69 反撃 下
ダイアナの後ろに控えていた侍女が「まぁ」と呆れ声を発した。
侍女の声に委縮しきったレインはびくっと体を震えさせる。
何に気づき、そんなに驚かれたのか。
もだつくレインをダイアナと侍女の冷えた目がじっと見据えていた。
「リアム様はずっと仕事でお忙しいようですけど、あなたと会う時間はあったのね……」
緊張感と静寂で、集う応接室は重々しい。
そんな雰囲気のなか、突如ノックもなしに扉が勢いよく開かれ、みなが驚き振り返った。
「ただいまあ、パティ! レインもおまたせ。リアムと旅先で話していると思うけどさあ、盗品のことなんだけどね……」
一気に注がれた視線にメイソンは、ドアノブに手をかけたまま固まっている。
聞き捨てならない言葉に女性たちも固まった。
今だけは、決して口に出してはいけない単語が皆の耳に残ってしまった。
「え?」
「……」
「ええっ!」
後ろに控えていた古参のメイドが彼の耳元で小言を言う。
「お客様がお見えになっていると言ったではありませんか! みっともない!!」
「い? いや、レインのことかと……」
不服そうな視線を向けたのはメイドだけではなかった。
彼は慌ててダイアナに挨拶をするが、彼女は笑顔を返すと、耳にした言葉をかみ砕いているかのように、ゆっくりと紅茶を一口飲み、音もたてずにカップをソーサーに戻した。
「――あぁ。おかえりなさいませ。メイソン様」
おくればせながら、パトリシアはことさら明るく振る舞い、メイソンを迎えた。
ちらちらとダイアナを窺いながら、早口で状況説明を彼にはじめる。
「ダイアナ様が絵を確認しにいらっしゃったところなのです」
ダイアナの侍女が持っている絵に手をかざしメイソンに「ご存じでしょうか?」と問う。
「これはレインの絵なのですが、リアム様がお持ちになっていたそうなのです。……盗品の中から見つかったものなのですよね?」
メイソンは絵に近寄り確認すると、レインの期待とは裏腹に首を横に振った。
「ああ、この絵のことはリアムから何も聞いていないな。困ったな……」
確信を得たとばかりにダイアナの強い視線が、レインを捉える。
「先程のメイソン様の一言で理解しましたわ。リアム様はジェノバに行くと私に伝えておきながら、そちらのメイドと旅行をするような深い間柄なのですね。この絵もやはりリアム様を慕って描き、彼に差し上げたのでしょう? 一目見て女の感が働き、確かめてみたくなりましたの」
絵描きにとって絵から感じ取れるものがあると言われれば、幸福だが、今回ばかりはそんな風に感じ取ってほしくなかった。
レインは礼を欠くと承知のうえで、ダイアナに訴えた。
「あの、誤解なさっています! 私とリアム様の間にそのような関係はございません。盗難にあったのも事実です」
何を言っても説得できる証拠もなく、素直に納得する相手でもなかった。
その上、雲泥の差ほどの身分違いはレインの発言を許さなかった。
「あなたと、リアム様が以前から親しいことは承知していたわ。舞踏会や城下で挨拶を交わしていたから。でも、まさか下働きの女性が恋人とは思っていなかった……。いいえ、パトロンね。貴族でもないあなたがどうして絵の心得があるのかしら。リアム様の愛人になって援助してもらってるのね。私がいながら逢引き旅行していたなんて、まったく彼はだらしない人だわ」
「そのような関係ではございません。援助も受けておりません。先日ボルダロッドに用があり単身で出かけました。その道中、偶然にも事件の捜査にジェノバへ向かうリアム様とお会したんです」
「もう、言い訳はよくてよ。偶然はあなたが仕掛けた必然でしょう?」
ダイアナは深い溜息を吐き出しながら、執拗にレインを責め立てる
地位も財産も美貌もあり、婚約して順風満帆な彼女がなぜ、絵を見ただけでこんなに腹を立てているのか。リアムとの信頼関係が脆弱であるとしか思えなかった。
「メイソン様も私とリアム様の関係はご存じです」
「そうね、あまりにも釣り合わないから、彼も疑わなかったのよね」
彼女は感情的に絵をメイドから取り上げ、爪を立てて握り締めている。
「……そんな」
罪を犯したことを疑うに足りる、相当な理由として暴かれた自身の恋心。
彼に恋をしながら旅を共にしてしまった大罪。
婚約者として訴える彼女は被害者だ。
(――もう無理だわ)
「――大変不快な思いをさせてしまい、申し訳ございませんでした」
「認めるのね。じゃあこの絵も返さなくていいわね?」
「かまいません」
(一旦はなくなった絵よ……)
「そう」
冷静に手元の絵を眺めたダイアナが、侍女に耳打ちする。侍女はテーブルの上に置いてあった、ケーキナイフをすばやく手に取り俯きがちに主人に手渡した。
「ちょ、ちょっと、待て!」
気づいたメイソンの咄嗟の制止も、画布の悲鳴と重なった。
ダイアナの美しい顔を写すナイフの輝きが、画布の中央を突き刺し、下に押し引かれた。
画布は張りを失い、絵の具の重さで無残に垂れ下がった。
衝撃に瞠目するレインの目の前に、歪んだ画布が突きつけられた。
「やっぱり、返すわ」
レインは差し出された画布に手を伸ばした。
その重みと形状に事件の時と同様の衝撃が蘇り、心の中で悲鳴を上げた。
『君にしてあげられることはあるか?』
また彼の声が聞こえてくる。でももう、聞きたくなかった。
彼に恋したばかりに、罪人にさせられてしまったのだから。
(――ないわ。なにもない)
