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死と復元を繰り返した私たち  作者: 御影のたぬき


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戦績

 ナガセ・ユイが初めて停止したのは、十六歳の春だった。


 相手は同じ学年の男子で、体格は倍近くあった。理由は些細なことだった。教室の席順が気に入らないと言った男が、隣に座っていたナガセに「どけ」と言った。ナガセは「どかない」と言った。それだけだった。


 停止から復元まで、十九時間かかった。


 復元センターのベッドで目を覚ました時、最初に思ったことは「腹が減った」だった。次に「あいつに勝てなかった」だった。怒りがあった。悔しさがあった。だが停止前の痛みの記憶はなく、恐怖の記憶もなかった。あったのは、負けたという事実だけだった。


 母親が迎えに来た。顔を見るなり泣いた。ナガセは「腹が減った、何か食べたい」と言った。母が「信じられない」と言った。ナガセには、何が信じられないのかが本気でわからなかった。



 三か月後、ナガセはジムに通い始めた。


 動機は単純だった。次に「どけ」と言われた時に、自分から「どかせる」側になりたかった。それだけだった。


 ジムの師匠は、カンベという五十代の元プロデュエリストだった。右腕に義体を使っていた。現役時代に実弾で吹き飛ばされたと言っていた。復元で肉体は戻ったが、その右腕を使いたくないという理由で義体を選んだ、と。


「なんで戻した腕を使わないんですか」


「戻した腕は、俺の腕じゃない気がしてな」


「同じ腕のはずでしょう」


「同じはずだな」


 それだけ言って、カンベは砂袋を蹴った。義体の右腕が、砂袋に深々とめり込んだ。


 ナガセはその日から毎日ジムに通った。



 プロになったのは二十歳の時だった。


 最初の数年は下積みだった。企業間の小規模な契約紛争、個人間の貸借トラブル、組合の内部調停。依頼主から指定されたターゲットと戦い、勝てば報酬を受け取り、負けても翌日には復元されて次の仕事を受ける。それを繰り返した。


 この仕事に向いている人間と向いていない人間の差は、停止への慣れではないとナガセは早いうちに気づいた。停止への慣れは、回数を重ねれば誰でも身につく。


 差があるのは、停止後の「空白」の処理だった。


 停止から復元まで、平均で十二時間から二十四時間かかる。その間、意識はない。記憶は途切れる。昨日の夕方に停止したなら、次に目を覚ます時には翌日の昼か夕方になっている。


 その空白を「ただの空白」として処理できる人間と、「失われた時間」として処理する人間がいた。


 ナガセは前者だった。


 空白は空白だった。寝て起きたのと変わらない。記憶はどうせ引き継がれる。戻ってきた体は昨日と同じ体だ。だから何でもない。


 それが強さになった。



 三十一歳になった今、ナガセの戦績は204勝17敗だった。


 プロデュエリストのランキングで、現在第十二位。上位十人はほぼ固定されており、トップ五は軍事訓練を受けた元兵士か、身体強化を最大限に施した専門家集団だった。ナガセのような「純粋な技術職」が十二位まで来ていること自体が、業界では珍しいと言われていた。


 事務所のマネージャー、ハラダが言う通りだった。


「あなたの強みは回転率です」


「回転率」


「停止を恐れないから、試合のテンポが速い。相手が一手考える前に、あなたはもう三手動いている。それが勝因の七割を占めています」


 ナガセには、それが「強み」として語られることが少し奇妙だった。停止が怖くないのは、怖くないのではなく、怖い理由がないからだった。翌日には戻ってくる。戻ってきた自分は昨日と同じだ。それだけのことだった。


「七割がそれなら、残りの三割は」


「素の反射神経と判断力です。これはもう才能の領域なので、私にはどうしようもない」


 ハラダが端末を操作しながら言った。


「来週の依頼が入っています。確認しますか」


「どんな内容」


「企業間の特許紛争。依頼主は製薬系の中堅企業、タカギ・バイオメディカル。相手はオノデラ製薬の代理デュエリスト。契約金は標準報酬の一・五倍。難易度は——」


 ハラダが一瞬間を置いた。


「相手のランキングが三位です」


 ナガセは窓の外を見た。


「受ける」


「ランク差がかなりあります。負ける可能性が」


「負けても翌日には戻ってくる」


 ハラダが何か言いかけて、やめた。


「……承知しました。日程を調整します」



 デュエルは正式な競技場で行われることもあるが、多くは公認された「調停フィールド」と呼ばれる屋外の施設で行われる。コンクリートで舗装された四十メートル四方のエリアに、審判が二名、医療チームが一組、記録官が一名。それだけで一つの試合が完結する。


