5話 初めてのデート、元カノの策略
土曜日の午後。
悠人は、莉子と約束した駅前で待っていた。初夏の日差しが心地よく、行き交う人々の姿が穏やかに見える。
約束の時間の五分前、莉子が現れた。
オフィスでの地味な印象とは打って変わり、淡いベージュのワンピース姿。髪は軽く巻かれ、普段の眼鏡ではなくコンタクトをしているようだ。
彼女が近づいてくるたびに、悠人の心臓が僅かに高鳴る。
「悠人さん、お待たせしました!」
「莉子さん、こちらこそ」
悠人は笑顔で返した。
「改めて見ると、やっぱりお洒落ですね」
「ありがとうございます」
莉子は少し照れたように頬を染めた。
「……でも、今日は職場じゃないし、私たちはもうただの同僚って関係でもないですよね?」
彼女は少し躊躇いながらも、意志を込めて微笑んだ。
「せっかくのお出かけなので、名前で呼んでください。私も、悠人さんって呼んでいいですか?」
「もちろん。じゃあ、莉子さん」
二人は笑顔を交わし、デザインの合同展へと向かった。
会場は、駅から徒歩十分ほどの現代美術館。
週末ということもあり、多くの来場者で賑わっていた。エントランスを抜けると、様々なデザイナーの作品が並ぶ広い展示スペースが広がっている。
「私の作品は、奥の方なんです。でも、せっかくなので他の作品も見ていきましょう」
莉子に案内されながら、悠人は一つ一つの作品を見て回った。
派手な色使いの抽象画、シャープで近未来的なプロダクトデザイン、繊細なテキスタイル——どれも個性的で、見る者を圧倒する。
そして、展示室の奥。
莉子の作品コーナーに辿り着いた瞬間、悠人は足を止めた。
そこには、他の作品とは明らかに異なる雰囲気が漂っていた。派手さはない。だが、見る人の心を静かに包み込むような、温かな色使いのグラフィックデザインが並んでいる。
立ち止まって作品を眺める来場者も多い。
「すごいですね、莉子さんのデザイン」
悠人は素直に感想を口にした。
「見ていて心が落ち着きます。なんというか……居心地がいいんです」
「ありがとうございます」
莉子は嬉しそうに、でも控えめに微笑んだ。
「私のデザインのコンセプトは、『日常に溶け込む、偽りのない美しさ』なんです。派手なものよりも、長く愛されるものが好きで」
その言葉を聞いた瞬間、悠人の胸に何かが響いた。
美咲の派手で偽りに満ちた愛とは、対照的だ。
「莉子さんのデザインは、莉子さん自身に似ていますね」
悠人は真剣な目で言った。
「裏表がなくて、優しい」
莉子の頬が、さっと赤く染まった。
「そ、そんなこと言われると照れます……」
彼女は俯き加減に笑った。
「でも、そう言ってもらえて嬉しいです。悠人さんに、私の内面まで伝わったなら、デザイナー冥利に尽きます」
展示会を回った後、二人は近くのカフェで休憩した。
窓際の席に座り、コーヒーを飲みながら、会話は自然と深まっていく。仕事のこと、趣味のこと、そして互いの人生観。
「事故に遭う前は、俺、誰かに依存しすぎて、自分を見失っていたんです」
悠人はカップを手に、静かに語った。
「でも、今は違います。誰かのためじゃなく、俺自身が幸せになるために生きる、って決めたんです」
その言葉には、重い過去が含まれていた。だが、莉子はただ静かに耳を傾けた。
「はい」
莉子は優しく頷いた。
「今の悠人さんからは、すごく強い意志を感じます。でも……」
彼女は少し躊躇うように言葉を選んだ。
「どこか無理しているようにも見えます。もし、辛いことがあったら、聞くことくらいしかできませんが、いつでも頼ってくださいね」
美咲にはなかった、心の底からの優しさ。
打算も計算もない、ただ純粋な思いやり。
その瞬間、悠人は確信した。
この人こそ、俺の二度目の人生で、本当に守るべき光だ。
翌週の月曜日。
悠人は、莉子とのデートの余韻で気分良く出社した。仕事も充実している。全てが順調に進んでいる——そう思っていた。
しかし、オフィスに入った瞬間、何かがおかしいことに気づいた。
同僚の数人が、悠人を避けるようにコソコソと話している。視線がこちらに向けられ、すぐに逸らされる。
不穏な空気。
デスクに着いて間もなく、直属の上司である田中が険しい顔で近づいてきた。
「佐藤、ちょっとこっちへ来い」
「はい」
会議室に入ると、田中は一枚の封筒を机の上に置いた。中から取り出されたのは、匿名の手紙だった。
「これ、今朝、総務に届いたものだ」
田中は難しい顔で言った。
「お前に関わることらしいが……どういうことだ?」
悠人は手紙を手に取り、目を通した。
『佐藤悠人は自分の彼女を裏切り、事故を装って保険金詐欺を働いた可能性がある。また職場では、同僚の女性・結城莉子にしつこくつきまとい困らせている。彼の人間性に問題があり、昇進させるべきではない』
一読して、悠人は即座に理解した。
美咲の仕業だ。
クソッ、やっぱり来たか——。
あの別れの時の美咲の怯えと、その裏にある執着心。読み間違えていなかった。自分の元から去った男が幸せになることを、彼女は決して許さない。
「田中さん」
悠人は冷静に、感情を抑えて口を開いた。
「保険金詐欺に関しては、流石にデタラメだとは思うが……」
田中は困惑した表情で言った。
「結城の件はどうなんだ? あの子から、何か相談は受けていないが」
悠人は一拍置いて、落ち着いたトーンで答えた。
「田中さん、申し訳ありません。結論から申し上げます——これは、元カノによる嫌がらせです」
「元カノ?」
「はい。事故の後、一方的に別れを告げたことで、彼女が逆上し、私を陥れようとしています」
悠人は淡々と説明を続けた。
「結城さんとの関係は、ただの同僚であり、最近ジムで会うようになった友人です。しかし彼女——元カノは、私が彼女の望む人生の邪魔をしたと思い込んで、私に関わる人間全てを攻撃しようとしているんです」
田中は眉をひそめた。
「そんなに厄介なのか?」
「はい。残念ながら」
悠人は手紙を机に戻した。
「田中さん、この手紙は匿名であること、そして内容が事実無根であることを考えてください。私の仕事での実績は見ていただいている通りです」
一拍置いて、続ける。
「この手紙の内容が真実かどうかは、私ではなく、私の仕事ぶりと、結城さん本人に確認していただくのが一番早いかと思います」
悠人の冷静な対応と、これまでの仕事での実績が、田中の信頼を取り戻した。
「……分かった」
田中は深く息を吐いた。
「とりあえず、この手紙は保留にする。だが、結城の件は後で本人にも確認させてもらう。佐藤、お前も気をつけろ。その元カノ、相当粘着質のようだぞ」
「はい、ありがとうございます」
悠人は頭を下げた。
会議室を出て、自分のデスクに戻る。表情は平静だったが、心の中では静かな怒りが燃えていた。
このままでは、莉子さんに迷惑がかかる。
先に手を打たなければ。
美咲の陰湿な報復は、これからが本番だ。だが、悠人はもう、過去の臆病な彼ではない。
この人生は、誰にも邪魔させない。




