表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
死と復元を繰り返した私たち  作者: 御影のたぬき


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

3/5

複製

 モリ・シンジが復元技師になったのは、消去法だった。


 大学を出た年に就職活動をして、三社から内定をもらった。一つは営業職、一つは事務職、一つは復元センターの技術補助員だった。営業は向いていない気がした。事務は退屈そうだった。復元センターは、少なくとも毎日何かが起きると思った。


 それだけの理由で選んだ仕事を、二十年続けていた。


 第二復元センターは、市街地の中心部から少し外れた場所にあった。清潔な外観と、目立たない立地。派手さのない建物だったが、内部は精密機械の集積だった。停止した肉体を受け入れ、バックアップデータと照合し、神経パターンを再接続し、細胞の再生プロセスを管理し、最終確認を経て「本人」として送り出す。


 その一連の工程を、モリは二十年間担当してきた。


 一日の復元数は平均で三十件から五十件。多い日は八十件を超える。ほとんどはデュエルによる停止で、残りは事故や病気による緊急停元だった。作業はルーティンだった。手順は決まっていた。確認項目は十七あり、十七をすべて通過した個体が「本人」として出口へ送られる。


 モリはその手順を、一度も間違えたことがなかった。


 間違えようがなかった。手順は明確で、判断の余地がほとんどなかった。


 それが良いことなのかどうかを、二十年間考え続けていたが、答えは出ていなかった。



 その日は、特に予兆がなかった。


 午前の復元が十四件終わり、昼の休憩を取り、午後の最初の案件に入った。


 対象者はカワムラ・ケイイチ、三十九歳、会社員。デュエルによる停止。停止時刻は前日の17時22分。最終同期は停止の二時間前。バックアップのデータ品質は「良好」。担当技師はモリ。手順通りだった。


 肉体の受け入れが完了し、バックアップデータとの照合に入ったところで、端末がエラーを返した。


 初めて見るエラーコードだった。


《E-441:複数体再生検知》


 モリは端末を見直した。同じコードが表示されていた。


 隣の作業台にいた後輩技師のイケダが、「どうしました」と声をかけてきた。


「E-441が出た」


「……え」


「聞いたことあるか」


「ないです。マニュアルに載ってますか」


 モリはすでにマニュアルを検索していた。E-441の項目が出てきた。


《プラナリア幹細胞の過剰活性により、複数の個体再生が検知された状態。本項目は理論上の想定として記載されており、実例は現時点では確認されていない。処理手順は付属資料E-441-Aを参照》


「理論上の想定」と書いてあった。


 実例は現時点では確認されていない、と書いてあった。


 モリは付属資料E-441-Aを開いた。



 付属資料E-441-Aは、三ページで終わる短い文書だった。


 冒頭に「本手順書は理論上の想定に基づき作成されており、実際の事象とは異なる場合がある」と但し書きがあった。


 手順は以下の通りだった。


 一、複数体の生命活動を確認する。

 二、バックアップデータとの照合精度を各体について測定する。

 三、照合精度の高い方を「正体」として特定する。

 四、照合精度の低い方を「エラー体」として処理する。

 五、処理後、正体を通常の復元手順に戻す。

 六、本事象を上位管理部門に報告する。


 処理、という言葉が一度出てきた。


 その言葉の定義について、文書には何も書かれていなかった。


 モリはイケダを見た。


「上位管理部門に連絡しろ」


「はい」


「それと、作業室を閉鎖する。他のスタッフは入れるな」


「わかりました」



 作業室の隣に、予備スペースがあった。通常は使わない部屋だった。モリはそちらを開放し、カワムラの案件をそこに移した。


 二つの作業台に、二体が並んでいた。


 どちらも同じ顔だった。


 三十九歳の男性。特徴のない顔立ちで、体格は中程度だった。現在どちらも生命活動を維持している。心拍数はほぼ同値、体温は正常範囲内。見た目の差異は測定上では検出されなかった。


