表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
80/81

78 雨の日


 細く弱い雨が降っている。

 山から降りてくる風は、煙る湖面で冷気を拾い、小さな家へとやってくる。

 風は家の周りをクルリと回り、軒下に吊された願い袋を揺らして遊ぶと、微かな(ひづめ)の音を残して去っていった。


 その小さな音に、画家はもう何度と見た窓の外に視線を運ぶ。

 画布に落としていた筆を置き、頭巾を取ると落ち着かない様子で、髪を(ほぐ)(くしけず)る。恋人と作ったの馬留めを見ては、気もそぞろに湯を沸かし、パイを焼く。煮込んでいたシチューの味をもう一度確認すると、画家はまた窓辺に立った。

 

 待ちわびる恋人の存在を知らしめるように、小さな家の煙突からは白い煙が空へとたち昇っている。



 ***

 


 ある村で惨状が起こり、王宮騎士団へ援護の要請が届いた。

 名乗り出た英雄は、戦意を露わにした男たちにも怯まない度胸と統率力を見せつけ、逆賊たちを後退させた。執拗に敵を貶めない彼の戦術は周知され、早々に話し合いが求められた。

 騎士は対立する者に介在し、話しがまとまれば、王宮の文官を呼び寄せ媒介し戦いを平定した。


 武装を解き、引き連れた数百の騎士と共に、王都へ戻った彼に数々の称賛が贈られる。迷いなき意思を貫き、騎士達を無傷で帰還させた英雄を、皆が羨望の眼差しで出迎えた。だが一方で、貴族社会の一部からは、根拠のない英雄の醜聞が囁かれるのも常だった。


 彼は非の打ちどころのない武官であり貴人だが、貴族社会に媚も売らず、興味も示さない。身分があれば、回避できることが多々ある王宮で、彼は特権を得ようともしない。そんな無欲な騎士を、変わり者と揶揄(やゆ)して嗤う貴族たちがいた。


 彼が貴族社会を歯牙にもかけない、その意図は明確で単純だった。

 「ただ、愛しい恋人と同じ人生を歩みたい」それだけのことだった。




 騎士は疲労も忘れ、王都から再び郊外へと馬を走らせた。

 塗れた銀の髪をかき上げながら、落ちてくる冷たい雨に恋人への熱い想いを語る。

 レンガ造りの小さな家を目にすると、騎士は馬の速度を徐々に落とし、冷たい雨に打たれ強張(こわば)った顔をほんの少し緩ませた。


 家の前の大木に手綱を括りつけていると、遠目にも窓枠の人影が慌ただしく動くのを捉え破顔する。

 シャワシャワと雨音が心地よく耳に届く中、静けさを誇張するように、バタンッと勢いよく玄関扉が開いた。目尻をさげて微笑む恋人が、エプロンを両手でつまみ雨の中をかけてくる。

 そんな彼女を、騎士は決まったように腕を広げて待つのだった。


「ただいま」


「おかえりなさい」


 腕の中に飛び込んできた彼女の、柔らかな頬を両手で救い上げ、広く丸い額に騎士は口づける。唇は頬をすべり、そして艶やかな小さな唇にも軽く触れた。


「出迎えてくれるのは嬉しけど、君が濡れちゃったな」


「リアム様を迎えに出たわけじゃないわ。ルーを迎えに出たのよ」


 琥珀色の瞳をきらきらと悪戯っぽく輝かせて彼女は笑う。

 その笑顔に、戦場で尖っていた野心が、ゆっくりと凪いでゆく。

 この瞬間が、この上なくリアムを陶酔させるのだった。


「また、王都のお屋敷に帰っていないのでしょう?」


「そうだよ。わかる?」


 硝煙の匂い、血の匂いをまだ雨は流しきれていない。恋人には見せたくない傷跡もそのままだ。それほど、この場所が恋しかった。


 軒下に揺れる願い袋の横を通り過ぎると、彼女は微笑んでから家の中にはいる。外套を脱ぐ騎士に、代わりの着替えを手渡し、この家の主は朗らかに指示を出す。


「お風呂に入ってくださいね。汚れはリアム様が頑張った証ですが、洗い流してゆっくりしてください」


 そう言われ、騎士はくすっと笑いながら、彼女の頬に再び手を伸ばす。

 親指の腹で、柔らかい頬についた絵の具を拭い取った。


「お互い様だよ」


 指に着いた赤い絵の具を騎士が見せると、画家は慌てて鏡の前に走っていった。




 泰然として構える幸せのなかで、騎士にはただひとつ惜しむことがある。

 それは、愛しい画家が拒み続ける「結婚」のこと。

 レインはリアムの家族に会うことも拒んでいる。

 ダイアナとの約束を知る彼女はそれを気にしているかと思われたが、それだけではなかった。

 彼女の芯に触れ、リアムは泣きたくなった。

 繊細で優しい心を持つ恋人は、騎士を気遣い無用な覚悟を口にした。


「リアム様が貴族として生きるために、去る時が来たら、それを受け止めます。戦争でもしも亡くなられたら、ご家族にとって私の存在は疎ましいでしょう。だから結婚はしません。どちらかが欠けても、……この先私が体を壊して死んじゃっても、お互い悲しまないように、今の時間を大切に悔いの無いように精一杯過ごせれば、それだけで幸せです」


