ガラス小瓶にしまった言葉
雨は、予告もなく降ってきた。空の色が変わったと思った瞬間にはもう、世界は濡れていた。冬から春へ向かう境目の町は、天気が気まぐれで、港の風はいつも少し意地悪だ。けれど今日のそれは、意地悪というより唐突だった。
買い物袋を抱えた人たちが、石畳の上で一斉に足並みを乱す。肩をすぼめ、荷物を庇い、目当ての屋根を探して小走りになる。濡れた髪が頬に貼りつき、布地が水を吸って重くなる。通りはたちまち、雨に追い立てられる群れのようになった。
その中でミナだけが、ほんの少し違う歩幅で歩いていた。
走り出してもよかった。濡れるのは嫌いだし、寒さも得意ではない。けれど、足の裏に跳ね返る水の感触が妙に軽く思えた。濡れた空気は冷たいのに、胸の内側に、まだ温度が残っている。昨日の夕方、ソウが笑いながらくれた何気ない言葉や、ほんの一瞬だけ触れた指先の確かさが、火種みたいに胸の奥で赤く灯っていた。
――大丈夫。今日は、なんだか大丈夫。
そう思える自分が、少し不思議だった。
ミナは、賑やかな大通りを外れて、裏手の細い路地へ折れた。雨粒が屋根から跳ね、路地は銀色の糸で縫い付けられたみたいに光っている。軒先を探しているうち、木枠の古い店が目に留まった。ガラス窓の向こうに、色の薄い花が並んでいる。ここだけ雨が控えめに降っているように見えた。
小さな花屋だった。看板には「ラウム」とだけ、飾り気のない文字。
ミナが軒下へ滑り込むと、雨の音が一段落ち、世界が少しだけ近くなる。呼吸が自分のものとして返ってくる。雨の匂いに混ざって、土と葉の匂いがした。
「濡れたねえ」
店の奥から、しわの深い声がした。白い前掛けをつけた老店主が、花鋏を持ったまま出てくる。目尻がくしゃりと笑っている。
「すみません、ちょっとだけ雨宿りを……」
「いいよ。雨はね、誰にだって平等だ。けれど、濡れ方は人それぞれだ」
意味が分からなくて、ミナは曖昧に笑った。老店主はミナの靴先を見て、雨水が跳ねたスカートの裾を見て、それからミナの顔をじっと見た。まるで、花の具合を見るみたいに。
「走ってこなかったんだね」
「……気づきました?」
「気づくさ。雨宿りには二種類ある。雨から逃げるための雨宿りと、雨が落ち着くのを待つ雨宿り。君は後者の顔をしている」
ミナは言葉を探した。
胸の奥は温かい。そのはずなのに、なぜだろう、こうして立ち止まると、別のものが浮き上がってくる。ぬくもりの裏側にくっついた、薄い影みたいなもの。昨日まで、いや、昨日の夜までは無かったはずの、切なさに似た揺れ。
ミナは買い物袋の持ち手を指でいじった。
ソウは忙しい。分かっている。今朝も「夕方まで会えない」と短い連絡が来ていた。だからこそ、平気な顔でいようと思っていた。会えないなら会えないで、きちんと一日を回せばいい。そういう強がりは得意だった。
でも雨が降ると、強がりは少し溶ける。雨音は、気持ちの境目を見えやすくしてしまう。
「……私、たぶん、少しだけ」
言いかけて、ミナは口を閉じた。
少しだけ、何? 寂しい? 会いたい? 言ったら何かが壊れそうで、言わなかった。
老店主は鋏を置き、棚の下から小さな箱を取り出した。蓋を開けると、透明なガラスの小瓶がいくつも並んでいる。指先でつまめるくらいの大きさ。首の部分には紐がつけられ、栓には薄いコルク。
「これ、あげるよ」
「え……?」
「代金はいらない。今日は元から、そういう日だ」
老店主がそう言う時の「そういう日」が何を指すのか、ミナには分からなかった。
けれど小瓶は、雨粒よりも静かに光っていた。空の色を映して、ほんの少し青い。
「何に使うんですか?」
ミナが訊くと、老店主は肩をすくめる。
「花の種でも、香りでも、秘密でも。……言葉でもいい」
「言葉を入れる?」
「入れられる。言葉ってのはね、喉の奥にためておくと冷えて固まる。入れ物があると温まりやすい」
冗談みたいに聞こえるのに、なぜか胸にひっかかった。
ミナは小瓶を受け取る。冷たい。けれど嫌な冷たさじゃない。
透明なものを持つと、自分の気持ちも少し透明になる気がした。
店の外を見やると、雨はまだ強い。通りの向こうは白く霞んで、世界の輪郭が滲んでいる。
ミナはスマホを取り出し、ソウの名前を押しそうになって、指を止めた。
――今、連絡しても困るよね。
――でも、会いたいって思うのは、悪いこと?
