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60 教会の夜


 石畳の道沿いにレンガ造りの家が立ち並んでいる。

 夜も更け、明かりが灯る家は少ない。

 雑音を吸い込んでしまった月夜のしじまは、蹄の音だけを大きく響かせた。

 

 重厚な扉がギイィと大きく軋み、脅かせてはいけないと、リアムはすぐさま名を呼んだ。


「レイン」


 返事がなく、姿も見えない。荷物だけがぽつんと置かれていた。

 月光に照らされた静寂の街を、人影を探して歩く。

 すると前方に、小柄な人影が現れた。歩みを止め、一歩退くその影は、警戒する様子を見せている。


「レイン、俺だ」


 手を振れば、すぼめていた肩を撫で下ろし、レインは月を背負い駆け寄ってくる。普段晒すことのない、腰まである髪を光になびかせながら。


 いつもと違う印象の彼女に、瞬間でリアムの視線は釘付けになる。

 貴族以外の一般女性は、家族や懇意にしている男性以外の前で髪を晒すことはしない。なのに今、自分の前で気を許すレインに、リアムは途方もない願望を抱かずにはいられなくなった。


「もう、驚きました! どうしてここに? リアム様はお屋敷でお休みになられている時間(ころ)でしょう?」


 言葉に反して、レインは子供のように顔を(ほころ)ばせ喜んでいるように見えた。

 湯に入ってきたせいか、全体的に無防備だ。白いチュニックは女性的な輪郭を強調している。


「君こそ、こんな時間に浴場に行ってたのか? 危ないな」


「こんな時間だからです。貸し切りでしたよ」


 薄く紅に色づいた柔らかさそうな唇が、幾分親し気な口調で話してくる。

 散々同行を拒んでいたはずだったが、今は全く咎めようともしない。

 そんな、安堵した顔で隣を歩くレインの心情を、リアムは慮る。


 侯爵と話を終えて戻ってきた彼女に今のような輝きはなかった。

 微笑んでも悲し気で、瞳は孤独を映し、労しかった。

 

 侯爵の家族を不快にさせるからと、自ら身を引くのは、味方がいないからだ。

 暗い教会で野宿になろうとも、弱音を吐こうとしない。

 言い出せない言葉は、その哀切が滲む表情からいつも見てとれた。


 リアムは、レインの瞳の奥を覗き込む。物憂げな影も今は潜めている。


「レイン、ちょっと待って」


 安堵する無防備さは可愛いが、いささか放っておけず、その場に立ち止まらせると、彼女の薄い肩に自分の上着をはおらせた。


「誰が見ているか、わからないぞ」


 白く丸い胸元が月明かりでより白く反射している。

 その上チュニックの下のふっくらとした曲線が月光に透けて艶めかしい。

 レインは自分の体に視線を落とすと、意味を理解し、恥ずかしさに顔を隠した。

 そんな彼女に騎士は愛しい眼差しを向ける。


 慌てて髪までまとめて隠そうとしたレインに、リアムは無意識に手を伸ばし、はたと止めた。何をしようとしたのか?と己の手に問いかけ、呆れかえる。


 そんな不埒な騎士を月は終始強い光を放ち監視している。


「まだ濡れている。縛らない方がいい」


 レインは髪を肩口でさわり、しっとりとした髪を後ろに払いのけた。


「だらしなくてすみません。乾いたら縛ります」


 自分の前では、だらしなくていい。そんな日常をリアムは思い描く。


「乾くまで散歩するか? それともいちじくのパイを持ってきたから、すぐに戻って食べようか」


 レインは足を弾ませ、リアムの一歩前を跳ねるように歩きだす。


「散歩もパイも両方がいいです」


 そんな可愛い要求を突きつけるレインの些細な我儘に、リアムの独占欲が掻き立てられた。

 差し伸べた手を握り返すその素直さを、大切にしてあげたい。握る手は自分であってほしいと願う。

 幻想のような月夜はリアムを酔わせ、許されない咎を背負う現実を忘れさせる。


 乾きはじめた柔らかい髪をリアムは愛でる。

 毛足の長い子猫が時々小走りについて来る。さながらそんな光景だ。

 

