3話 新たな出会い
退院から三週間後。
佐藤悠人は、見慣れたIT企業のオフィスに戻っていた。デスクに座り、モニターを起動させる。その画面を見つめながら、彼は静かに息を吐いた。
このオフィス。この机。この仕事。
全てが、一年前と同じ——いや、正確には一年後と同じだ。
悠人の部署は現在、中堅企業向けの受発注システムのリプレイスプロジェクトを抱えている。そして、タイムリープ前の悠人は、このプロジェクトで重大なバグを見逃し、年明けに会社へ数千万円の損害を与えた。
上司から激しく叱責され、同僚からは白い目で見られ、半年間減給処分を受けた。
だが、今は違う。
未来の記憶という、最強のカンニングペーパーを手にしている。
「佐藤、大丈夫か? 無理すんなよ。特に年末に向けて忙しくなるしな」
声をかけてきたのは、プロジェクトリーダーの田中だ。40代半ば、少し太り気味で温厚な性格。タイムリープ前、彼は悠人のミスの責任を取らされ、減給処分になっていた。
「田中さん、ありがとうございます。もう大丈夫です」
悠人は軽く頭を下げた。
「むしろ体調は万全なので、プロジェクトの資料をもう一度見直させてください」
「お、やる気だな。じゃあ無理のない範囲で頼むわ」
田中は満足そうに頷き、自分の席へ戻っていった。
悠人は机の上に積まれた分厚い設計書を広げた。数百ページに及ぶ技術仕様書、データベース設計図、プログラム仕様書。
彼が狙うのは、特定のバグが潜んでいるプログラムコードのセクション——納品データ処理モジュールだ。
未来の記憶を辿る。膨大なデータが流れた際にシステムがフリーズする、致命的なロジックエラー。タイムリープ前の悠人は、見慣れない複雑なコードに目を奪われ、この単純なミスを見落とした。
だが、今は違う。
設計書をめくり、該当箇所を開く。コードを一行ずつ追っていくと——あった。
ループ処理の中で、データ量の上限チェックが抜けている。年末年始の大量発注が来れば、確実にシステムがダウンする。
「田中さん、ちょっといいですか」
悠人は即座に田中を呼んだ。
「ん? どうした?」
「この『納品データ処理モジュール』なんですが——」
悠人はモニターを指し示した。
「このループ処理、データが溢れる可能性はありませんか? 特に年末年始の大量発注を考えると、危険だと思うんです」
田中は画面を覗き込み、眉をひそめた。
「ん……ああ、確かに設計書通りなんだが」
彼はしばらくコードを眺め、次第に顔色を変えた。
「言われてみれば、この処理の仕方は効率が悪いな。というか……これ、上限チェックが入ってないぞ。佐藤、どうして急にこんな細かいところに気がついた?」
「すみません、事故で頭を打ったせいか、逆に冷静に設計を見直せるようになったんです」
悠人は淡々と答えた。
「もし、ここを修正せずにシステムがダウンすれば——数千万円の損害が出る可能性があります」
数千万円。
その具体的な金額に、田中の表情が凍りついた。
「……ちょっと待て。これは、本気でヤバいかもしれない」
田中はすぐに複数のベテランエンジニアを招集し、検証を開始した。三時間後、会議室に集まったエンジニアたちの顔は、一様に青ざめていた。
「完全に正しい。これ、本番環境で動かしたら確実に落ちるぞ」
「年末年始のピーク時なら、被害額は億いくかもしれない……」
「佐藤、お前、よく気がついたな!」
田中が興奮気味に悠人の肩を叩いた。
「これは本当に大金星だぞ! お前が見つけてくれなかったら、会社が傾いてたかもしれない!」
周囲のエンジニアたちも、感謝と驚きの目で悠人を見つめた。
この修正のおかげで、プロジェクトは順調に進行。悠人は年明けを待たずに、大幅な昇給と異例の評価を得ることとなった。
そして何より——。
美咲との関係を清算したから、余計なストレスがない。
仕事に集中できた結果だ。
人生を賭ける対象を、裏切り者の女から仕事と自己成長に変えた悠人は、あっという間に過去の自分を凌駕し始めていた。
仕事での成功は、悠人に自信とゆとりを与えた。
次に彼が実行したのは、リストの【自己投資】だ。
タイムリープ前の悠人は、美咲とのデート代と彼女へのプレゼント代で毎月カツカツだった。だが今は、全て自分のために使える。
悠人は会社の近くにある、設備の整ったフィットネスジムに入会した。
「過去の俺は、ひ弱だった」
鏡に映る自分を見つめる。少し引き締まってきた体と、事故を経験したことで深みを増した目。
「美咲に依存していたのも、自信のなさの裏返しだったのかもしれない」
悠人はトレーニングを通して、肉体だけでなく精神も鍛え直そうとしていた。汗を流し、過去のトラウマを振り払うかのように、黙々とマシンを使いこなす。
そして、ジムに通い始めて二週間が経ったある日——。
トレーニングを終え、更衣室へ向かう廊下で、悠人は一人の女性とすれ違った。
地味なデザインのジャージ姿。だが、しなやかで整った体躯を持ち、派手なメイクもなく、飾らない美しさが際立っている。
結城莉子。
彼女は悠人を見て、軽く会釈をした。
「佐藤さん、お疲れ様です。こんなところで会うなんて」
「あ、結城さん。お疲れ様です」
悠人は少し驚いた様子で返した。
「結城さんも、このジムに通ってたんですね」
結城莉子は、悠人の会社のデザイナーだ。いつも社内では眼鏡をかけて、静かに仕事をしている印象だった。だが、ジムでの彼女は活発で、生き生きとして見える。
「はい。デスクワークばかりだと体が鈍るので」
莉子は柔らかく微笑んだ。
「佐藤さん、事故の怪我はもう大丈夫なんですか?」
「ええ、もう完全に。むしろ前より調子がいいくらいです」
「それは良かった。佐藤さんも、結構ハードにやってるんですね」
「まだまだですけど。続けていきたいと思ってます」
莉子は少し考えるように首を傾げ、それから言った。
「もしよかったら、今度フォームを見てあげましょうか? 私、一応トレーナーの資格も持っているんです」
その笑顔は、美咲の計算された笑顔とは違った。
曇りがなく、ただ純粋に親切。穏やかな瞳には、打算も駆け引きもない。
悠人は、その目に、不思議と安らぎを感じた。
「本当ですか? ぜひお願いします。ちょうど、やり方で悩んでいたところなので」
「じゃあ、次に会ったときに。楽しみにしてますね」
莉子は軽く手を振り、女性更衣室へ向かっていった。
悠人は彼女の背中を見送りながら、胸の奥に小さな温かさを感じた。
これが、俺が掴むべき、新しい人生の扉か——。
新しい人生のパートナーは、美貌と裏切りではなく、優しさと誠実さを持つ女性かもしれない。
彼は、二度目の人生で初めて、過去の呪縛から完全に解き放たれたような気がした。




