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55 山越え


 旅立って三日目の朝。


 昨晩、レインは修道院に泊り、リアムは街へと向かって行った。

 だからレインはここでリアムと別れるつもりで、散々礼を言った。にもかかわらず、リアムはそっけなかった。だからだったのか、彼は再び修道院にレインを迎えに現れた。


「おはよう! さあ、今日こそ馬に乗ってもらう」


 レインは唖然としながらも、リアムに従い馬に乗った。

 ボルダロッドの市街地に入るために、山を越えなければならなかった。

 緩やかな山越えだが、レインの体力では日暮れまでに越えられないだろう。

 それを見込んでのリアムの判断だった。


 乗ってレインは再び唖然とする。彼の辛抱強さを思い知らされた。


 手綱を引いて歩く騎士の歩みは、レインの全速力よりも速かった。


 (――ありえないわ)







 山の中腹に差し掛かった頃。不意に、リアムが何かを察した。

 辺りがざわつき、突然森に割れるような音が響き渡った。


 馬の背から見えたのは、遠く前方で横転した馬車だった。

 直後、怒号が飛びかい、レインは馬から降ろされた。


「そこの木に隠れていろ」


 リアムの指示もまともに従えず、レインはその場に立ち尽くす。

 視界が狭くなり眩かった緑が、一転して暗闇に変わる。あの日の恐怖に瞬く間に支配され、馬を駆り去ってゆくリアムの背にレインは夢中で手を伸ばした。




「弓だ、弓を持っているぞ」


 駆けてくる馬を、男たちが剣や斧、銃を片手にぎこちなく待ち構える。

 銃声が鳴り響き、レインは即座に騎士の安否を確認する。


「――あっ」


 押さえた口から、糸よりも細い悲鳴が漏れる。硝煙の匂いに眩暈(めまい)を覚えながら、レインは状況を見据えた。

 リアムは体勢を崩してもなお、馬から落ちることなく弓を射っていた。男たちの動きは鈍く、不慣れさを露呈させている。もしくは騎士が強すぎるのか。

 圧倒的な力の差に、息切れぎれに逃げ出した男たちが、依然として立ち尽くすレインの方へと向かってくる。それでも呆けているレインに、リアムの眼差しが檄を飛ばす。”隠れろ“と硬直しているレインに訴えた。

 気づいたレインは咄嗟に木陰にうずくまり身を潜めた。耳を塞ぎたくなる叫びが次々に聞こえ、張り詰める神経が千切れそうになる。頭を抱え込み地面にはいつくばり、続く恐怖に凍りついた。


 一瞬の静寂が過ぎさったのも束の間、剣のかち合う音が耳に届いた。

 逃げ場よりも騎士の姿を探し、恐る恐る木立の影からレインは音の方へと顔を向けた。

 倒れた馬車の前で負傷した御者(ぎょしゃ)が及び腰で大男と剣を交えている。そこへ飛び込んでゆく騎士の姿を捉えた。


 騎士の剣が大男の太腿に尽き刺さる。刺さった剣を引き抜き、同時に大男の首に後ろから片腕を巻き付け失神させる。仲間が、その隙に御者を突き飛ばし、横転した馬車の扉から手を入れ鞄を奪い逃走した。騎士が見逃すはずもなく、男は後頭部を蹴られ、盗んだ鞄を投げ出し昏倒した。


 レインは大木に身体を委ねながら、祈るだけでは終わらない状況を悟る。己を奮い立たせ、敵の姿を見逃さぬよう注視した。最中、馬車の影に隠れた男を捉え、引きつる喉から声を必死で絞り出した。


「馬車の後ろです!」


 隠れていた男が、レインの声に驚き、森の中へと逃げていく。

 刹那、その男を追うかのように、飛び出すレインの姿があった。


「来るな!」


 言葉は理解できても、身体が逸る。男を捕まえようなどと考えていない。ただ、リアムのもとへと、急ぎたかった。彼を守りたかった。安心できる場所へ行きたかった。怖くてたまらなかった。


 何度も転倒しながら騎士のもとへと辿り着く。リアムは転がり込んできたレインを片腕で拾い上げ掻き抱いた。片腕には、血濡れの剣を光らせ、足元には白目をむいた男の顔があった。

レインは騎士に抱え込まれても、なお、自らきつくしがみついた。


「――ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」


 邪魔な自分がしがみ付いていることを謝り続ける。しかしレインにとって今ほど感情を抑えられないことはなかった。混乱するレインを騎士は押さえつけるように抱きしめた。荒れた呼吸に肩を隆起させる騎士の腕に、力がこもると、レインは胸元へ引き上げられる。

 おもむろに見上げた蒼白の額に、口づけが落とされた。


「大丈夫だ。もう終わりだ。謝る必要はない」


 唇の温かさが額から体に浸透し、混乱が鎮まる。

 リアムはレインの心情を思いやるように優し声で告げると、腕の力を弱めた。


「一緒に居てあげたいけど、少し離れるよ」


 腕を解かれたレインは、その場に崩れ落ちペタンとしゃがみこんだ。

 リアムは倒れている男を引きずりレインから遠ざけると、だらりとした男の手を後ろ手に縛り上げた。




「た、助かった!」


 遠くで御者の声が響いて、レインは騒然とした森をぐるりと見まわした。

 御者たちが剣を捨て、負傷も気にせず夢中で馬車の扉をこじ開けていた。中にいるのが、襲われた張本人に違いない。横転した馬車はかなりの重量らしく起こすことも不可能に思われた。

 惨事の後処理に皆が励む中、レインは役立たずの己を立て直すことでめいっぱいになる。

 以前の恐怖が未だ身体に残る中、新たな恐怖が積み重なり、脆かった心は限界を迎えていた。


 眩暈と過呼吸に襲われ、レインの瞳に空が映る。

 手が(くう)を彷徨い、そのまま地面に横たわった。

 苦しさに身もだえるレインに気づき、リアムが駆け寄る。武骨な手が華奢な背を必死で摩り上げた。


「レイン、ゆっくりだ。ゆっくり、息を吸い込め」


 すっかり色を無くしたレインの顔をリアムの両手が包み込み、上を向かせた。

 目を見詰めレインに言い聞かせる。


「レイン、安心しろ。もう心配ない。落ち着くんだ」


 リアムに体を支えられ、声をかけられ、朦朧とした意識の中レインは少しずつ落ち着きを取り戻す。

 

「まだ苦しいか? 落ち着いて、息を整えよう」


 意識が繋がり、レインの瞳に精気が宿る。

 騎士の必死な形相から自分が陥った状況を振り返る。


「もう、何も起こらない。何かあっても俺が助ける」


 優しさが冴え冴えと伝わってくる。回りくどさもない、言葉が余計に虚しい。

 胸の奥でひとりでに溶けてしまった粘着質な感情を、晒してしまった後悔が、もう押し寄せ、甘い感情を忽然と消し去った。










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