79 エピローグ
「姫様、また絵を描いているのですか? 寝てなきゃお咳が治りませんよ」
「お絵描きをしているだけよ。咳は最近出ないもん」
クルクルとカールする柔らかな金色の髪を振りみだし、熱心に筆を動かす幼い少女。彼女はふっくらと柔らかそうな頬をぷくっと膨らませて、傍らに立つ婆やを仰ぎ見た。
婆やのブリンリーは腰を曲げて屈みこみ、その絵を覗きこむ。
隣り合わせになった小さな顔と目が合いにこりと微笑むと、幼い姫君は垂れた眦をより下げて微笑みを返すのだった。
「婆やの姫様は本当に絵がお上手で、婆やは誇らしく思いますよ。でも体調を崩せば、お好きな絵も描けなくなるでしょう?」
婆やが愛らしい姫君の頬に自分の頬をこすり合わせると、少女はうれしそうに、背中の小さな羽をパタパタと羽ばたかせた。
「うふふ、大丈夫。無理なことはしないもの」
筆を指先で転がしながら、少女はちらりと上目づかいで婆やに許しを乞う。
「この間の件もありますよ」
婆やが少々咎めて言うと気恥ずかしげに少女は俯いた。
「あれは……。あの時は、絵を描いている最中に下で戦が始まったから、慌てちゃったの」
意図したことではなかった。先日起きた出来事を少女は口をとがらせながら、一生懸命説明する。
「じっと様子を見ていたら騎士様の声が聞こえたのよ。どうしても戦争を終わらせたいって、一人で飛び出してゆくから、びっくりしちゃったの。だから驚いて筆を投げちゃって、それでちょっと……、赤い絵の具が下に飛んじゃったのよ。でも、騎士様の気持ちがはっきり視えてきて、力になってあげたくて、……その……頑張って雨を降らしたのよ。少しの雨だったけど、降らせることができたの。騎士様の願いを叶えたくて、川を溢れさせて戦争を終わらせてあげたのよ!」
幼い少女にとって、初めての体験だった。その体験を喜ばしいものと受け止めてあげたいのも婆やの本音だが、何せ姫君は身体が弱い。
「すばらしい、奇跡でしたね」
肩を落とす少女に、仕方なく婆やは少々きつく目を光らた。
「……赤い川になっちゃって驚かせちゃったけど……」
快活に武勇伝を語っていた声もしゅんと小さくなる。ブリンリーはしわしわな手を少女の小さな手にのせ、やさしく手の甲をなでて言い聞かせる。
「そうですね、レイラ姫様は頑張りました。でもそのあと、無理したせいで、寝込んでしまわれたんですよ。今日は下での争いごとも起こっていないようです。お体の弱い姫さまには何事も無理は禁物です。そろそろ、絵を描くのもやめて、ベッドに戻りましょうね」
***
天上界雨の国の末姫レイラは、身体の弱い非力な女の子だった。
他の兄姉たちは下界で雨を乞われれば、思い通りに雨を降らせる力があった。
雨の日の軒下に願い袋を吊るされれば、その願いに寄り添って、人々に安らぎを与えてあげる力があった。
でもレイラにはその力はあまりなかった。
姉姫たちは人の心を知るために、時々地上に舞い降りては、『人生』を勉強して、人の気持ちに寄り添える立派な精霊になるための修行をしているというのに、レイラはいつもひとり、天上で絵を描いて過ごしているだけだった。
非力なレイラには人間界に舞い降りる力もなく、彼女を溺愛する父王もそれを許さなかった。
そんなある日、レイラに不思議が起こった。
初めて下界の人の声が心に届いたのだ。
一生懸命聞き耳を立てれば、騎士の願いが聞こえて来た。
彼の役に立とうと、日差しの合間を縫って少しの雨を降らすことが出来た。
レイラはその奇跡に胸を躍らせた。
それ以来、彼女は下界への興味が尽きないのだ。
今もまた、レイラは夢中になって下界を覗いている。