 服装の指定はない。武器の指定もない。殺傷力を問わない。唯一のルールは「相手を停止させた時点で試合終了」だった。


 ナガセは試合ごとに装備を変えた。相手の戦歴を分析し、得意な距離と手法を割り出し、その逆を突く準備をする。今回の相手、オノデラ製薬の代理デュエリスト、ミヤモト・ケンジはランキング三位。近距離の打撃系を得意とし、停止記録が六百を超えるベテランだった。六百回停止して、六百回戻ってきた。


 数字を見る限り、タフネスの塊だった。


 だが、ナガセの興味はそこにはなかった。


 六百回停止して、この男はどんな人間になったのか。


 それだけが、試合前に気になることだった。



 調停フィールドには、午前十時に入った。


 秋の光が斜めに差し込み、コンクリートの色を薄く金色に染めていた。フィールドの外縁に、タカギ・バイオメディカルの担当者数名が立っていた。依頼主側の観戦は一般的に許可されている。彼らの隣に、医療チームの白いジャケットが並んでいた。


 ミヤモト・ケンジは、すでにフィールドの中央にいた。


 五十代前半。体格は標準的で、特に大きくも小さくもなかった。短く刈った白髪。顔の右側に、古い停止による義体化の痕跡があった。耳から顎にかけて、皮膚と金属の継ぎ目が走っている。


 目が静かだった。


 六百回停止した目は、こういう目をするのか、とナガセは思った。感情の揺れが見えない目。ただ相手を「対象」として処理している目。


 ナガセは自分の目がどう見えるか、考えたことがなかった。


 審判が中央に立ち、双方の身分確認と同期状態の確認を行った。ナガセの最終同期は今朝の7時16分。ミヤモトは今朝の6時52分。どちらも正常だった。


「開始五分前」


 審判が告げた。


 ナガセは右手を軽く握り、開いた。


 準備はいい。


(停止しても、翌日には戻ってくる。それだけだ)


 いつもの確認をした。いつもと同じ感触が返ってきた。



 試合が始まった。


 ミヤモトはすぐには動かなかった。フィールドの端から、ナガセを観察している。そういう戦い方をする人間だった。相手が動くのを待ち、動きのパターンから弱点を割り出し、そこに入る。六百回の積み上げによって洗練された、慎重な戦い方だった。


 ナガセは動いた。


 距離を縮めながら左に回り込む。ミヤモトが反応する。反応の速さを確認した。右手の義体側を少し遅く動かす癖があった。気づかない程度のわずかな遅延。だが確かにあった。


(右を守っている。義体の感覚を信頼していない)


 三分で見えてきた。


 七分目で距離が縮まった。


 打撃の応酬が二回あった。ナガセは一発受けた。左の脇腹に重い衝撃が来た。内臓が揺れる感覚。だが停止するほどではない。ミヤモトが引いた瞬間に踏み込む。右腕を取り、関節を逆に送る。ミヤモトが体を回して逃がした。速い。


 六百回の停止が積み上げた対応力だった。


 十二分が過ぎた。


 ナガセは一歩引いた。


 呼吸を整えながら、ミヤモトを見る。こちらも同じだった。距離を置き、ナガセを見ている。


 その目が、少しだけ変わったような気がした。


 最初の「対象として処理する目」から、何か別のものが混じり始めていた。


(値踏みが終わった)


 そう感じた。最初の十二分は互いの確認だった。ここからが本番だった。



 ミヤモトが動いた。


 速かった。ランキング三位の実力がそこにあった。右からの打撃が来て、ナガセは半歩引いてかわしたが、続く左が予想より近かった。顔面に掠めた。頭が揺れる。


(まずい)


 立て直す前に踏み込まれた。胴に入った衝撃が、今度は本格的だった。肋骨の二本か三本がいった感触があった。息が詰まる。


 ミヤモトが引く前に、ナガセは両腕を使った。


 左腕でミヤモトの右腕を絡め取り、右手で首を取った。倒れながら引き込む。フィールドのコンクリートに二人で倒れる。ナガセは下になった。ミヤモトの重さが背中に来た。


 右からの角度で首を締める。ミヤモトが体を回そうとする。回させない。角度を維持する。


 十秒。


 二十秒。


 ミヤモトの動きが鈍くなった。


 三十秒が過ぎた。


 ミヤモトの体から力が抜けた。


 審判が「停止確認」を告げた。



 ナガセは起き上がった。


 肋骨が痛かった。顔に掠めた感触が残っていた。地面に手をついて立ち上がる。


 ミヤモト・ケンジが横たわっていた。目は閉じていた。胸の動きがない。停止した体は、こういう静けさになる。ナガセは何十回も見てきた。翌日には復元センターから連絡が来て、ミヤモトは出勤する。それだけのことだった。


