71 森との別れ
日差しが日を追うごとに力強くなり、青葉を透かし照りつけている。
比較的涼しい王宮の裏山にも、蒸した暑さが押し寄せて来た。
眩しい夏の光が降る森がある一方で、彼の地の深い深い森林では、藪の影に悪党が身を潜め、土壌を荒らしているという。
幻影商会の窃盗団摘発から明るみに出た、赤い宝石の存在。
ジェノバの樹海で出土するという噂が流れ、その鉱石の盗掘が横行している。
それは隣国へも伝わり、国境を南下させ宝の山であるその樹海を手に入れようと、抗争が起こっていた。
***
幻影商会の親玉フランク・ウォルツと、宮廷画家のキーラ画伯を捕縛したと、レインのもとへ一報が届いた。
詐欺、強盗、暴行、殺人と彼らの罪は王宮騎士団によって暴かれた。宮廷は憤り、協調性を問う会議が連日行われた。晒された宮廷画家の本質に、貴族たちは慄いた。人徳者だったキーラは偶像に過ぎず、彼の性根は酷く高慢でその嫉妬深さは狂気じみていた。
華やかな容姿に名家の出、その上外交官として有能なシャルルに対しては以前から強い嫉妬を抱いていた。フローラに至っては、修道女上がりの女流画家というだけで、忌み嫌い蔑んでいた。一流である宮廷画家が、新進気鋭の女流画家に式典の記録絵の責務を譲るなど酷く屈辱的だった。
キーラは忌々しい二人に天罰を下すべく、計画を練った。ならず者が集まる場末の酒場に赴いき、暗殺の実行役を探した。そこで傭兵の男ウォルツと出会い、二人が乗る馬車へ細工を命じたのだった。
その後もウォルツとの交流は続いた。お互いが利用しあえる仲だった。ウォルツが貴族相手の服飾店を始めると、キーラは広告塔となり店を盛り立てた。ウォルツの店を人気店にした自負から、自己概念もますます傲慢になった。
ある日、キーラの目に不愉快なものが映った。葬ったはずの女流画家の絵が友人宅にあった。
その作品が招待客から脚光を浴びていることも癇に障った。作家が別の女性であり、下働きをしている若い女だと知ると、キーラの歪んだ固定観念がまた疼いた。その目障りな絵と平民の女でありながら、弁えることの知らない生意気さが許せなかった。そうして事件は起こった。ウォルツが囲う窃盗団に女の家を探させ、絵を全て潰させた。絵を潰しさえすれば、虫けら同然の女などはどうでもよかった。
キーラと組んでいたフランク・ウォルツは、けして彼の手駒ではなかった。
ウォルツは小さな洋品店の息子だったが、店は潰れ傭兵になり紛争地域を渡り歩いていた。
戦争で庶民が苦しむ中、贅沢な暮らしをする貴族たちを疎ましく思っていた。
貧困に喘ぐ民を助けるために闇市を開き、後に幻影商会を立ち上げた。
盗賊に襲われるのも、盗まれた商品を買うのも貴族、罪の意識はなかった。
キーラに対しては馬鹿な貴族の戯言に付き合い、大金をせしめてやろうと引き受けた。
レインの事件に対して口を割らなかったのは、キーラの為ではなく、ただ窃盗をさせた貧しい農民たちを慮ってのことだった。
大使と画家の暗殺がキーラとウォルツの企てだと決定づけた証拠は、ウォルツの自宅の金庫から見つかった。
それは式典の参加者に贈られた、高価な懐中時計だった。懐中時計の裏蓋に、式典の日付と名前が刻まれていた。
***
事件は約束通り、レインの引っ越し前に終止符が打たれた。
レインは自分の化粧台を売って謝礼金を作ると、騎士団を訪ねた。
頭を下げて感謝を伝えると、反対に師であるフローラの死をおざなりにしたことを、団長から詫びられたのだった。
戦争の火種となった、大使の死がキーラ画伯によるものだと判明し、貴族社会では一大事件となって報じられた。
暗殺という重罪の裏で、シャルルとフローラの関係も密かに囁かれ噂となった。しかしリアムやメイソンたちの計らいにより、噂を訂正するような新聞記事が掲載され、それも一蹴された。庶民であるレインの事件などは話題にも登らなかった。
事件が解決しレインの胸の詰まりも取れたかといえば、そうではなかった。
心の内には、深い悲しみがこびりついて、消すことが出来なくなっていた。
両親を殺されたのだと思うと、どうしても憎しみが湧いた。やりきれない悔しさと、憎悪に眠れず、苛立ちも募った。己の心が重く醜くなっていくことも堪えられなかった。