 モリはバックアップデータとの照合を始めた。


 照合というのは、神経パターンの一致率を測定する作業だった。バックアップに記録されているカワムラ・ケイイチの神経接続の重みと、実際の肉体の接続状態を比較する。通常の復元では、この一致率が99.7パーセント以上であれば「本人」として確認される。


 端末が数値を出した。


 一体目:照合精度 99.81パーセント。

 二体目:照合精度 99.74パーセント。


 0.07パーセントの差だった。


 手順書の指示は明快だった。照合精度の高い方が「正体」であり、低い方が「エラー体」だった。


 モリは数値を見つめた。


 99.81と99.74。


 どちらも通常の復元であれば「本人」として確認される水準だった。施設の規定では、99.7パーセント以上が「同一個体」だった。両者ともその基準を超えていた。


「エラー体」という言葉の定義が、この文書にはなかった。


 処理、という言葉の定義も。



 上位管理部門から担当者が来るまでに、四十分かかった。


 センター長のナカムラと、法務担当のオガワが来た。二人は端末の数値を確認し、マニュアルを確認し、互いに顔を見合わせた。


「前例はないんですよね」


 オガワが言った。


「マニュアルにそう書いてある」


「法的には——」オガワが端末を操作しながら言った。「『同一人物の複数体は法的人格を一つのみ認める』という規定があります。第三条の二十二項。ただし、複数体が生存している状態での適用事例は、これが初めてです」


「どちらが法的人格を持つのか」


「照合精度の高い方、という規定になっています。ただこれは死後認定の規定で——生存中の複数体への適用を想定したものではありません」


 ナカムラが腕を組んだ。


「手順書通りにやるしかない」


「センター長」


「処理対象はエラー体だ。エラーは技術的な問題だ。手順がある。手順通りにやれば、我々は規定に従ったことになる」


「規定に従ったことになる、ということと」


 モリが言った。ナカムラとオガワが顔を向けた。


「正しいことをした、ということは、同じことですか」


 部屋が静かになった。


 二体が、二つの作業台の上で、等しく呼吸していた。


「……モリ技師」ナカムラが言った。「あなたは二十年間、規定通りに仕事をしてきた。今日もそうしてください。それだけです」


 モリは端末を見た。


 99.81と99.74。


「わかりました」



 処理の手順は、具体的には書かれていなかった。


「エラー体を処理する」という一行だけが存在し、方法は技師の判断に委ねられていた。委ねられている、という言葉は正確ではないかもしれない。単に書かれていなかった、という方が正確だった。


