはヤマシロが書いた最後の文章を思い出した。


「この記録を読んだ人間は、自分のバックアップを確認してみてほしい。できれば、昨日の自分のデータと比較して。どこかに0.0001パーセントの差異がある。それは誤差の範囲内だ。でも誤差は積み重なる」


誤差は積み重なる。


それがわかったことで、何かが変わる可能性がある。


変わらないかもしれない。ヤマシロが変化に耐えられなくなったように、耐えられない人間は今後も出てくるかもしれない。制度が追いつかない問題は、別の形でまた現れるかもしれない。


ただ、今は、データがある。


モデルがある。


問いが立った。


それで十分かどうかはわからない。ただ、三か月前に比べれば、世界は少し違う場所にいる。



その日の夕方、ナガセから連絡が来た。


「報告があります。アサノ・タロウが、復元後の経過確認に来たそうです。兄のコウジから連絡がありました」


「状態は」


「良好だったそうです。兄と話したと言っていた」


「そうですか」


「それだけです」


「ありがとうございます」


「一つ聞いていいですか」


「どうぞ」


「あなたは、ヤマシロという人について、どう思いましたか。今となっては」


カノは少し考えた。


「先に行き過ぎた人だと思っています。制度が追いついていない場所まで、先に行ってしまった。追いつけなかった。今も追いついていない。でも、追いつこうとする材料が残った」


「残したのは、あなたが見つけたからですか」


「見つけなければ残らなかったかもしれません。ただ、あの人が記録していなければ、見つけるものがなかった。どちらが先かは言えません」


「……私は今回、戦うことで何かができたと思っています。確認する基準を持って戦った。そのことは、今後も続けられる」


「続けてください」


「カノさんは」


「記録し続けます。間に合わないことが今後もある。それでも記録する。間に合った時に、使えるものがあるように」


電話が切れた。


窓の外で、街が動いていた。


誰かが停止し、誰かが復元されていた。


ヤマシロが記録した変化の話が、今頃どこかの研究者の端末で開かれている。


カワムラBが、法的に存在しないまま今日も生活している。


イケガミが、夢のない夜を過ごしている。


ナカムラが、妻の顔の一瞬の知らない顔を、戻ってくるものとして見ている。


モリが、十八番目の確認項目を踏んでいる。


ナガセが、次の試合の前にバックアップを確認している。


カノは新しいフラグが来ていないかを確認した。


今日は三件。全件、通常案件だった。


確認を始めた。


記録が続いていた。



【終章】



三か月後、法律が一本改正された。


「同一IDを持つ複数個体の生存が確認された場合、双方の法的地位を仮認定し、調停委員会による個別判断を経て最終決定する」という条項が追加された。


前例のない状況への、前例のない対応だった。


カワムラAとカワムラBは、調停委員会に申請を出した。審議には時間がかかる見込みだった。


二人は待つことにした。


その間も、二人は別々に生活した。


Aは元の職場に戻った。


Bは別の職を探した。


週に一度、二人は電話をした。


同じ記憶を持つ二人が、その先の時間を別々に積み重ねていく。積み重ねていくほど、二人は少しずつ違う人間になっていく。


それが良いことなのかどうかは、まだわからなかった。


ただ二人ともそれを、止めなかった。



E-441の再発防止のための技術的改修が、全国の復元センターで順次実施された。


端末への外部アクセスを検知するシステムが導入された。


モリが担当した第二復元センターには、最初に改修が入った。


改修後、モリは最初の案件の前に一秒間、画面を見た。


システムが「外部アクセスなし」を示していた。


モリはその表示を確認した。


確認した上で、最初の確認項目を始めた。


確認項目は十八から、今日からは十九になった。


新しい項目:《外部アクセス検知システムの正常稼働確認》。


施設からの通達で追加された公式の項目だった。


モリが一秒で確認していたことが、公式の手順になった。


それだけのことだった。


それで十分だと、モリは思った。



ナガセは翌月も、翌々月も、次の依頼の前にバックアップを確認した。


確認できた案件を受けた。


確認できない案件は断った。


断ったことで揉めた依頼主が一件いた。


「バックアップの確認は私の条件です。条件を外すなら依頼を受けません」


揉めたまま、依頼はキャンセルになった。


その依頼主が別のデュエリストに流れたかどうかは、ナガセは確認しなかった。


確認できないことを、抱えたまま、次の案件に進んだ。


それがナガセの仕事だった。



ヤマシロ・コウの長期観察データを基にした復元後神経変化モデルの論文が、医療研究誌に掲載されたのはその半年後だった。


著者は研究機関の名前だった。提供者Aについての記述は「匿名の長期個人観察記録」という一行だけだった。


カノはその論文の掲載を確認した。


ヤマシロのファイルを最後にもう一度開いた。


「原因不明」という記録が残っていた。


付記欄の一行が残っていた。


何も変えなかった。


変えなくてよかった、と思った。


あの判断は間違っていなかった。


間違っていなかった、ということを確認できた。


確認するのに、八か月かかった。


それで十分だと、カノは思った。


端末を閉じた。


新しいフラグが来た。


確認を始めた。


今日も、記録が続いていた。

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