 医療チームが走ってきた。


 記録官がタブレット端末に何かを入力していた。試合時間と停止時刻を記録している。標準的な手続きだった。


「ナガセ選手、受傷の確認を」


 医療スタッフが声をかけた。


「肋骨が数本」


「撮影しますね。こちらへ」


 フィールドの端に設置された簡易検査エリアへ移動する。歩きながら、ナガセはミヤモトの方を振り返った。医療チームが横たわる体の周囲に機材を並べていた。


(六百一回目だ)


 ミヤモトの停止記録は、これで六百一回になる。翌日、復元センターで目を覚ました時、ミヤモトはこの試合を「記録」として持つ。だが痛みの記憶はない。意識が途切れた感覚もない。あるのは「負けた」という事実だけだ。


 ナガセは自分の最初の停止を思い出した。


「腹が減った」と思い、「あいつに勝てなかった」と思った、十六歳の復元の朝を。



 三日後、ハラダから連絡が来た。


「次の依頼が入りました」


「どんな内容」


「詳細は直接お伝えしたいのですが——少し特殊な案件です。依頼主は個人で、相手も個人。金額は標準の三倍」


 標準の三倍は、普通ではない。個人間のデュエルでそこまで出せる人間は限られている。


「会って話を聞く」


「明日、依頼主の方が来ます」



 依頼主は、アサノという名前の男だった。


 四十代半ば。スーツは良い生地だったが、着こなしに疲労が滲んでいた。事務所の応接室に通すと、椅子に座る前に一度深呼吸した。


「依頼内容をお聞きしても」


 ナガセが言うと、アサノは端末を取り出して、テーブルの上に置いた。


「相手の情報です。見てください」


 ナガセは端末を受け取った。


 名前、年齢、住所、顔写真。一般的な依頼情報のフォーマットだった。だが一項目だけ、通常はない欄が追加されていた。


 《バックアップ状態》:未確認


「これは」


「相手が、バックアップを消去している可能性があります」


 部屋が静かになった。


 ナガセはアサノの顔を見た。疲労の中に、別の何かがあった。怒りではなかった。怒りが長い時間をかけて別のものに変わった後の顔だった。


「なぜそう思うのか」


「私の弟です」


 アサノが言った。


「弟が、消えようとしています。バックアップを消去して、誰かに停止させようとしている。本人がそう言っていた」


「直接聞いたのか」


「三週間前に。会いに行って、話をしました。弟は止めても聞かなかった。消えると決めた、と言った」


「なぜ弟を止めるために、デュエリストを雇うのか」


 アサノが一度目を伏せた。


「弟は私に、デュエルを申し込んでいます。正式な手続きを踏んで。私では——私には戦えない。だから代理を立てたい」


 代理デュエルは合法だった。デュエルに指定されながら直接の対応が困難な場合、代理デュエリストを雇う権利がある。費用は依頼主負担。結果の法的効力は本人が直接戦った場合と同等。


「止める、というのは」


「弟を停止させてください。停止すれば、二十四時間後には戻ってくる。その間に、私が話をする機会を作りたい」


「バックアップが消去されていた場合は」


 部屋の空気が変わった。


 アサノが答えるまでに、数秒かかった。


「……その可能性を承知の上で、依頼しています。確認する方法が、私にはない。バックアップの消去は、施設の内部から特定の手法を使わないと検知できない。弟は技術者ではないので、おそらく——おそらく消去はできていないと思っています。でも」


「でも、確認できない」


「はい」


 ナガセは端末を閉じた。


 この依頼を受けるべきか受けないべきか、という問いが頭に来た。次に来たのは、別の問いだった。


(受けた場合、どうなるか)