 モリは二十年間の経験から、方法を選んだ。


 鎮静剤の投与、続いて心肺機能の段階的な停止。苦痛を伴わない。時間はかからない。それが最も適切だと判断した。


 二体のうち、照合精度が99.74パーセントの方がエラー体だった。


 モリは作業台に近づいた。


 エラー体のカワムラ・ケイイチが、目を閉じたまま、正常な呼吸をしていた。胸が規則的に上下していた。体温は36.8度。心拍数は74。健康な成人男性の数値だった。


 モリは手順を実行した。


 作業は十分で終わった。



 正体の方のカワムラが、三時間後に復元完了した。


 作業室から一般の回復室に移して、目が覚めるのを待った。


 カワムラが目を開いた時、モリは隣にいた。


「体の感覚を確認してください。右手を動かせますか」


「……はい」


「左手は」


「動きます」


「今日の朝、何を食べたか覚えていますか」


「……えっと、トーストを食べました。卵も」


「昨日の夕方、停止した状況は覚えていますか」


「デュエルです。会社のトラブルで。仲裁フィールドに行って」


「それ以降の記憶は」


「ないです。停止したんだと思います」


 通常の問答だった。通常の返答だった。


 モリは確認事項をすべて記録した。カワムラ・ケイイチ、復元完了。照合精度99.81パーセント。復元時刻、当日18時34分。問題なし。


「お疲れ様でした。今日は無理せず、明日から通常業務に戻ってください」


「ありがとうございます」


 カワムラが起き上がった。体のどこかを確認するように、両手を見たり、首を回したりした。停元直後によくある行動だった。


「何か違和感はありますか」


「……ないです。いつも通りです」


「では回復室でもうしばらく休んでから、退室してください」


 モリは作業記録を閉じた。



 その夜、モリは自分が何をしたかを繰り返し確認した。


 エラー体の照合精度は99.74パーセントだった。施設の規定では99.7パーセント以上が「同一個体」とされる。エラー体はその基準を0.04パーセント上回っていた。


 つまり施設の規定上、エラー体も「カワムラ・ケイイチ」だった。


 モリは手順書に従った。手順書には「照合精度の低い方をエラー体として処理する」と書いてあった。その通りにした。規定に違反していない。手順から外れていない。


 ただ。


 どちらを処理したか、を確認する方法が、今のモリにはない。


 照合精度は測定の瞬間の数値だった。測定のタイミングが数秒ずれれば、数値は変わる可能性がある。0.07パーセントの差は、測定誤差の範囲に収まる可能性がある。


 いや、そうは言えない。手順に従って測定した。その数値が出た。その数値に従った。


 だが。


 あの作業台の上にいた二体のどちらが、今回復室にいるカワムラなのか。


 モリは確認できない。


 処理した方が「エラー体」だったかどうかも、モリには確認できない。手順通りにやった。数値が高い方が残った。それは正しい。


 ただ、何かが正しくない気がした。


 その「何か」に名前をつけることが、モリにはできなかった。



 三日後、カワムラ・ケイイチが復元センターに来た。


 退院後の経過確認のための来訪だった。施設の規定で、三日後に必ず本人が来ることになっている。体の状態の最終確認と、精神状態の簡単なチェックを行う。


 担当はモリだった。


 カワムラが待合室に座っているのを、廊下のガラス越しに見た。


 三十九歳の男性。特徴のない顔立ち。スーツ姿。膝の上に手を置いて、窓の外を見ていた。


 モリは三秒ほど廊下に立っていた。


 それから診察室に入った。


「カワムラさん、どうぞ」


 カワムラが入ってきた。椅子に座った。


「体の調子はどうですか」


「問題ないです。翌日から普通に仕事もできました」


「睡眠はとれていますか」


「はい」


「食欲は」


「普通です」


 問診の項目を一つずつ確認した。カワムラの返答はすべて正常範囲内だった。


 最後の項目を終えて、モリはペンを置いた。


「何かご不明な点や、気になることはありますか」


 カワムラが少し考えた。


「一つだけ聞いてもいいですか」


「どうぞ」


「復元って、いつも同じですか」


 モリは動きを止めた。


「どういう意味でしょうか」


「前に一度、デュエルで停止したことがあって。その時と比べて、今回は——何かが少し違う気がする。うまく言えないんですけど。違和感というほどでもないし、具体的に何がとは言えないんですけど」


 モリは端末の画面を見た。確認済みの項目が並んでいた。すべて正常値だった。


「復元の過程で、わずかな個人差が生じることはあります。ただ、測定上の問題は確認されていません。ご安心ください」


「そうですか」


「他に気になることは」


「……ないです。ありがとうございました」


 カワムラが立ち上がった。


 ドアの方へ歩いていく。その背中を、モリは見ていた。


(何かが少し違う)


 カワムラの言葉が、頭の中に残った。


(測定上の問題は確認されていません)


 そう言った。それは本当のことだった。測定上の問題は、確認されていなかった。



 その夜、モリは手順書を再度読んだ。


 E-441-Aの三ページ。付属資料の付属資料まで開いた。


 一番最後のページに、一行だけ追記があった。本文の活字と違う、やや小さいフォントで書かれていた。


「本手順書は《連続体文明(Continuum)》基準委員会による承認済みの理論的手順である。実施後の倫理的評価については別途検討中」


「別途検討中」という言葉が、モリの目に引っかかった。


 検討中、ということは、まだ決まっていない、ということだった。


 モリはその一行を閉じた。


 二十年間、規定通りに仕事をしてきた。規定が正しいと思ったからではない。規定が正しいかどうかを考えても、自分には変えられないからだった。変えられないものを考えても仕方がない。だから手順を踏んで、確認して、送り出してきた。


