阿鼻京火の助手
指定された階層でエスカレーターから抜け出し、見覚えのない回廊をおずおずと歩く。もう2年にもこの施設に入り浸っているというのに、始めて見る景色と諸事情に歩幅が縮んでいく。
「……ここ、なんだよね?」
スマートフォンに収まるメッセージに記された部屋番号と眼前の扉に彫られた番号は見事一致している。指定された時刻とも相違なく、後は扉を叩けば迎え入れられるのだろう。
「ふぅ~……よし。」
決意を軽く握り二、三度手の甲で扉を叩く。重厚な見た目に沿った、鈍い音が鼓膜を揺らし、微細に骨を伝って走る。
「あいあ〜い。」
程なくして扉が開かれる。間の抜けた声とともに。
「へ?」
「……あー」
隙間から半身をのぞかせたのはやけに長い銀色の髪をなびかせる、端正な顔立ちが特徴的な長身の女性。薄汚れた白衣から伸びる長い腕が所狭しとノブをつかみ、深い藍色の瞳をレンズ越しに覗かせる、阿鼻京火を名乗る教授……ではない。
「ご用件は?」
やけに緩やかなパーカーを前開きでなびかせる、一人の中性的な少年。頭頂を覆うフードから覗く髪はやけに黒く光を飲み込んでいるとさえ錯覚してしまいそうになる。顔や首、ノブをひねる指先手首、肌と形容する全てが髪と相反するように白い。やはり、「やけに」と調子づいて。
「え?えぇと阿鼻先生に用事があって、事前に連絡を頂いたんですが……その、阿鼻先生はいらっしゃいますか?」
「あぁ、例の。時間ぴったり……真面目だな。ちょっと立て込んだ話になるから、まぁ、入なよ。」
含みを持った言葉をぼやいたのち、より大きく扉を押し開けて向かい入れるように手でこまねく。わざわざと付け加えてはなんだが、部屋に入る際に突き当らぬようにぴったりと背中を扉にその様は
「入んねぇの?」
「あぁ、お、お邪魔します。」
言わないほうが、身のためだと感じた。
「……あーなんか飲むか?緑茶と水なら幾らでもあるぞ。」
「あっ、じゃあ、その……水を。」
……余りにもやりずらい。そう感じるのはまず真っ先にアイツがそう感じているからだろう。招かれたとは言え、資格を有したのならばそれ相応に振る舞ってもいいものではないかと思うが、まぁ考え方は人それぞれなんだろう。冷蔵庫から水を一本取り出し、箱詰めになったぬるい水も一緒に引き抜く。
「冷えてるのとヌルいの、どっちがいい?」
「冷えてる方…で、お願いします。」
ヌルい水を冷蔵庫に差し込んで、踵を返す次いでに閉める。
「あいよ。」
「ど、どうも。」
京火のソファに腰をかけさせたものの、机を挟んで向かいに座れる訳では無い。かと言って京火は客人を招くことを想定するタイプでもないため、レイアウトは徹底した本人にとっての機能美。その機能美の中には、話したがりの部分も詰め込まれている。だから、
「失礼するぞ。」
「え!?あっ、は、はい。」
必然的に横どなりに腰を据えることになる。先から相手に至っては動揺を隠しきっていない。素直な性質なのか、或いは気弱なだけなのか。どちらにしても、芳しくない状況は冷えた茶を流し込んだからといって、変わらない。
「聞きたいことがあるか?それとも、話したいことがあるか?……まぁどっちもだろうから好きな方から初めていいぜ。こだわりないってんならまぁこっちから話させて貰うけど。」
「こだわりなんて全然!!お、お願いします。」
マイクを差し出すようなジェスチャーでこちらに促してくるこの男は、京火が好みそうな図太さを兼ね備えているのかもしれない。
「んじゃまぁ、一応自己紹介でもしとくかな。鎹透。建築とかでつかう鎹に、透けるの透。京、阿鼻のぉ……なんだ、まぁ助手?として話を預かってる。」
「鎹?あ、すいません。僕は北村です。北村勇輝。北海道の北に、市町村の村。勇ましいに輝くで、北村勇輝です。」
短く切りそろえられた黒髪に、シワのよれたTシャツとすれたジーンズ。一見すればラフな格好だが、不健康な細腕と不格好に削れた頬から邪な推は幾らでもできる。
「あいよ、北村勇輝ね。それで、『手紙』は持ってきてくれたか?」
「はい。こ、これです。」
肩掛けのカバンから恐る恐ると引っ張り出されたのは、透けたクリアファイルに挟まれた茶封筒。
「借りるぞ。」
「え?あ、危ないですよ!」
制止する声をくぐり抜けてクリアファイルをつまんで引き取る。
「……ふぅん。」
さっさと茶封筒を手に取れば、すでに封は開かれており三つ折りの紙が収められていた。ファイルに封筒、そんで三つ折り。ずいぶんな包装だ。
「迫力ねぇな、これ。」
「は、迫力?」
開かれた紙に記されたのは、存外にも明朝体の文字列であった。
『この手紙を{3}日以内に渡さなければ、呪いが{北村勇輝}を蝕み死に至る。』
白紙に埋め込まれた明朝体。裏を見ようが日に照らそうが想像以上をもたらすことはまるでなく、宛名も住所も書かれていない、悪戯にしてもチープな作り。だからこそ、片手に収めて廊下に向かう。
「え、ど、どうしたんですか?」
「手紙だぞ、使い道は一個しかないだろ。」
室内から響く弱弱しい声を軽くあしらって手にした手紙を、扉に付属した簡易ポストに投函する。
「……ま、予想通りだな。」
「へ?さっきから何をって、えぇ!?」
書面に記されたのは、迫力の欠けたチープな文章。
『この手紙を{7}日以内に渡さなければ、呪いが{阿鼻京火}を蝕み死に至る。』
「お、同じだ……この手紙が届いた日と。」
息を吞む北村が、まだ弱弱しくそうつぶやいた。
「これで呪いは感染したな。京火からの伝言だけど、来月末までに提出すりゃそれでいいってよ。ひとまずは飯食って寝て、まぁ体でも動かして気分転換でもしろってさ。」
「え。」
さて、ここからが一仕事だ。
「あ、え?うつったって……ほ、本物なんですよ!そんな、こんなやり方じゃ……」
「そんなだろうがこんなだろうが、本物だからこそ、このやり方なんだよ。」
腕まくりでもして気合を入れようが、入念に下調べを行い徹底した策を取ろうが、この稼業では意味をなさない。
「まぁ、なんだ。……専門家なんでな、後は任せてくれていい。」
京火ならば頼もしい一言でも残せたのだろが、お生憎の空模様というやつだ。
「専門家って……あなた一体、何なんですか?」
「あぁ?そりゃ、お前言ったろうが。」
けれど、まかされたなら相応に働きはしなければいけない。教示だとか美学だとかそんな恰好の良いものじゃあない。言うなればぬぐい切れない性格と見栄っ張りな意地。
「助手だよ、阿鼻京火のな。」
なるべくニヒルに口を歪めた。