それというのも、下界の女性が描く素晴らしい絵がもう少しで完成しそうだったからだ。
「フローラさんの絵……とっても素敵。私もあんなのが描けたらいいのになあ」
そういって両手を胸の前に合わせて大きな溜息をつく。
「ああ、フローラさんから絵を教えてもらいたいなあ」
レイラの小さな願いはいつも、叶うことは無かった。弱い身体では何もできない。願いが消えて無くなるのを待つだけだった。でも今回だけはどうしても消し去ることが出来なかった。希う気持ちが小さな体から溢れて、雲のようにモコモコと降り積もってゆく。
床に寝そべりながら、レイラは下界の画家の一挙手一投足を目で追っていた。
教会の大きな壁一面に、女神と天使の絵がスラスラと描かれてゆく。
絵も完成に近い。レイラは身を乗り出した。
画家は描いた絵を満足げに仰ぎ見ている。
「……えっ?!」
レイラから素っ頓狂な声が漏れる。
仰ぎ見た画家の眼差しと、瞳が合ったような気がしてレイラは床から跳ね上がった。
とたん、心にやさしい声がぽそりぽそりと届きはじめた。
『……きたわ…。こん…てんし…たら…わた…にき…ほ…わ』
レイラの心がフルフルと震え出して、興奮と緊張がごちゃ混ぜになってくる。
「この間と同じだわ!」
レイラは高鳴る胸を押さえながら、この不思議な息苦しさに深呼吸を何度も繰り返した。
『ほんと……に…かわいい。さあ…に…おりてきて……』
さっきよりもはっきりと聞こえた。
フローラの微笑む顔がはっきりと視えレイラは歓喜する。
「やっぱり、フローラさんの……心の声よ。フローラさんに寄り添えたんだわ! あの時の騎士様と同じよ」
レイラは腕をぶんぶん回し体をほぐす。婆やの言いつけもすっかり忘れて。
「やるわよ!」
気合を入れると、小さなモチモチした両手を高く振り上げて、力いっぱい何度も振り下ろした。
すると、シャワシャワと太陽の光の隙間を縫って雨が降り始め、地上へと落ちてゆく。
(もっと、もっとよ! それでフローラさんの願いを叶えてあげるの)
そう思いながらふと気づく。
(でも……彼女の願いって? この雨でどうにかできるの?)
レイラは一生懸命、雨を降らせた。
そのうち呼吸が乱れて咳込んでしまっても、それはそれは一生懸命に――。
そしてとうとう、もう手を振れないと思った瞬間、力尽きてよろめいた。
とたん体が宙に浮いた。
「――あらら?!」
フワッと浮き上がったかと思うと、みるみると急降下を始める。
(――! もしかして……落ちちゃったのかしらぁぁぁ?)
白い雲と銀の風と黄金の光、そして青い空を潜り抜けて、気づいたときには優しく微笑むフローラの腕の中に居たのだった。
***
「レイラ姫さま、御父上がおよびでございますよぉ」
婆やがノックもなしに陽気な声を張り上げて、レイラの部屋に入ってくる。
「婆やのチビ姫さまは、今日も絵を描いているのかしらぁ? お呼びしても聞こえない程熱心にねぇ」
婆やは焼き菓子と、薬をトレイにのせたまま、部屋を見回した。
しかしレイラの姿はどこにも見あたらない。
描きかけの画布とまだ乾いていない絵の具と筆が、いつも座っている小さな椅子の上に置かれていた。
そしてすこし……雨の匂いが漂っている。
陽に当たりキラキラ輝く、太陽と新緑の混じったような雨の残り香。
婆やの背筋に冷たい汗が一筋流れ落ちた。
「――まっ、まさか!」
床についている窓を慌てて覗き込めば、真下の雲に小さな穴が空いていた。
その先をよぉく、よぉく、老眼と近眼の眼を見開き覗いてみる。
「ひぃっ!」
息を引きつらせ婆やは慌てて、部屋を飛び出してた。
バタバタ、ドタンッ!