そんなことを考える自分が、少し情けない。明るく見せるのは簡単なのに、心の中は簡単に揺れる。揺れは恥ずかしい。恥ずかしいから、隠したくなる。隠したままでも、いつも通り笑っていられる。
だけど、いつも通りの笑顔が、今日は少し薄い。
「君」
老店主が不意に言った。
「その人に、言いたいことがあるんだろ」
「……」
「言いたいことがあるのに、言えない。そういう時は、まず小さく包む。包んでから、渡す。花と一緒だ。むき出しにすると、風で折れる」
ミナは小瓶の口を見つめた。
透明な入口。ここに何を入れればいいのだろう。言葉は形がない。形がないものを入れるのは、怖い。
雨は次第に弱まっていった。
粒が細くなり、地面を叩く音が柔らかくなる。ふっと風が抜けると、雲の向こうに薄い明るさが見えた。濡れた石畳が、その明るさを受け取って光る。
そして、空の端に、ほんの淡い色が浮かび始めた。
最初は見間違いかと思った。
けれど色は確かにそこにある。薄紅、淡い緑、うっすらとした金。
虹だ。
港町の虹はいつも、儚い。風が強いから、すぐに崩れる。
それでも今日は、崩れ方が少し違った。虹が、まるで道のように、町の上へ伸びていく。見えない橋が架かっているみたいに。
「……きれい」
ミナが呟くと、老店主が鼻で笑った。
「橋が出たな」
「橋?」
「知らないかい。雨上がりにだけ現れる“渡り橋”だよ。うまいこと渡れる人は、会いたい相手のところへ近道ができる」
「そんなの……」
「冗談だと思うなら、それでいい。魔法は信じる人にだけ効くんじゃない。信じられない人にも、必要な時には効く。そういうものだ」
老店主は、花瓶から小さな押し花を一枚抜き取った。青に近い薄紫の花びら。ミナの手の中の小瓶へ、そっと入れる。
「目印だ。言葉は迷子になりやすい。色があると戻ってくる」
ミナは、突然胸が熱くなるのを感じた。
目印。戻ってくる。迷子。
それはまるで、今の自分の気持ちそのものだった。
ミナは小瓶を胸元に当て、目を閉じた。
喉の奥に溜まっているものがある。言えなかった言葉。言うのが怖かった言葉。
それを小瓶に入れるように、息をひとつ吐いた。
息はただの息なのに、不思議と小瓶が少し曇った気がした。
ミナはそれを見て、ほんの少し笑う。
――入った。たぶん、入った。
次は、渡すだけだ。
雨はほとんど止み、通りの人々は走るのをやめて歩き始めた。濡れた服を気にしながらも、空の明るさに顔を上げる。虹を見つけた子どもが指をさしてはしゃぐ。
ミナは花屋の軒先から一歩出て、通りを見た。
ソウは、ここにはいない。
分かっている。分かっているのに、胸が勝手に期待してしまう。
期待してしまう自分が、少し可笑しい。少し愛おしい。
「待ってみる?」
老店主が言った。
「……待つって、何を」
「足音だよ。会いたい人の足音は、呼んだ人にしか聞こえない」
冗談めかしているのに、ミナの耳が勝手に澄んだ。
雨水が樋を伝う音。遠くの船の汽笛。店の鈴が風で鳴る音。
その中に、確かに混じった。
――駆ける足音。
石畳を叩く軽い衝撃が、近づいてくる。急いでいる。息が上がっている。探している。
ミナの名前を呼ぶ声が、雨の残り香の中から飛び込んできた。
「ミナ!」
振り返ると、ソウが立っていた。
髪が濡れて、額に張りついている。肩が上下し、呼吸が荒い。普段は落ち着いた顔をしているのに、今は少しだけ子どもみたいだ。
「……どうして」