 絆だけのつながりで十分だと語り、レインはリアムに逃げ道をたくさん用意する。そんな逃げ道など必要ないとリアムが言っても曲げようとはしない。

 だからリアムは、霧雨のような柔らかな愛情で彼女を日々包み込んだ。

 ゆっくりと愛情を染み渡らせ、そのかたくなさを溶かしてあげようと心から思っている。


 二人はお互いの時間が許す限り、この小さな家で一緒に暮らした。

 世間にどう思われようと、同じ時を分かち合い過ごせれば幸せだった。

 結婚の誓いの代わりだと、リアムはレインから、彼女の両親の指輪の片方を預かっている。

「私の愛情をあなたに捧げます」とレインが顔を朱に染め誓ってくれた日のことを、リアムはいつ何時でも思い出しひとり身悶えるのだった。戦場に立たされた時は必ずそうしている。




 「風呂に入れ」と言われたのも忘れ、リアムは雨で膨張したレインの髪の毛を手で梳くのに夢中になっていた。そんなリアムに、レインは今一度頬を膨らませる。


「早く入ってください。風邪ひいちゃいますよ。その後は傷をみせてください」


 無敵の騎士も、彼女にはかなわない。部屋から押し出され浴室へ押し込まれる。

 レインの小さな家の浴室は、リアムには小さく使いづらい。

 王都の屋敷に一緒に移ろうと考えたが、騎士は拒む彼女の気持ちを優先した。

 この家は、絵の収入を頭金にして、ネッリ画伯から買った彼女の居場所であり財産だ。手放せば彼女の心はきっと空虚に染まるだろう。

 

 

 浴室から出ると、パイが出来あがっていた。

 彼女特製のジャガイモとひき肉の詰まったパイを二人で頬張り、温かいシチューを食べ終えるといつもの定位置に二人で座り込んだ。

 暖炉の前の赤い絨毯の上で足を投げ出し、猫の置物に忘れていた帰宅の挨拶を伝える。


 雨が降り冬を間近に控えた今日は、冷え込みが厳しい。

 だが狭い部屋は暖炉の炎で十分に暖かい。


「レイン」


 名を呼ぶと子猫のように体を滑らせ膝の上に乗ってくる。

 今までの反動か、レインは甘えを隠さない。

 安心しきった身体をリアムに預け、胸に顔を寄せ話しかけてくる。

 はだけた胸元に温かい吐息がかかり、騎士の身体がさざめくのも知らず、レインは顔を埋めコロコロと笑い出す。


 そんなことを無邪気にされれば、リアムの鼓動が一定を保てるはずもない。

 いつの間にか彼女のくるんと丸まった髪に指を差し込み、リアムは何度も口づけを落とすようになる。


 彼女の匂いに思考が惑わされる。オイルの匂い、絵の具の匂い、雨の匂い、緑の匂い、柔らかな日差しの匂いに、愛しさが込み上げ収拾がつかなくなる。

 

 後頭部を抑える手に力を込めレインが抗えないようにすると、何度もゆっくりと柔らかい唇を食んだ。赤い絨毯の上に彼女の髪を広げ華奢な身体に覆い被さる。


 ――しかし、ふと目の端で白いものを捉えてしまう。


 リアムは甘い海で揺蕩(たゆた)う自分を手繰り寄せ、毎度現れる不快な白い羽に警戒を露わにした。気持ちが削ぎ落され、苛立った溜息をつく。

 仰向けになり天を仰げば、まさに今も、なぜか、ひらひらとどこからともなく羽が落ちてくる。


「――まただ」


 リアムにつきまとう白い羽。

 羽に気を取られていると、のそのそと机の下にもぐっていたブーが、ドスンッとリアムの背に凭れかかってくる。


「ブー、重い」


 ブーを肘で突くがびくともしない。ピクリと耳を動かすだけで、動じない。

 しかたなくブーをそのままに、羽の軌跡をレインの頭を抱えながら目で辿る。

 辿るうちになぜか睡魔に襲われそのままお預けとなるのはいつものことだ。

 妨害の始まりを感じ、リアムは必至に抗う。

 

「レイン、また白い羽が落ちてきた。モットはどこだ?」

 

 レインの柔らかな頬に唇を当てたまま問うと、彼女はくすぐったさに肩をすくめて目を閉じたまま囁く。


「……たぶん、お空の彼方よ。見えないところから見ているのよ。さっきまでは湖に浮かんでいたのに、いつも不思議なの……」


「アヒルは飛べないだろ」


 レインも不思議なことを言う、といつも思いながらも、リアムは微睡(まどろ)みに飲まれていった。

 暖かく柔らかい愛しい画家を抱きしめながら静けさと、訪れた眠りに自然と瞼をとじた。

 

「――レイン」

 

 問いかけることは何もない。

 ただ傍で彼女の名を呼べることが幸せだった。




















評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