「――明日は雨かもしれませんね」


 白く細い指が空を指さす。月が僅かに滲んでいた。


「どうだろうな。たしかに少し風がでてきたな。そろそろ帰ろうか?」


「ふふっ、次はお楽しみのパイです」




***




 食べるところを見られるのが恥ずかしいのか、少し横を向き手皿を添えてレインは小さくパイにかぶりついた。その仕草にも、不思議と品がある。

 美味しそうにパイを食べる()使()()()()を見ながら、明日訪れる領主の屋敷で、彼女が今のように笑顔でいられることを願った。


 見つめていた小さな横顔が、不意にステンドグラスを仰ぎ見る。月の陰りを気にして傾けた首筋は、普段頭巾で隠れていたため、新雪のように真っ白だ。

 その首筋に薄く残る傷にレインは無意識に手を添える。痛みを耐えているようなその仕草が心配になる。同時にその手に光り輝く指輪にも、意識が引き寄せられ、よりリアムの不安が煽られた。


「その指輪、どうしたんだ?」


 すかさず問えば、レインは首に当てた手を離し、ふと指輪に視線を落とした。

 片方の手で愛しそうに指輪を撫で、手の甲をリアムに向けて見せる。


「両親のです」


 首の傷、両親の形見、レインの心を(えぐ)った事件はついこの間のことだ。

 それでも傷を隠し、竦む足を奮い立たせ彼女は旅に出た。普通の女性ならば、傷が癒えぬうちに、こんな旅に一人で出かけることなどしないだろう。


 指輪を撫で、軽く口づける仕草は、甘酸っぱい色香を放ち、リアムの私欲をざわつかせた。

 自分の知らぬ間に、レインは美しい大人の女性に変貌した。彼女の描く絵さながらに、琴線に触れてくる。だから、ひとりよがりに彼女を追い求めているだけの自分に、焦りを感じている。


 お互いに知ることのない三年間、自分には地位と婚約者ができた。

 ならば、彼女にも相応の変化があって当然なのだ。

 