 三十件。五十件。八十件。


 その中に、カワムラが一件あった。


 一件のカワムラが、二体になった。


 モリは一体を処理した。


 残ったカワムラは今夜、どこかで眠っている。


 処理されたカワムラは、存在しない。


 どちらが「本物」だったかは、誰にも確認できない。


(確認する方法がない、ということは、確認できないということだ。確認できないということは、わからないということだ)


 モリはそこで考えを止めた。


 わからないことを考えても、昨日の判断は変わらない。変わらないことを考え続けることに、意味があるかどうかもわからなかった。


 ただ、眠れなかった。



 翌日、センターに出勤すると、イケダが待っていた。


「昨日の件、上に報告書を出したんですが——センター長から確認が入りまして。モリさんにも署名をもらいたいと」


「何の署名だ」


「手順通りに処理した、という確認書です。センター側の法的責任の所在を明確にするための書類だそうで。ただの手続きです」


「ただの手続き」


「はい。中身は『E-441発生事案について、担当技師が定められた手順に従い処理を実施した』という一行です」


 モリは書類を受け取った。


 一行だった。イケダの言った通りの文面だった。


 署名欄があった。


 モリはペンを取った。


 手順通りに処理した。それは本当のことだった。


 署名した。


「ありがとうございます」イケダが書類を受け取った。「では今日の午前の復元が八件入っています。確認いただけますか」


「わかった」


 端末を受け取った。八件の対象者情報が並んでいた。全員、デュエルによる停止。バックアップの状態は全件「良好」。手順は十七項目。


 モリは最初の案件を開いた。



 昼休みに、モリは食堂の端の席に座った。


 食事を半分ほど食べたところで、手が止まった。


 考えていたのは、カワムラの「何かが少し違う気がする」という言葉だった。


 復元後の違和感は、珍しくない。バックアップの最終同期から停止までの間に経験したことは、復元後には記憶として存在しない。その「空白」が、感覚のずれとして残ることがある。カワムラの違和感はそれだと説明できる。


 説明できる、が。


 あの「何かが少し違う」が、自分が処理された方のカワムラだったとしたら。


 照合精度は測定誤差の範囲だったかもしれない。本当の「正体」は処理された方で、残ったのは「エラー体」だったかもしれない。その場合、カワムラが感じた「違和感」は、自分が本物のカワムラではない、という感覚から来ていたかもしれない。


(かもしれない、ばかりだ)


 モリは箸を置いた。


「かもしれない」で埋め尽くされた考えを、続けることに意味があるかどうかが、わからなかった。


 ただ、「かもしれない」を止める方法も、なかった。



 午後の最初の復元案件に入りながら、モリは一つのことを考えていた。


 自分が二体になったとしたら、どちらが正体だと思うか。


 照合精度が高い方が自分だ、と言えるか。


 言えない気がした。


 高い方も低い方も、今朝まで同じ人間だった。同じ記憶を持ち、同じ経験をして、同じ朝に停止した。照合精度の0.07パーセントの差は、停止の瞬間の偶然か、測定のタイミングか、それとも本当に意味のある差なのか。


