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2話 タイムリープ

 白い天井が、ゆっくりと視界に入ってくる。


 鼻を突く消毒液の匂い。どこか遠くで聞こえる、機械音。


「……病院?」


 佐藤悠人は、全身を襲う鈍い痛みに呻きながら、重い瞼を開けた。身体が鉛のように重い。指先一つ動かすのにも、意識を集中させなければならない。


「悠人! よかった、目が覚めたのね!」


 視界に飛び込んできたのは、見覚えのある顔——母親だ。だが、記憶にある母よりも、明らかに十歳は老けて見える。目の下には深いクマ、髪には白いものが混じり、顔には疲労の色が濃く滲んでいた。


「トラックに轢かれて重体だったんだぞ。三日間、意識が戻らなくて……本当に、本当に良かった」


 父親の声が震えている。


 トラックに轢かれた——そうだ。美咲の裏切りを知り、絶望のまま夜の交差点で信号を渡って。あの白い光と、衝撃と。


 俺は、死んだはずじゃ——。


 混乱する頭で、悠人は震える手を伸ばした。枕元に置かれたスマートフォンを掴み、電源ボタンを押す。


 画面が明滅し、表示された日付を見た瞬間、悠人の心臓が止まりかけた。


【20XX年10月15日】


 あり得ない。


 自分がトラックに轢かれて死んだのは、去年の12月23日。美咲にプロポーズするはずだった、クリスマスイブの二日前だ。


「これ……一年以上、前?」


 呆然と呟く悠人に、両親は怪訝な顔をした。だが、悠人の目はスマホの画面に釘付けだった。


 着信履歴には、まだ裏切り者ではない——いや、正確には、まだ裏切りが表面化していない——美咲の名前が並んでいる。


 タイムリープだ。


 現実が、まるで小説や漫画のように、過去へ巻き戻っている。


 死の直前、悠人は心の底から叫んだ。


『もし、あの時に戻れたら。あんな女に囚われずに、本当に自分自身の幸せのために生きるのに——!』


 神がその魂の叫びを聞き入れたのか。それとも、単なる偶然か。


 理由なんてどうでもいい。


 自分は生きている。そして、美咲に深く傷つけられる前の時間に戻っている。


「……ははっ」


 悠人は、喉の奥から笑いが込み上げてくるのを抑えられなかった。安堵とも、狂気ともつかない笑い。隣のベッドで点滴を受けている老人が、訝しげにこちらを見た。


 両親は心配そうに顔を見合わせたが、悠人はもう、彼らの反応など気にならなかった。


 人生をやり直せる。


 あの絶望から、逃れられる。


 退院までに一週間を要した。


 病室で過ごす間、悠人は来る日も来る日も、タイムリープ前の記憶を整理し続けた。美咲との出会いから別れまで。仕事での失敗と成功。人間関係の全て。


 まるで、人生のカンニングペーパーを手に入れたような感覚だった。


 そして退院の日、一人暮らしの部屋に戻った悠人は、玄関を開けた瞬間、複雑な感情に襲われた。


 全てが懐かしい。そして、嫌悪感すら覚える。


 この部屋で、美咲は何度も愛を囁いた。ソファで身体を寄せ合い、ベッドで未来を語り合った。だが、それは全て嘘だった。彼女は裏で別の男と密会し、悠人のことを「保険」と呼んでいたのだ。


「まず、やるべきことは一つだけだ」


 悠人はスマホを取り出し、美咲の連絡先を表示させた。


 画面に映る彼女の名前を、冷たい目で見つめる。


 このまま付き合い続ければ、また同じ道を辿る。美咲はあの男と出会い、悠人は「保険」と呼ばれ、人生を破壊される。そんな未来は、もう絶対に御免だ。


 二度目の人生の目的は、最高の幸せを手に入れること。


 そのためには、まず毒を切り離さなければならない。


 悠人は迷わず、美咲の連絡先を削除した。着信拒否の設定をし、過去のメッセージを全て消去する。ツーショットの写真も、デート先で撮った動画も、全てゴミ箱へ。


「これが、幸せへの第一歩だ」


 そして、美咲の連絡先があった場所に、新しいメモを作成した。


【佐藤悠人、人生二周目の目標】


望月美咲との関係を完璧に断つ(済)