長い廊下の先にある巨大な扉を細腕の馬鹿力で躊躇いもなく押し開いた。
「へっ、陛下!」
小さな老体が輝く床の上に転がり込んでくる。
「どうした騒がしい」
雨王は不躾に入室してきた婆やを咎めることもせず、むしろ期待の眼差しを向ける。
「婆や、おチビの事か? チビ姫はどうした? 父が三日も出かけるのにハグハグのほっぺプルプルをしに来ないのか?」
偉大な雨の王はその風貌に似合わず、子煩悩だった。
隣に控えた風の精霊、天上界の武の達人に目を細めて「そうだよねえ?」と同意を求める機嫌の良さだ。だが風の精霊モットリオーネは、一応は同意するものの、大きな逞しい体をのけ反らせ雨王を諫めた。
「陛下は、レイラ様に甘すぎます。少し手放してやらないと、成長しません。お体は大切ですが、心も内気なままになってしまう。そのうち下界の者とも分かり合えなくなり、彼女自身が悲しむようになりますよ」
雨王に対しての不敬な態度も旧知の仲のモットリオーネだけは許される。
「ふん、わかっておるわ。だがモットリオーネだって、出発前にかわいいチビ姫と頬ずりしておきたいだろう? 口先男めが」
モットリオーネはやれやれと、ブリンリーに相槌を打つが、ブリンリーは目が合ったとたん、縋るような潤んだ眼差しを向けて来た。
「――で? レイラは? 寝ているのか?」
そう言うや否や、雨王は大きな翼を覆い隠す銀のマントを翻して立ち上がる。仕方がないと言いつつ頬を緩め、自らレイラの部屋へと足を運ぼうとした。
雨王の杖が大扉に触れると、ギギギィと巨大な扉がひとりでに開く。
開いたドアからは偶然にも、執事が慌てて滑り込んできた。
「へ、陛下、姫様が!」
執事は息を切らし、王を、そしてブリンリーを見ながら続ける。
「『奇跡の雨』警報が鳴り、衛兵のララッベルが今下界へ向かいました」
執事の視線の先いる、ブリンリーを雨王は見やる。
その目がどういうことかと凄んでいる。
婆やは眼差しに怯む我が身を奮い立たせ、「あ……あの……」と口ごもりながらも床の窓を指さした。
雨王とモットリオーネは巨体をかがめ、彼女が指さす窓を覗き込んだ。
すると、雨王の眉が、みるみる吊り上がり、輝く銀青の瞳が見開かれた。
「…………連れ戻してこいっ!」
王の威圧と共に、天界の雲がみな強い風になびくように尾を引いて飛んでいく。
腰を屈め執拗に下界を覗き込む王に、ブリンリーは恐怖のあまり返事もろくに出来ずにいた。
「あ、あの赤ん坊が、レ、レイラ……ちゃ……んだな? い~つの間に地上へ降りたんだ?! か、身体が弱いのに、地上に降りて無理でもしたら、いつ儚くなってしまうかわからない……」
雨王は肩で息をして、自らを落ち着かせると、モットリオーネにグイっと顔を向け募った。
「モット! 今回の天井界会議に、おまえは付き添わんでいい。その代わり、地上に降りてレイラを見張っていてくれ。頼む。ブリンリーもだ。三日、三日で帰ってくるからな」
慌てる雨王の気も知らず、モットリオーネは余裕の笑みさえ浮かべている。
「あ~そんな、心配いらないでしょ。警報まで作っちゃったの? 親ばかだねえ。さっきも言ったけど、レイラ姫はやっと自分から人間界で修業できるようになったんだ。人間の喜怒哀楽を身をもって体感することは、姉姫たちと同様、普通のことだ。そうやって、地上の民に寄り添えるようになってゆくんだよ。気にすることないさ。人として死んだら、その時はさ……」
風の騎士はの筋肉のついた厚い胸をどんっと拳でたたく。
