1話 人生最悪の日
本日中に複数話投稿します。
右のポケットに入れた小さな箱を、佐藤悠人は何度目かになる確認をする。中身は婚約指輪——給料3ヶ月分をはたいた、人生で最も高価な買い物だ。
「美咲、今日こそ、ちゃんと話したいことがあるんだ」
週末の金曜日、午後8時。残業を終えた悠人は、恋人の望月美咲が住むマンションの前で、深呼吸を繰り返していた。胸の高鳴りが止まらない。25年間、これといって特別なこともない人生を送ってきた自分が、ようやく掴んだ幸せの証。それがこの指輪だった。
美咲は誰もが振り向くような美人で、職場の同僚からは「お前にはもったいない」とからかわれることも多い。悠人自身、そう思うことがある。だからこそ、彼女の隣にいられることが、何よりの誇りだった。
インターホンを鳴らす。指先が震えているのは緊張のせいか、それとも——。
「はーい」
美咲のいつもと変わらない声。だが、玄関ドアが開いた瞬間、悠人の表情が固まった。
まず目に飛び込んできたのは、部屋着ではなく少し着崩したワンピース姿の美咲。そして鼻を突く、強烈なタバコの臭い。さらに、悠人の知らない男物の香水の匂い。
美咲は悠人の前でタバコを吸わない。悠人も香水はつけない。
「あれ? 悠人、今日早かったね」
美咲の声が、わずかに上ずっていた。いつもの笑顔の端に、隠しきれない動揺が滲む。
「もう少し遅くなるって言ってたから……ごめん、ちょっと散らかってて」
彼女の背後、リビングのドアは固く閉ざされている。いつもは開け放しているのに。
嫌な予感が、悠人の胸に氷のように広がっていく。
「仕事が早く片付いてさ」
努めて平静を装う悠人に、美咲は慌てた様子でドアを塞ぐように立った。
「そ、そうなんだ。でも今日、私すごく疲れちゃって。もう寝ようと思ってたの。悪いけど、今日は帰って——」
帰れ?
毎週金曜の夜は二人で過ごす。それが1年前から続けてきた、二人だけのルールだったはずだ。
悠人の視線が、ふと美咲の足元に落ちた。
そこには、見覚えのない高級ブランドの革靴が、綺麗に揃えて置かれていた。
時が止まったような感覚。美咲の顔から、さっと血の気が引いていくのが見えた。
「……誰か、いるんだろ」
声が、自分のものとは思えないほど低く響いた。
「ち、違うの! これは——」
美咲の制止を振り切り、悠人はリビングのドアを開けた。
ソファに座っていたのは、見知らぬ男だった。
派手なブランドスーツに身を包み、いかにも「成功者」といった風貌。テーブルには開けられたワインボトルとグラスが二つ。男は悠人を一瞥すると、面倒臭そうにタバコの煙を吐き出した。
点と点が、一本の線で繋がっていく。
美咲が最近、仕事が忙しいと会うのを避けていたこと。高級ブランドのバッグを「ボーナスで買った」と言っていたこと。プロポーズの話題になると、遠回しに時期を延ばそうとしていたこと。
全て、この男のためだったのか。
「誰だ、お前は」
悠人の声には、怒りよりも先に、虚無が滲んでいた。
男は悠人を上から下まで眺め、鼻で笑った。
「ああ、君が美咲の『保険』? 悪く思うなよ。君は真面目でいい奴なんだろうけどさ、美咲が求めてる人生を与えられるのは、俺の方なんだよ」
保険——。
その一言が、悠人の心臓を抉った。
「悠人、違うの! これは、ただの——」
美咲が泣き出しそうな顔で縋りついてくる。その手を、悠人は静かに振り払った。
「ただの、なんだ?」
美咲を見る悠人の目には、もう愛情の色はなかった。裏切り、嘘、軽蔑——そして、哀れみ。
ポケットの中の指輪を握りしめる。三ヶ月分の給料。彼女のために選んだ、未来への誓い。それが今、鉛のように重い。
「分かったよ」
悠人の声は、恐ろしいほど冷静だった。
「お前が、どれだけ俺のことを馬鹿にしていたか、よく分かった」
怒りも、悲しみも、全て通り越してしまった。ただ虚無だけが、心を満たしていく。
「もう二度と、俺の前に現れるな」
その言葉を最後に、悠人は踵を返した。美咲の叫び声が背中に刺さる。だが、振り返ることはしなかった。
夜の街を、当てもなく歩く。
ポケットから指輪の箱を取り出し、悠人は力なくアスファルトに投げ捨てた。小さな音が夜に響く。だが、心の中で響いている破壊音に比べれば、あまりにも小さすぎる。
俺の人生は、何だったんだ——。
美咲に愛されること。それだけが、平凡な人生を送ってきた悠人の、唯一の誇りだった。その支えが、一瞬で崩れ去った。
あいつだけは、許せない。美咲、お前だけは、絶対に——。
復讐心、絶望、自己嫌悪。全ての負の感情が渦巻き、悠人は周囲が見えなくなっていた。
信号が青に変わる。何も考えず、交差点に足を踏み入れた瞬間——。
左から、猛スピードで突っ込んできた大型トラックのヘッドライトが、視界を白く染めた。
ズドンッ!!
強烈な衝撃が全身を貫く。身体が宙を舞い、地面に叩きつけられた。痛みはなかった。ただ、熱いものが身体から流れ出していくのを感じる。
ぼやける視界。遠くから聞こえるサイレンの音と、人々の悲鳴。
ああ、俺は死ぬのか——。
意識が遠のく中、最後に脳裏に浮かんだのは、美咲の裏切りの笑顔だった。
もし、あの時に戻れたら。あんな女に囚われずに、俺は本当に、自分自身の幸せのために生きるのに——!
その後悔と憎悪が、最後の力となって魂の叫びとなる。
視界が完全に闇に包まれ、佐藤悠人の意識は、途絶えた。
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