4話 元カノの接触
美咲を振ってから、一ヶ月が経過していた。
彼女から何度か電話やメッセージが来たが、悠人は一切応答しなかった。連絡先は着信拒否。彼の生活から、美咲の存在は完全に消え去っていた。
仕事は順調そのものだった。
あのバグの指摘以来、悠人の評価はうなぎ登りで、来期の昇進候補に挙げられている。未来を知っている悠人にとって、仕事はまるで答え合わせゲームのようなものだ。
そして——今日もまた、平穏な一日が終わろうとしていた。
昼休み。悠人が会社のカフェテリアで一人ランチを食べていると、突然、見覚えのある香水の香りが鼻を突いた。
甘く、少し重たい匂い。
嫌な予感が背筋を這い上がる。
「悠人……やっぱり、ここにいた」
顔を上げると、目の前に望月美咲が立っていた。
「……なんで」
悠人は反射的に、顔を顰めた。
美咲は以前よりも少し痩せたように見えるが、相変わらず派手なブランド服を纏っている。だが、その表情には疲労の色が滲んでいた。
「なんでって、悠人の会社、調べたの」
美咲は泣きそうな顔を作った。
「退院してからずっと連絡が取れないから、心配で……」
心配?
悠人の目には、その瞳の奥にある計算がはっきりと見えた。
一ヶ月も放置されて、ようやく直接接触してきたか。別れた相手の会社にまで来るなんて、よほど切羽詰まっているんだな。
「心配なんていらない」
悠人は淡々と答えた。
「別れたんだから、もう関わらないでくれ」
「そんな冷たいこと言わないでよ!」
美咲の声が少し大きくなり、周囲の社員が振り返った。彼女は慌てて声を落とす。
「あの事故以来、悠人、変わっちゃった。事故のショックで何か勘違いしてるんじゃないの? 私たち、本当に愛し合っていたでしょう?」
「愛し合っていた?」
悠人は、小さく鼻で笑った。
「君が他の男の隣で俺を『保険』と呼ぶ未来を、俺は知っている」
美咲の顔が、一瞬で青ざめた。
「君が俺に差し出した愛は、金と安心のための交換条件だった。それを愛とは呼ばない」
「な、何を言ってるの……?」
美咲は動揺を隠せない。
悠人が、まだ起こっていないはずの未来の言葉を口にしたことに、明らかに狼狽している。
「冗談はやめてよ。私、そんなこと——」
「これ以上、偽善を装うのはやめてくれ、美咲」
悠人は冷徹に遮った。
「君とはもう終わったんだ。君がどんな『夢』を追いかけようと、俺には関係ない」
立ち上がり、トレイを持つ。
「二度と俺の職場にも、家の前にも来ないでくれ。これは最後の警告だ」
美咲は追いすがろうと手を伸ばしたが、悠人はそれを無視してカフェテリアを出た。
背中に美咲の視線を感じたが、振り返ることはしなかった。
これで警告はした。これ以上絡んでくるなら、容赦はしない。
俺の二度目の人生を邪魔する権利は、誰にもない。
美咲との不快な接触から数日後。
悠人は仕事の後、いつものようにジムで結城莉子と会っていた。
「佐藤さん、前よりフォームが格段に良くなっていますね!」
莉子は嬉しそうに笑った。
「特に大腿四頭筋への意識が変わりました。前は上半身に力が入りすぎてたんですけど、今は下半身でしっかり支えられてます」
彼女の指導は的確で、悠人は見る見るうちに筋肉がついていくのを実感していた。体重は変わらないが、鏡に映る自分の身体は明らかに引き締まってきている。
「結城さんのおかげですよ。俺一人じゃ絶対無理でした」
「いえいえ」
莉子は首を振った。
「でも佐藤さん、本当に別人みたいですね。前はもっと静かで、影が薄かったというか……」
そこまで言って、莉子は慌てて口を押さえた。
「あ、すみません! 失礼なこと言っちゃいました」
「いいんですよ」
悠人は笑って答えた。
「言いたいことは分かります。事故に遭って、本当に自分の生き方を見つめ直したんです」
一拍置いて、続ける。
「俺が本当に幸せになるために、変わろうと決めました」
その言葉は、美咲との別れと、タイムリープという秘密を内包していた。だが、莉子の心には『人生を真剣に見つめ直した人の強さ』として響いたようだ。
「すごいですね……」
莉子は真剣な目で悠人を見つめた。
「私も、佐藤さんを見てると、もっと頑張ろうって思えます」
その言葉には、嘘がなかった。
美咲の言葉はいつも計算されていた。だが、莉子の言葉は透明で、まっすぐだ。
二人でトレーニングを終え、更衣室から出て廊下で別れようとしたとき——莉子が思いがけない言葉を口にした。
「あの、佐藤さん」
少し躊躇うように、それでも決意を込めて。
「来週の土曜日、デザインの合同展があるんですけど、もしよかったら一緒に行きませんか?」
悠人は少し驚いた顔をした。
「私もいくつか出展するんです。佐藤さんに見てもらえたら嬉しいなって……」
莉子の瞳は、緊張と期待でキラキラと輝いていた。
タイムリープ前の悠人は、土曜日の予定を全て美咲とのデートに捧げていた。そのため、莉子がデザイナーであることすら知らなかった。もちろん、こんな誘いを受けることもなかった。
だが、今は違う。
「もちろん、行きます」
悠人は即答した。
「ぜひ、結城さんの作品を見てみたい」
「本当ですか!」
莉子の顔がぱっと明るくなった。
「やった! じゃあ、駅前で待ち合わせで……あ、これ、私の連絡先です」
莉子は控えめながらも嬉しそうに微笑み、スマホを取り出してLINEを交換した。
画面に表示された『結城 莉子』という文字。
悠人は、胸の奥が温かくなるのを感じた。
美咲との関係を断ち切った今、莉子との関係は未来を書き換える上で最も重要なピースかもしれない。
美咲との過去は、もう俺の人生ではない。
俺は今、新しい幸せの方向に確かに進んでいる。
「じゃあ、来週の土曜日、楽しみにしてますね」
「こちらこそ。楽しみです」
莉子は軽く手を振り、駐輪場へ向かっていった。その背中を見送りながら、悠人は初めて心から笑えた気がした。
過去ではなく、未来を見つめる笑顔だった。