「ほら! 風の精霊の俺が魂をのせてこっちへ運んで来ればいいだけのことだろ?っで、精霊に戻って復活だ」
ブリンリーも執事も沈痛な面持ちで俯いている。
頭上から聞こえてくる会話を聞かなかったことにしようとする。
案の定、辺りが急激に曇りだし、滝のような雨が降り出した。
床の窓を見やると、大粒の雨が急降下している。
髪を逆立て仁王立ちする雨王の逆鱗に触れたようだ。
「モォ~ットリィオォ~ネェェ~」
武人のモットリオーネも流石の非常事態に一歩後ずさった。
「……あ、ああ、やっぱり心配だよな。わかった! わかったって。俺が降りてくるさ。雨王はサクッと会議に行っちゃってよ」
すぐさま、ブリンリーの手を引いて風の騎士は退室しようとした。
だがそれも一歩遅かった。
雨王はきらきらと輝く流水のような銀の杖を二人に向け、詠唱した。
振り下ろされたが最後、白い蒸気のような靄がたち上り、二人はその靄に包み込まれた。瞬く間にその靄が晴れると、そこにはなんともかわいらしい、アヒルと子犬が座っていた。
「ほほぉ~かわいらしくなったなぁ。モット、ブー。レイラちゃんは動物が大好きだから、お前たちをずっと大切に傍に置いてくれると思うぞ」
二匹を見下ろすのは、柔和な笑みを湛えた雨王だ。
「さっ、もうすでにレイラは人間界では幼女になっておるようだ。早く行ってこい。頼んだぞ」
大きく重い手が二匹の頭をわしゃわしゃと撫でる。
「では、わしも会議に行ってくる」
天上界の、その天にも届きそうな大きな扉が両開きに大きく開かれ、雨王は王の間を緩慢な歩みで出ていった。
「これで一安心だ」とそう言い残して。
残されたアヒルと子犬は見つめ合い、相槌を打つ。
「三日だ。地上界の三十年だ。それまでに連れ戻さなくては!」
****
――地上界二十五年目。
モットとブーは悩みに悩んでいた。
雨王の帰宅が迫っている。それなのに……。
「おい、モット。お前やっぱりアヒルじゃないよなぁ。いつも俺を監視しているようだが、こっちだって気づいているんだよ」
大柄な態度で居座るアヒルに、騎士は大まじめに睨みをきかす。
「グワァ!グワァ!(うるさい、若造め! )」
モットが羽を大きく広げ騎士を威嚇すると、騎士はわざわざしゃがみこみ、アヒルと目線を合わせながら揶揄いの笑みを浮かべ対峙する。
「文句言ってるのか? 残念ながら、モット君が恋しているレインは俺のだ。お前は湖で泳いで魚食って寝てろ」
「グワァ! グワァ!(引っ込んでろ、ポンコツ)グワァ! グワァ! グワァ!(結婚してもらえないんじゃお終いだな。姫はそろそろ返してもらうぞ!)」
なぜ、アヒルにしたんだ。話しも出来ないじゃないか!と雨王を恨みながらも、風の騎士は王の言いつけを懸命に全うしていた。
のどかな丘陵地帯の湖のほとりでは、騎士とアヒルの喧嘩が頻繁にみられるようになった。
それを画家たちは面白おかしくこぞって描いた。
昨今では新しい芸術、「風刺画」として話題をさらっている。
グワァ!グワァ!ウォ~ン。
湖のほとりは今日も賑やかだ。
――レインを天上界に戻す時、リアムは意地でもついて来るに違いない。
そう思えてならないモットとブーであった。
***
これはひとりの画家の、短くも長い奇跡の三日間のお話。
そして、短くも長い三日間とその先の人生を、愛した画家に捧げた英雄のお話。
おしまい。
長い物語を読んで頂きありがとうございました。
いいね。評価、ともに作品を仕上げる励みになりました。
感想などもきかせて頂けたら幸いです。