言い終わらないうちに、ソウが苦笑した。
「連絡しようとして、やめただろ。……なんとなく、嫌な予感がした」
「嫌な予感って」
「君が、平気なふりしてそうだって予感」
言われて、ミナの頬が熱くなる。見透かされたようで、同時に救われたようで。
ソウはミナの前で膝に手をつき、息を整えながら言う。
「会えないって送った後、ずっと落ち着かなかった。……仕事を抜けてきた」
「そんなの、だめだよ」
「だめかもしれない。でも来た」
言い訳も飾りもない言葉だった。
それだけで、ミナの胸の揺れがほどけていく。
ミナは小瓶を取り出した。
ソウの目がそれに止まる。透明なガラスの中に、薄紫の押し花が一枚。曇りがほんの少し。気のせいか、虹の色が一筋、閉じ込められているようにも見える。
「なに、それ」
ミナは小瓶を両手で包み、差し出した。
喉がきゅっと鳴る。言葉が、まだ怖い。けれど、小瓶がある。
「……これね」
言いかけて止まると、ソウが先に言った。
「言わなくてもいい。……でも、受け取らせて」
ソウは小瓶を受け取った。指先が触れる。冷たさが移る。
ソウは小瓶を目の高さに掲げ、覗き込んだ。
「……花が入ってる」
「目印」
ミナは息をひとつ吐いて、やっと言う。
「会えないと、平気なふりはできるの。でも……平気じゃない。たぶん、思ってるよりずっと」
口に出した瞬間、胸が痛くなる。
痛いのに、同時に温かい。痛みは、言葉が外に出た証拠だ。
ソウは小瓶をそっと下ろし、ミナを見た。
その目は、困ったように優しい。
「……ごめん。俺、うまく言えない」
「知ってる」
「でも、来ることならできる」
そう言って、ソウは自分の傘を少し傾け、ミナの肩が濡れていないか確かめた。雨は止んでいるのに、傘を差し続ける仕草が可笑しくて、ミナは思わず笑った。
笑うと、胸の奥の灯が強くなる。
虹はまだ、空の端に残っていた。
けれどさっきより少し濃い。まるで誰かの言葉を受けて、色が決まったみたいに。
ミナはソウの手にある小瓶を見て、ふっと思った。
小瓶の中の曇りが薄くなっている。曇りは、ため息の名残だったはずだ。
――外に出たから、薄くなるのだろう。言葉になったから。
「ねえ」
ミナが言うと、ソウが首を傾げる。
「これ、返さないでね」
「返さない。……持ってる」
「じゃあ、代わりに」
ミナは少しだけ背伸びをして、ソウの袖をつまんだ。子どもみたいな仕草だと自分でも思う。けれど、今日はそういう日でいい。
「次からは、私が我慢する前に、ちゃんと言う。会いたいって」
ソウは一拍置き、それから小さく頷いた。
「……うん。言って」
それだけで十分だった。
派手な約束はいらない。大げさな言葉もいらない。
ただ、言える場所がある。受け取ってくれる人がいる。その事実が、今のミナには魔法みたいだった。
花屋の老店主が、店の奥から眺めているのが見えた。
目が合うと、老店主は「ほらね」という顔をして、花鋏をまた動かし始めた。
ミナとソウは並んで歩き出す。濡れた石畳の上に、ふたりの影が薄く落ちる。雨上がりの空気は澄んでいて、呼吸が深くなる。
虹の橋は、遠くでゆっくりほどけていった。けれど、橋が消えても大丈夫だと思えた。橋は空にかかるものじゃなく、言葉と足音の間にかかるものなのだと、ミナは知ってしまったから。
小瓶の中の押し花が、歩くたびに小さく揺れる。
それは、迷子になりかけた気持ちの目印。
そして――今はもう、ちゃんと帰ってきた証だった。