リアムの声を散り散りに吹き飛ばし、レインはじっと息を詰めた。
呼吸も忘れ蒼白になったレインの肩を、パトリシアが、小さくゆすぶり起こす。
メイソンは破裂し、溢れ出す怒りを我慢できず、荒くダイアナを咎めた。
「婚約者の姿が描かれた絵を、なぜ裂くことができる。それも作者の前で! そのような心ない下品な方は、この屋敷から出て行っていただきたい」
低く唸る男の声にも、気の強いダイアナは何の臆面もない。
「――婚約者ってリアム様の事? 下女と遊んでいるような、不埒な方は願い下げだわ」
言い捨てて、胸のつかえが取れたとばかりに、ニンマリと微笑んだ。
「あなたは、夜会でもそんなことを吹聴していた。リアムの何を見てそんなことが言えるんだ。そんな幼稚な言い草ばかりならべていれば、あなたに非があり婚約もうまくいかなかったと、誰もがそのうち気づく」
メイソンはダイアナを睨み付けながらドアを開け、出て行くように促した。
侍女は怯え、主人であるダイアナの袖を掴み、出るように急かす。
「リアムの身体の傷を、婚約者殿は知らないようだな。戦場で負った無数の傷を見れば、あいつが辺境伯になる決意を固めたこともわかるのにな。たとえ自分の心情を曲げなければいけない条件を付き出されてもな」
ダイアナは憤慨を嘲笑に変え、白けた目をしてメイソンをねめつけている。
「今頃、彼はジェノバで辺境伯どころか除隊させられているでしょうね。才能のない画家気取りの女のせいだと、次の夜会では皆に伝えておくわ。あなたも男爵ごときでそんな口を利くようじゃ、問題があるわ。あなたのことは父と宰相に伝えておくから」
親の威光を笠に着て、ダイアナは堂々と屋敷を出て行った。
一連の話からリアムの態度が変わった理由をレインは全て理解した。
婚約は、辺境伯になるための条件だった。だから、誠実な彼は婚約者に尽くした。下手な勘違いを婚約者に与えぬように身近にいた女性を避けていた。しかしダイアナとの関係が破談になり、その配慮も辞めたのだ。
レインは思考を整理しながら、ぼんやりと切り裂かれた画布を見詰めていた。
「――レイン大丈夫?」
パトリシアに案じられ、レインはぼうっとしていた表情を引き締めた。
深呼吸をし、いつものように、痛みが通り過ぎるのをじっと噛みしめた。
今までは毎朝天に、そしてあの絵に、無事に過ぎ去っていくことを祈っていた。
祈る絵を失くしたならば、毎日一生懸命働いてまた絵を描いて、何も聞かず、見えなくなるまで疲れて寝てしまえばその痛みは消え去ってしまうだろう。
「――ご迷惑をおかけいたしました」
レインは無残な画布の木枠を、椅子の足元に立てかけ、手放した。
長い間ずっと自分を励まし続けてくれた絵を、粗末に扱う罪悪感に苛まれながら。
「あいつはバカだな。結局婚約解消だ。男相手なら目端が利いてすごいやつなのに、女性に対してはどうしてこうもポンコツなんだ。ジェノバで今頃、殴られているさ」
レインの気持ちを汲み取ってか、メイソンは眉を動かし明るく話す。
レインは相槌こそ打つが、リアムの話題は神経が拒否した。
「リアムはさ、昔っから出世とか地位とか興味なかった。だからさ、辺境伯を安易に引き継いだわけではないんだ。あいつには明確な信念があった」
話を上の空で聞き流しているのに、メイソンの話が自然と懐かしい記憶に結び付けられた。
レインの脳裏には、雪が吹雪く光景が浮かび上がる。
(――知ってるわ、雪の日にリアム様が話してくれたから)
心の中でひとりよがりにレインは呟いた。
「戦争が終わっても、仲間を失い気持ちがすさんで、戦争の不条理に苦しんだ。リアムは二度も経験しているから、なおさらだ。英雄の肩書も嫌っていた。人を殺して英雄なんて間違っているって言ってね。――あいつは故郷を再び戦地にはしたくなかったんだ。めっちゃくちゃ強くて戦地に立てば皆に恐れられるほどなのにさ、剣では誰も救えないとわっているんだよ。だから領主になって紛争を回避しようって思ったんじゃないかな。でもね、それはダイアナとの婚約が条件だった」
リアムのことを語る一方でメイソン自身の経験も重ねているのだと、彼の目を見てレインは悟った。
瞳の翳りが戦争の苦痛を物語っていた。
「レイン、リアムを許してあげて」
覗き込まれ、自分に話しかけているのだと我に返る。
「リアムを許してあげて」
もう一度言われ、レインは重い溜息をかみ殺した。
「許すとは対等な立場にある方が使います。私はそうではありません」
心の声をそのまま口に出す。
リアムにもう合わす顔が無い。
「――引っ越しをしたら手紙を書かせていただきます」
「会って今までの事、話せたらいいね。手紙じゃなくてさ」
メイソンの心遣いに頷いて見せるが、やはりそれは偽りで心は虚ろのままだった。
パトリシアはずっと鼻白んだ表情で窓の外を見詰めていたが、ダイアナの馬車が出て行ったのを確認すると、「まったくっ!」と貴婦人らしからぬ声を発し、メイソン腕をひっぱった。
「メイソン様、もう、この話はやめて、お茶でも飲みましょうよ。レインも、ね?」
仕切り直しの号令をうけ、メイソンは妻に敬礼する。
「まあもうリアムのことはいいや! さっ、もっと明るい話を聞かせてあげるよ。事件のね。お茶でも飲みながらさ」
いつまでも暗い気持ちを引きずっては二人に申し訳ない。
レインは表面上は平静を保ち、ソファーに腰を下ろしすとお茶をゆっくりと口に運んだ。