レインは、抱えきれない胸の内を、司祭に明かした。
司祭に導かれ、装飾写本を短い期間で数枚、夢中になって仕上げた。修道士たちの朝は早く、日の出前から仕事を始め、昼に終える。やるべきことに追われれば、憎しみも薄れていくからと、司祭の言うとおりに日々を過ごした。
そうして身の回りが整理され、新たな生活へと一歩踏み出すことが出来た。
長年住んだ森のアトリエも、今日、別れの日を迎えた。
青く澄み渡っていた空に、雨雲が現れ、ぽつりぽつりと窓に雨粒が落ちてくる。
そのうち、ザアッと降り始め、土と緑の匂いに森がむせかえった。
一雨は森に恵みを与えると、あっという間にいなくなり、空は先程よりも澄み渡った。木々は別れを惜しむ様子も見せず、大きく伸ばした枝で、喜ばし気に手を振っている。
レインは、窓を開放し風通しを良くすると、荷車に最後の荷を積んだ。両親が使っていたグラスと鍋、自分の衣類と寝具、そして赤い絨毯と、猫の置物。持ち出すものは必要最低限のものと、どうしても手放せない思い出の品だけだ。
持ち帰ったフローラの絵画は、新しい家に既に運んである。
空になった部屋を掃除して、鍵を閉めた。畑も、花壇もそのままだ。時々森を観察に来るというアレックスに任せてある。庭の隅のブランコは、少し風に揺れて寂しそうに見えた。
レインは森を渡る蒼い風を吸い込んで、大きな声で家族を呼んだ。
「モットさん、ブーちゃん、いきますよぉ」
羽をバタつかせ、荷台に飛び込んできたモットはレインについて行く気満々だ。ブーも首輪をつけ、レインの引く荷車の横にピタリとつく。
忘れ物はないか、いま一度家全体を見回すと、ひとつ、軒下の願い袋が、ゆらゆら揺れているのに気づいた。
手に取り軒下から降ろす。紐をほどき布を広げ、手に収まった小瓶を懐かし気に眺めた。下げた日には真っ白だった布は黒ずみ、時の経過に思いを馳せる。
あの日は、朝から糸雨が降る春の日だった。
パトリシアが持ってきた、リアムの短い手紙を何度も読み返しては、旅立った騎士達を祈っていた。不安定な世と自身の生活に萎える気持ちを、リアムの手紙を読んで奮い立たせていた。
手紙はレインの宝物だった。だから、雨で朽ちないように小瓶に入れ、軒下に吊るした。
――無事に帰ってきますように。
包む布にそう記したのを切なさと共に覚えている。
そして、あの頃から四年近く経った今もまた、同じ願いを胸に抱えている。
(――新しい家にまた願い袋を下げよう。彼が無事に帰還できるように。もう会えなくてもいいから)
「ありがとうございました」
レインは手に取った瓶に、成就した願いのお礼を言いながら、ふたを開けた。
瓶を傾けると、中から小さくたたまれた紙が手のひらに転がり出てくる。それは時が経過した割に、形状を保っていた。レインは不思議に思いながらもそっとその紙を開いてみた。
「え?」
現われたのは四年前と変わりない力強い筆跡。だが、白い紙の上の黒いインクは異なる文字を綴っていた。
――レイン――
自分の名だけが綴られていた。
その文字が涙で滲み見えなくなる。
押し殺していた感情があふれ出し、レインは天を仰ぎ深く吐息を漏らした。
窓の奥に見えるアトリエに光が差し込み、その空間がレインを呼んでいる。
『あなたの居場所よ』
あの場所にいれば、渾沌とした気持ちを整理できる。
絵を焼いた日のように。両親を失った日のように。
レインは涙を拭いながら、もう一度だけ、と言い聞かせ、がらんとしたアトリエに入り床に腰を下ろした。
手紙を胸に当て目をつむる。
アトリエに染み込んだオイルの匂いを吸い込むと、鮮明に浮かび上がる景色があった。
『金色の麦畑も、黄色い花の咲く木も、川を見渡す展望台も、岩のトンネルもぜんぶ素敵でした! ほら、こんなにたくさん素描ができました』
『さすがだね。レインにみせた甲斐があった』
『家に帰ったらさっそく画布に描きます。きっと描き始めたら楽しくて眠れなくなっちゃうわ』
『アトリエがまたキミの絵で埋まればいいね』
空っぽのアトリエと新しい絵。
リアムに背を押され歩き出した自分がいる。
小さく折られた紙を、絵の具の染みのついたエプロンのポケットに忍ばせると、“自分の居場所”に別れを告げ、鍵を掛けた。
そうして、レインは人知れずの森をあとにした。