 相手のバックアップが正常なら、停止させれば翌日には戻ってくる。アサノは話をする機会を得る。それだけで終わる。


 相手のバックアップが消去されていた場合。


 停止させた時点で、それが終わりになる。


「確認します」ナガセは言った。「依頼を受けるかどうか、明日までに返答します」


「……わかりました」


 アサノが立ち上がった。席を離れる前に、もう一度端末を見た。


「弟の名前はアサノ・タロウ、三十三歳です。普通の人間でした。デュエルの経験はない。ただ、この三年間で何かが変わった。私にはわからないことが多い」


 アサノは頭を下げて出て行った。



 ナガセはハラダと二人残った。


「どう思う」


「私は事務的な意見しか言えませんが」とハラダが言った。「バックアップが消去されている場合、停止はご依頼主の意図に反する結果になります。また、依頼者自身がその可能性を認識した上で依頼していることも明らかです。法的には問題はありませんが——」


「倫理的には」


 ハラダが少し間を置いた。


「この世界で、その言葉を使うのは難しいです。停止は日常です。停止させることに、通常は責任が問われない。ただ、相手が本当に死ぬかもしれない状況でのデュエルは——前例がないわけではありませんが、多くはありません」


「前例では、どうだった」


「バックアップなしの停止が起きた場合、記録は『試合中の事故』として処理されます。デュエリストへの法的責任は問われない。それが今の制度です」


 ナガセは窓の外を見た。


 街は普通に動いていた。どこかで誰かが停止し、どこかで誰かが復元されていた。その繰り返しで、この社会は動いていた。


(なぜ弟はそれを選ぶのか)


 死にたいなら、自分でバックアップを消去して、自分で止まればいい。それが技術的に可能かどうかは別として、なぜデュエルを申し込むのか。なぜ兄を対象に指定したのか。


(兄に止めてほしかったのではないか)


 だが止められなかった。兄は戦えないから代理を雇った。


 ナガセは翌朝まで考えた。



 受けることにした。


 理由を言語化するのは難しかった。割に合わない依頼ではあった。リスクが不透明だった。だが断る理由も、明確ではなかった。


(この仕事を選んだのは、どけ、と言われた時に自分からどかせる側になるためだった)


 それは今も変わっていない。


 ただ今回は、相手が「停止してほしい」のか「止めてほしい」のかが、わからなかった。それだけだった。



 アサノ・タロウに関する情報を集めた。


 三十三歳。独身。物流管理の会社に六年勤務。デュエルの記録はゼロ。停止の記録もゼロだった。


 この世界で停止経験がゼロという人間は、全体の約12パーセントだった。珍しくはない。デュエルに巻き込まれなければ、一生停止しない人間もいる。


 三年前に何があったのか、公開情報では判断できなかった。


 ハラダに調査を依頼すると、翌日に一点だけ上がってきた。


「三年前、アサノ・タロウの同居人が停止記録なしで死亡しています」


「バックアップなし、ということか」


「当時の記録では『系統不明の同期障害』と処理されています。詳細は開示されていない」


 ナガセはその一行を何度か読んだ。


 同居人の死。三年前。「系統不明の同期障害」という記録。


 この世界で「系統不明の同期障害」は、バックアップ消去の隠語として使われることがある、とナガセは知っていた。処理上の都合で、そう記録される場合がある。


 つまりアサノ・タロウは、三年前に誰かを失っていた。


 本当の意味で、二度と戻らない失い方で。



 調停フィールドは、依頼主のアサノ・コウジが指定した場所だった。


 市街地の外縁にある、古い公認施設だった。外壁のペンキが剥がれかけていた。審判と記録官は最低限の二名。医療チームもいたが、ナガセが事前に状況を説明すると、チーフが少し顔色を変えた。


「バックアップの状態が不明、ということですか」


「公式確認はとれていない。可能性としてある、という話です」


「……了解しました。対応できる準備はします」


 できる準備がどれだけあるのか、とナガセは思ったが、口には出さなかった。


 アサノ・コウジは施設の外に立っていた。ナガセを見て、一度頷いた。それだけで何も言わなかった。


 アサノ・タロウは、フィールドの中にすでにいた。


 兄に似た顔だった。だが何かが違った。疲れ方が違った。兄の疲れは戦い続けてきた疲れだった。弟の疲れは別の種類だった。何かを長い間抱えた後の、脱力に近い疲れだった。


「あなたが代理の人ですか」


 タロウが言った。声は静かだった。


「そうだ」


「兄が頼んだんですね」


「そうだ」


 タロウは少しの間ナガセを見た。


「止めようとしているんですね。兄は」


「代理を立てたのは、そういうことだろう」


「……そうですね」


 タロウは目を伏せた。


「でも」


「でも」


「止まらないかもしれません。俺は——一回停止して、翌日に戻ってきたとして、それが俺なのかどうかが、もうわからないんです」


 ナガセは何も言わなかった。


「三年前に、誰かが死にました。本当に死んだんです。バックアップがなかった。だから翌日には戻ってこなかった。俺はその人が死んだ場所にいました。死体を見ました。この世界に死体ってほとんどないでしょう。翌日には消えてるから。でも、その人は翌日も死んだままでした。一週間後も、一か月後も、今も」


