21話 手料理
巨大な組織との戦いを終えてから、一ヶ月が過ぎた。悠人は課長としての仕事に追われながらも、その心は満たされていた。もう、いつ報復されるかと怯える必要はない。隣には、秘密を共有し共に戦い抜いた莉子がいる。
土曜日の昼下がり。二人は悠人の部屋で、ゆっくりとした時間を過ごしていた。窓から差し込む陽光が、コーヒーの湯気を優しく照らす。
「先週までは、組織の残党を警戒して、外食もまともにできませんでしたね」
莉子はそう言いながら、悠人の肩にもたれかかった。
「ああ。でも、もう大丈夫だ。警察も動いたし、鮫島も情報を全て吐いた。これで、俺たちの新しい生活が本当に始まる」
悠人は、莉子の髪を優しく撫でた。美咲との交際時代には常に背筋を伸ばし、周囲の目を気にしていたが、今は心底リラックスできる。
莉子は顔を上げ、悠人の瞳を見つめた。
「あの時、勇気を出して私に秘密を打ち明けてくれて、ありがとうございます。あの時のあなたの言葉を信じることができて、本当に良かった」
「俺の方こそありがとう。君が、信じてくれたおかげで俺は頑張れた。俺が持つ未来の知識より、君から貰う優しさの方が、ずっと価値があるよ」
…夕食の時間になり、二人はキッチンに立った。悠人は、日頃の感謝を込めて、莉子のために料理を振る舞うことにした。莉子は、悠人がキッチンに立つ姿を見るだけで、嬉しそうだった。
「悠人さん、包丁さばきが上手になりましたね。昔の悠人さんは、電子レンジで全て済ませていたのに」
「はは。昔の俺は、仕事で疲れた体と、満たされない心で、料理どころじゃなかったからな。でも、今は違う。誰かのために作る料理は、こんなにも楽しいんだな」
悠人が選んだメニューは、莉子が好きなオムライスだった。彼は、完璧な火加減で卵を焼き上げ、ケチャップでハートを描いた。
莉子は、自分のオムライスを見るなり声を上げて笑った。
「可愛い!ありがとうございます、悠人さん」
次に、莉子が悠人のために、得意のミネストローネを振る舞った。じっくり煮込まれた野菜の旨みが、悠人の疲れた体に染み渡る。
「美味しい……。莉子さんのミネストローネは、本当に温かい味がする」
莉子は頬を赤らめた。
「愛を込めて作ったから、かな」
二人は、何の警戒も、計算も、策略もない、純粋な食事の時間を享受した。それは、過去の戦いに対する、最も甘い報酬だった。
食後、二人はソファで寄り添い、静かに夜景を眺めていた。
莉子は、そっと悠人の手の甲にキスをした。
「悠人さん、私、時々怖くなるんです。私たちってこんなに幸せでいいのかな、って」
悠人は、莉子の不安を打ち消すように、彼女の体を抱き寄せた。
「俺の不幸な人生は、この幸せを掴むための練習だったんだ。もう、過去は関係ない。俺たちが作った今のこの瞬間こそが、真実だ」
そして、悠人は莉子の耳元で囁いた。
「俺は、前の人生では愛が偽物だと気づかず、虚飾を追いかけた。でも、この二度目の人生で、君という本物の愛を見つけた。だから、俺はもう一生君を手放さない」
過去の全てを乗り越えた二人の物語は、苦難の果てに掴んだ、真実の愛の物語として、今、最も穏やかで幸福なページをめくり始めた。




