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透明な鈴の音

作者: 文系

 この世界には、言葉より先に響く“鈴の音”がある。

 それは心にしか聞こえない、感情の音だ。怒りは硬く濁り、悲しみは遠く低く、そして恋は、ひどく静かに胸の奥で揺れる。


____


 イーリスがこの世界〈ソルラ〉に迷い込んだのは、ちょうど初夏のことだった。

 見知らぬ森で目覚めたとき、彼女は名前以外のすべてを忘れていた。何者だったのか、どこから来たのか、自分に何が起きたのか──記憶はすっかり霞の中だった。


 彼女を見つけて助けてくれたのは、セランという青年だった。

 淡い銀色の髪、物静かで、遠くを見つめるような瞳。彼は〈鈴読み〉だった。人の感情を鈴の音として読み取る、希少な能力者。


「怖がらなくていい。君の鈴の音は、すごく静かだから……壊れそうなほど」


 その声に、イーリスは初めて「安心」という感情を知った気がした。


____


 セランは感情を言葉で語ることが苦手だった。

 代わりに彼は、イーリスの感情の音に耳を澄ませた。喜びの音、困惑の音、涙の音、そして、胸の奥でかすかに揺れる、透明な音。


「それは、恋の鈴音だよ」


 ある日、そう囁かれて、イーリスは目を逸らした。

 心のどこかで、そうかもしれないと感じていた。でも、それを言葉にしたら、なにかが壊れてしまう気がした。


「……セランの鈴の音は、私には聞こえないの?」


「僕のは、もう鳴らないんだ。昔、感情を閉じたから。強く願えば聞こえるようになるって言われてるけど……僕には、難しいみたいだ」


 それを聞いて、イーリスは胸を締めつけられる思いだった。

 この優しさの奥に、どれほどの傷があるのだろう。彼が“誰かを想う鈴音”を失った理由を、彼女はまだ知らなかった。


____


 森の奥には、〈記憶の泉〉という場所があった。

 そこに映る水面は、触れた者の過去を映し出す。イーリスは、いつかそこへ行く決意をしていた。自分が何者なのか、なぜこの世界に来たのかを知るために。


「見ても、戻れないかもしれないよ」

 セランはそう言った。「記憶を取り戻した人は、心が揺れて、今を手放してしまうことがある」


「……でも、私、怖いの。知らないままで、ここにいてもいいのかなって。セランの優しさに、甘えてるだけなんじゃないかって」


 イーリスがそう言うと、セランは黙って目を閉じた。

 しばらくして、かすかに唇が動いた。


「君の鈴音はね……今、すごく震えてる。自分を責めるときは、そうなるんだ。

 ……でも、僕は嫌いじゃないよ。そういう音も、君だから」


____


 ある晩、風が鳴くほどに冷え込んだ夜。

 イーリスはセランのもとを離れ、記憶の泉へと向かった。


 泉の水面に、ゆっくりと手を差し入れると、まばゆい光が広がり、失われていた記憶が戻ってきた。

 イーリスは、異世界研究をしていた科学者だった。実験中の事故でこの世界に転移し、すべての記憶を失っていたのだ。


 だが、思い出した瞬間、胸が強く痛んだ。

 そこに“帰りたい”という気持ちはなかった。思い出したのは確かに大切な人生だったはずなのに、今の彼女の心は、セランで満たされていた。


 そのときだった。

 遠くから、ひとつの鈴音が響いた。

 風の音に紛れるような、でも確かに、彼女の心に届いた音。透明で、優しくて、哀しみと祈りが滲んだ──恋の音。


 振り向くと、セランが立っていた。

 瞳が震えていた。


「……聞こえたんだ」

「君のことを想ったら、ようやく、僕の鈴が鳴った」


 イーリスの目から、涙がこぼれた。


____


 その夜、二人は一緒に歩いて帰った。

 言葉は少なかったが、心の中では鈴音が何度も何度も響いていた。


「私は、ここに残るよ。記憶は取り戻したけど、もう一度失ってもいいくらい、今の方が大事だから」


「ありがとう。……でも、忘れなくていい。君の過去も、ここに来た理由も、全部、君の一部だよ。

 そして僕は、その全部を好きになっても、いいかな」


 鈴音が、静かに重なった。


____


 恋は、言葉よりも先に、心に鳴る。

 聞こえるかどうかではなく、感じられるかどうかだ。


 イーリスとセランの恋は、声にならない透明な鈴音から始まった。

 けれど、今は確かに、世界のどこよりも近くで響いている。


 ──誰にも聞こえなくても、たったひとりに届けばいい。

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