 タロウの声は揺れていなかった。揺れた後に、揺れを全部使い切った声だった。


「それから、停止が怖くなりました。怖いというより——停止した後の俺が、本当に俺なのかどうかが確認できないのが怖い。バックアップは正確に記録されているはずです。でも、記録が俺じゃない気がして。確認できないんです。確認する方法がない」


 審判が「準備を」と声をかけた。


「試合は始まります」ナガセは言った。「だが一つだけ聞く。バックアップは今もあるか」


 タロウが顔を上げた。


「……あります」


「消去していない」


「していない。怖かったから」


 ナガセは息を吸った。


「わかった」


「え」


「怖いなら、生きている。それだけのことだ」


 タロウが何かを言おうとした。審判が「開始」を告げた。



 試合は、三分かからなかった。


 タロウにデュエルの経験はなかった。ナガセが距離を縮めた瞬間、体が硬直した。打撃を一発入れた。タロウが倒れた。首を抑えた。三十秒。


 停止した。


 審判が「停止確認」を告げた。


 医療チームが駆けつけ、状態を確認した。バイタルが落ちていた。通常の停止の数値だった。チーフが端末で何かを確認し、ナガセを見た。


「バックアップの同期、確認できます」


 ナガセは息を吐いた。


「翌日には戻ってきますか」


「はい。現在の同期状態からすると、二十時間から二十四時間で復元可能です」


 フィールドの外で、アサノ・コウジが目を閉じた。



 試合後の手続きを終えて、施設を出た。


 コウジが並んで歩いた。何も言わなかった。ナガセも何も言わなかった。施設の駐車場を抜けると、市街地への道路があった。夕方の光が道路を斜めに切っていた。


「ありがとうございました」


 コウジが言った。


「明日、弟が戻ってきたら話をします。何を話すか、まだ決まっていないけれど」


「決まっていなくていい」


「そうですか」


「話すことより、いることの方が最初は大事なことがある」


 コウジが少しの間、ナガセを見た。


「……経験がありますか」


「ない」ナガセは言った。「ただそう思う」


 コウジが頷いた。それだけで、二人は別の方向に歩き始めた。



 事務所に戻ると、ハラダが残っていた。


「お疲れ様でした。結果の報告は」


「停止、確認。バックアップは正常。明日には復元される」


「よかった」ハラダが端末に記録を入力しながら言った。「では次の依頼の確認を——」


「一つ聞いていいか」


 ハラダが手を止めた。


「バックアップなしの停止が起きた場合に『試合中の事故』として処理される、と以前言っていた」


「はい」


「処理されることと、それが事故であることは、同じか」


 ハラダが少し間を置いた。


「……法的には、同じです」


「法的には」


「それ以外の意味での『同じかどうか』を、私は判断できません」


 ナガセは頷いた。


「わかった。次の依頼を確認しよう」


「はい。来週の水曜、企業間の商標紛争です。依頼主はサカモト物産、相手のランキングは——」


 ハラダが読み上げる依頼の内容を、ナガセは聞いていた。


(バックアップなしの停止が起きた場合、記録は『試合中の事故』として処理される)


 自分が止めた相手が翌日に戻ってこない。その時、自分はどう感じるか。


 感じない、かもしれない。感じた経験がないから、感じ方がわからない。


(感じ方がわからない、ということと、感じない、ということは同じではない)


 ハラダが「よろしいですか」と言った。


「ああ」


「では契約書の確認をお願いします」


 端末が手渡された。ナガセは画面を開いた。


 契約書のフォーマットは、いつも同じだった。依頼主、対象、報酬、日時、場所。


「戦績」の欄に、205と入力されるのは翌日になる。


 翌日になれば、この数字は増える。また増える。


 ナガセは契約書にサインした。



 翌朝、復元センターから連絡が来た。


 アサノ・タロウの復元が完了した、という通知だった。本人の同意のもと、兄のコウジに連絡が行く手続きが取られていた。


 ナガセはその通知を見て、端末を閉じた。


 次の依頼の準備がある。


 窓の外で、街が始まっていた。


 誰かが停止する前の朝だった。誰かが復元された後の朝だった。その区別は、外からはつかなかった。


 ナガセは立ち上がった。


 仕事に行く。

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