 モリには判断できない。


 だが手順書は言う。高い方が正体だ。


 手順書は二十年間、モリの判断を代行してきた。手順があるということは、判断しなくていい、ということだった。それがこの仕事の楽なところだった。


 今日はじめて、それが楽なのではなく、見ないようにしているのかもしれない、と思った。


 午後の案件が正常に完了した。


 確認項目は十七。全項目を通過した個体が出口へ送られた。


 何も問題はなかった。



 一週間が過ぎた。


 カワムラの件は報告書として処理され、センター内の記録に残り、基準委員会に送られた。基準委員会からの返答は「手順通りの処理を確認した、問題なし」だった。


 問題なし、という言葉をモリは繰り返し確認した。


 問題なし。


 問題なし。


 問題がなかったとすれば、何かが間違っていた可能性がある、という感覚はどこから来るのか。感覚が間違っているのか。それとも「問題なし」という評価が間違っているのか。


 判断する基準を、モリは持っていなかった。


 二十年間、手順を踏んできた。手順が基準だった。


 手順の外側に何かがあるとして、それを判断するための基準を、モリは持っていなかった。



 十日後の朝、モリが出勤すると、待合室にカワムラがいた。


 定期経過確認の二度目だった。十日後と一か月後に設定されている。


 モリは廊下で少し止まった。


 昨日まで、この日が来ることを知っていた。だが廊下で止まると思っていなかった。


 診察室に入った。カワムラを呼んだ。


「お疲れ様です。体の調子はどうですか」


「変わりないです。ごく普通に生活しています」


「睡眠は」


「とれています」


「食欲は」


「問題ないです」


 項目を一つずつ確認した。全項目、正常だった。


「先日話していた『何かが少し違う』という感覚は、今も続いていますか」


 カワムラが少し考えた。


「……いや、もうないです。あれは最初の一日か二日だけでした。今は何ともない。普通です」


「そうですか」


「復元って、毎回そういう違和感はありますか」


「個人差があります。最初の数日に感じて、その後消える方は多いです」


「そういうもんですか」


「そういうものです」


 カワムラが頷いた。それ以上は聞かなかった。


 最後に「何かご質問は」と聞いた。


「ないです。ありがとうございました」


 カワムラが立ち上がった。椅子を軽く戻して、ドアを開けた。


「ありがとうございました」


 去っていく背中を、モリは見ていた。


 特に変わったところはなかった。健康な成人男性の後ろ姿だった。


(これがカワムラ・ケイイチだ)


 そう言える根拠は、照合精度99.81パーセントという数値だった。


(これがカワムラ・ケイイチだ、という確認を、誰かにしてもらう方法はない)


 そう言える根拠も、今のモリにはなかった。


 廊下が静かだった。



 午後の復元が始まった。


 最初の案件は、デュエルによる停止、三十二歳の男性、バックアップの状態「良好」だった。


 確認項目が十七、あった。


 モリは最初の項目から始めた。


 端末の数値を確認し、照合精度を測定し、神経パターンの再接続を確認した。数値は正常だった。


 十七項目を順番に通過した。


 全項目が完了した。


 この男性は「本人」だった。測定上は。


 モリは送り出しの手続きを完了した。回復室に移し、目が覚めるのを待った。


 次の案件に移った。


 次も、デュエルによる停止だった。四十六歳の女性。バックアップの状態「良好」。


 確認項目十七。


 モリは始めた。


 E-441は出なかった。


 この日も、翌日も、その翌日も出なかった。


 出ないかもしれない。二度と出ないかもしれない。理論上の想定が一度だけ起きて、終わったかもしれない。


 だがモリは、最初の確認項目を始める前に、一秒だけ画面を見る時間が生じるようになった。


 以前はなかった一秒だった。


 何を確認しているのかは、自分でもわからなかった。


 確認して、始める。


 それだけだった。



 一か月後、カワムラの最後の経過確認があった。


 体の状態は異常なし。精神状態も正常範囲内。違和感は完全に消えた、とカワムラは言った。


「これで最後の確認になります。以後は、何か気になることがあればいつでも来てください」


「わかりました。お世話になりました」


 カワムラが頭を下げた。


 モリも頭を下げた。


 カワムラが出て行った。


 センターのドアが閉まる音がした。


 モリは記録を閉じた。


 今日の午後の案件が、まだ三件残っていた。


 端末を開いて、最初の案件を確認した。デュエルによる停止。バックアップの状態「良好」。照合精度の測定に入る前に、一秒間、画面を見た。


 その一秒が何なのかを、モリはまだ言語化できないでいた。


 言語化できないまま、始めた。


 今日もここから始める。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