仕事で結果を出す(タイムリープ前の知識で先手を打つ)

過去には関わらなかった人との接点を増やす

自己投資(外見、筋トレ、趣味)



 画面を見つめながら、悠人は静かに呟いた。


「過去の俺は、美咲に依存しすぎていた。自信がなくて、彼女の言葉一つで舞い上がって、全てを捧げた。だからこそ、都合のいい『保険』になったんだ」


 もう違う。


 一度死んだ男は、人生をやり直す恐怖よりも、再び裏切られる恐怖の方が遥かに大きいことを知っている。


 入院から二週間後。


 予想通り、美咲から初めてメッセージが届いた。


『悠人くん、連絡遅れてごめんね。退院したって聞いたけど、大丈夫? 会いたいな……』


 悠人は画面を見つめ、小さく鼻で笑った。


 まだ、あの偽善的な優しさを装うか。


 タイムリープ前の自分なら、このメッセージ一つで舞い上がっていただろう。美咲が心配してくれている、愛してくれている、と信じて。


 だが、今は違う。


 悠人はメッセージではなく、電話をかけた。わざわざ声で伝える。それが、この関係に刻む最後の区切りだ。


 コール音が三回鳴って、美咲が出た。


「悠人!よかった、電話出てくれて! 心配したんだよ?」


 声が弾んでいる。まるで本当に心配していたかのように。だが、悠人の表情は微動だにしなかった。


「美咲」


 感情を完全に排除した、機械のような声で告げる。


「単刀直入に言う。別れてほしい」


 電話の向こうが、一瞬静まり返った。


「……え? ちょ、ちょっと待って。どうしたの急に? 事故のショックで——」


「ショックじゃない」


 悠人は美咲の言葉を遮った。


「事故で、色々と目が覚めただけだ」


「目が覚めたって、何を? 私たち、この前だってすごく仲良かったじゃない! ねぇ、理由を教えてよ!」


 美咲の声に、明らかな焦りが混じり始めた。


 過去の悠人は、美咲に理由を求められると論破され、すぐに折れていた。彼女の涙に弱く、怒りにも弱く、結局いつも言いなりだった。


 だが、今の悠人は、彼女の未来の行動を全て知っている。


「理由? 強いて言うなら——」


 悠人は静かに、だが確信を込めて言った。


「俺たちは、もう幸せになれない未来が見えたからだ」


「……何、それ。意味分かんない」


「君は、俺が思っているほど、俺のことを愛していない。そして俺も、君のことをもう信用できない」


 美咲が息を呑む音が聞こえた。


「な、何言ってるの……? 私、悠人のこと——」


「いいや、違う」


 悠人の声は、冷たく、そして穏やかだった。


「俺が望む愛と、君が俺に差し出す愛は、質が違う。だから、これで終わりにしよう」


 一拍置いて、最後の言葉を告げる。


「君も俺に縛られずに、君の望む『夢』を追いかけたらいい」


 美咲の将来の目標——金持ちとの玉の輿。それを皮肉を込めて肯定し、悠人は一方的に通話を切った。


 プツッ。


 通話終了の音が、静かに部屋に響いた。


 悠人はスマホを置き、深く息を吐き出した。胸の奥から、何かが抜けていくような感覚。それは、過去一年間ずっと彼を縛り付けていた鎖だった。


「これで、終わりだ」


 窓の外に広がる夜景を見つめる。


 裏切り者のいない、新しい未来。あの絶望的な死から一転、人生は今、軽快なスタートを切ったのだ。


 悠人の心は、奇妙なほど晴れやかだった。


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