透明な鈴の音
この世界には、言葉より先に響く“鈴の音”がある。
それは心にしか聞こえない、感情の音だ。怒りは硬く濁り、悲しみは遠く低く、そして恋は、ひどく静かに胸の奥で揺れる。
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イーリスがこの世界〈ソルラ〉に迷い込んだのは、ちょうど初夏のことだった。
見知らぬ森で目覚めたとき、彼女は名前以外のすべてを忘れていた。何者だったのか、どこから来たのか、自分に何が起きたのか──記憶はすっかり霞の中だった。
彼女を見つけて助けてくれたのは、セランという青年だった。
淡い銀色の髪、物静かで、遠くを見つめるような瞳。彼は〈鈴読み〉だった。人の感情を鈴の音として読み取る、希少な能力者。
「怖がらなくていい。君の鈴の音は、すごく静かだから……壊れそうなほど」
その声に、イーリスは初めて「安心」という感情を知った気がした。
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セランは感情を言葉で語ることが苦手だった。
代わりに彼は、イーリスの感情の音に耳を澄ませた。喜びの音、困惑の音、涙の音、そして、胸の奥でかすかに揺れる、透明な音。
「それは、恋の鈴音だよ」
ある日、そう囁かれて、イーリスは目を逸らした。
心のどこかで、そうかもしれないと感じていた。でも、それを言葉にしたら、なにかが壊れてしまう気がした。
「……セランの鈴の音は、私には聞こえないの?」
「僕のは、もう鳴らないんだ。昔、感情を閉じたから。強く願えば聞こえるようになるって言われてるけど……僕には、難しいみたいだ」
それを聞いて、イーリスは胸を締めつけられる思いだった。
この優しさの奥に、どれほどの傷があるのだろう。彼が“誰かを想う鈴音”を失った理由を、彼女はまだ知らなかった。
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森の奥には、〈記憶の泉〉という場所があった。
そこに映る水面は、触れた者の過去を映し出す。イーリスは、いつかそこへ行く決意をしていた。自分が何者なのか、なぜこの世界に来たのかを知るために。
「見ても、戻れないかもしれないよ」
セランはそう言った。「記憶を取り戻した人は、心が揺れて、今を手放してしまうことがある」
「……でも、私、怖いの。知らないままで、ここにいてもいいのかなって。セランの優しさに、甘えてるだけなんじゃないかって」
イーリスがそう言うと、セランは黙って目を閉じた。
しばらくして、かすかに唇が動いた。
「君の鈴音はね……今、すごく震えてる。自分を責めるときは、そうなるんだ。
……でも、僕は嫌いじゃないよ。そういう音も、君だから」
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ある晩、風が鳴くほどに冷え込んだ夜。
イーリスはセランのもとを離れ、記憶の泉へと向かった。
泉の水面に、ゆっくりと手を差し入れると、まばゆい光が広がり、失われていた記憶が戻ってきた。
イーリスは、異世界研究をしていた科学者だった。実験中の事故でこの世界に転移し、すべての記憶を失っていたのだ。
だが、思い出した瞬間、胸が強く痛んだ。
そこに“帰りたい”という気持ちはなかった。思い出したのは確かに大切な人生だったはずなのに、今の彼女の心は、セランで満たされていた。
そのときだった。
遠くから、ひとつの鈴音が響いた。
風の音に紛れるような、でも確かに、彼女の心に届いた音。透明で、優しくて、哀しみと祈りが滲んだ──恋の音。
振り向くと、セランが立っていた。
瞳が震えていた。
「……聞こえたんだ」
「君のことを想ったら、ようやく、僕の鈴が鳴った」
イーリスの目から、涙がこぼれた。
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その夜、二人は一緒に歩いて帰った。
言葉は少なかったが、心の中では鈴音が何度も何度も響いていた。
「私は、ここに残るよ。記憶は取り戻したけど、もう一度失ってもいいくらい、今の方が大事だから」
「ありがとう。……でも、忘れなくていい。君の過去も、ここに来た理由も、全部、君の一部だよ。
そして僕は、その全部を好きになっても、いいかな」
鈴音が、静かに重なった。
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恋は、言葉よりも先に、心に鳴る。
聞こえるかどうかではなく、感じられるかどうかだ。
イーリスとセランの恋は、声にならない透明な鈴音から始まった。
けれど、今は確かに、世界のどこよりも近くで響いている。
──誰にも聞こえなくても、たったひとりに届けばいい。