「結婚指輪なんて、はめていたら既婚者だと勘違いされるぞ」


 男の焦りが、つい挑発的な言葉になった。

 レインに既婚者などという言葉はそぐわない。しかし目の前の蠱惑的な女の仕草がリアムを疑心暗鬼にさせた。


「むしろ勘違いされた方がいいと思ってはめたんです。一人だとわかると狙われるかもしれませんからね」


「浴場で人に会った時に、か?」


「ええ」


 一人住まいを狙われた教訓からそんな考えに至ったに違いない。

 独身女性を蔑視する世間体と、公に出来ない身の上が、襲いかかった不幸さえも、小さな体に仕舞い込ませる。人に頼れず、自分自身を必死に守り抜く。


 山中で男たちを対峙した時、リアムはレインの心の内を見た。

 酷い混乱状態は、蹂躙された心が限界に達したからだ。


「――今は俺がいる。外して置けばいい」


 疲弊し、倦んでいる彼女に「今」だけの助けは意味がない。

 彼女も気休めと捉えたのか、あしらうように、ふふっと小さく笑みをこぼした。


「今は、必要ありませんね」


 指輪を外し箱に戻す。箱にはもう一回り大きな指輪が入っていた。

 二つ揃った指輪にレインは愛おしい眼差しを向ける。

 年頃の女性の愁いを帯びたその笑みに、リアムは憤り苛立ちを覚える。

 思うようにならないレインを前に、男の本音を吐露した。


「王都に戻った後どうするんだ? 頼る当てがあるのか?」


 自分であってほしいと願い、そう答えを導くために問う。

 だがレインは、細い首を項垂れたままゆっくりと首肯した。


「――当てが……あるのか?」


 信じられず聞き返したが、レインは指輪を撫でながら、リアムと目を合わさない。リアムの戸惑いも険しさも気づかない。まるで、あなたには関係ないというように。


「どうでしょう」


「――なんだよ。それは」


「ずっと励ましてくれた人がいます。その人がまた背中を押してくれると思います」


 レインは頬にかかる髪を耳に掛け、軽い緊張を滲ます。


「――そんなやつが、いたのか。そいつはレインのなんだ?……好意を寄せている相手か?」


「……内緒です」


「――アレックスか?」


 リアムは潜在意識の中にある男の名を口走り問い詰めた。

 レインより四つ年下のアレックスは彼女のことを意識している。そしてレインも留守を預けるほど彼を信頼している。


「アレックス様?」


 レインは真剣になる騎士に呆気にとられた顔を向けた。


「……そうですね、アレックス様はお優しい方です。おこがましいのですが、実はよいお友達なんです」


 そう言ってレインは明るく笑い、再び視線を手元に落とした。

 心の内を隠そうとしているようにも思える態度が、余計図星ではないかと思わせる。


「笑い事じゃない。君が独りだから心配しているんだ」


「ごめんなさい」


 声を控え、フッと肩の力を抜くと、また哀切が滲んだ胸に迫る笑みを向けてくる。

 リアムは壊れ物を扱っているような緊張に細い溜息を吐いた。

 レインは、手元に残るパイの包みを黙って折りたたんでいる。

 静けさが敏感に二人の音を拾った。


「――明日でお別れですね」


 不意に話に終止符が打たれる。

 リアムが描いていた()()とは違う真実の別れを告げられる。


「リアム様が一緒でとても助かりました。戻ったら事件のこともありますし、進展がなくても一度騎士団へご挨拶に伺います。その後は……絵で食べてゆけたら嬉しいのですが、どうにかできるように頑張ります」


 リアムが胸の内を整理する間もなく、レインはそっとこの時間(とき)を去って行く。

 納得がいかない騎士は思いを寄せる画家を必死で引きとめた。


「――その、励ましてくれる人がレインを支えてくれるのか? 生活や金銭を援助してくれるのか? 俺が君に何かしてあげられることはあるか?」


 露骨な問いを投げかけるリアムに、レインは驚き目を瞠る。

 琥珀色の双方を瞬かせ、何か言いたげに口ごもる。

 静寂に心を鎮めているかのように時間がすぎ、そうしてようやく紡がれた言葉で、彼女は隣にいる男をあっけなくに突き放した。


「――私の事はいいんです。リアム様がジェノバで活躍される噂を励みにかんばります」


 笑顔も返せず、肯定することもできない男を置き去りにしてゆく。

 明るく二人を照らしていた月光はいつの間にか光の帯を薄くさせている。


「――あ、あの明日も速いのでもう、寝ます。明日はご迷惑をおかけしないように努めます」


 迷惑?そうじゃないと、(すさ)むリアムの心の声は届かない。

 レインは騎士の貸した上着を脱ぎ、丁寧に畳んで返却する。

 リアムが受取ると、彼女はよろよろと立ち上がり自分の荷物を持って前方の席に移動した。


「明け方はたぶん冷えますから、リアム様が羽織って寝てください」


 レインは鞄から自分の上着を取り出し、肩にかけて長椅子に横たわった。

 差し込んでいた光の帯は消え去り、仄暗い中で柔らかな声だけが浮かび上がる。


「おやすみなさい。リアム様」


 幕を落とされ、リアムは憤りを溜息で押し流しながら、レインの傍へと歩み寄った。

 驚いた顔で見上げるレインにリアムは気軽を装った笑みを見せる。


「おやすみ、レイン」


 持参した毛布を広げて手足を丸めた彼女の体に掛けた。


「ありがとうございます。リアム様のはありますか?」


 くぐもった声が礼拝堂に反響し、まるで耳元で話しているように聞こえてくる。


「あるよ」


「明日、リアム様がジェノバまで無事に着くことをお祈りしています」


「俺に言ってるのか? 自分の心配をしろよ」


 毛布から覗く(まなじり)の下がった瞳がより下がる。それを長く見つめていると、さっと、毛布で隠された。


 扉から入る冷たい隙間風が足元を通り過ぎてゆく。

 リアムはレインに当たる風を遮るため、後方の椅子に横たわった。


「帰りは馬車を出してもらうんだぞ。歩いて帰るなよ」


「ふふっ、大丈夫ですよ。もう、旅に慣れましたから」


「レインの大丈夫は当てにならない」


 小さくかすれた笑い声と咳払いが、篭った音に変わる。毛布を頭から被った気配がした。鼻を啜る音が漏れ聞こえ、リアムは体を起こし覗き込む。


「具合が悪いのか?」


 すると毛布から白い片手だけがひらひらと出て(くう)をさまよった。

 その手を掴み握れば、柔らかい親指で手の甲を撫でられ、そしてそっと毛布の中にしまわれてしまった。


 雨がぽつぽつと降り出した音に、二人は耳を傾けた。












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