47 灰色
木立を抜けると、一変、視界が明るくなる。
葉から落ちる雫が木漏れ日に反射して眩しい。
森は、レインに降りかかった恐怖も、無かったことのように変わらぬ美しさを放っている。冷たく無視しているのか、それとも気にするな、と言っているのか。どちらにしても、レインの帰る場所はここしかない。
焦げた大木が、いまだに嫌なにおいをさせている。
レインは言葉にならない溜息を洩らし、玄関のドアをそっと押し開けた。
「大丈夫か?」
思考が閉ざされ、気遣うリアムの声も遠くに聞こえる。
無意識に足が動き、レインは家の中へと導かれ、無言のまま徘徊する。
男たちの足跡もひっくり返った椅子もない。だか、殺伐としていた。
両親のクローゼットは、荒らされ宝石やドレス、スカーフなど高価な物はすべて無くなっている。侯爵から預かった金銭も当然無い。唯一、ベッドの下に置いてあった旅行鞄だけは手つかずに残っていた。
両親の指輪と少しずつ溜めた旅費が、レインの今後の生活を繋ぐ唯一の救いとなった。
床につく黒ずんだ染みに目が留まる。自分の血、はたまた犯人の血か。研ぎ澄ます神経が、頭の傷の痛みを伝えてくる。
レインは傷の上に手を乗せ、なぜこの傷があるのかを思い出す。
ブーの後を追い何気にドアを開けて、男たちと目があった。戦慄、悪夢。アトリエに散らばる切り裂かれた絵。取り返そうとして殴られた。
アトリエに入ると、無惨に山積みにされた画布があった。
開け放たれたままのアトリエは、もう、絵の具の匂いさえ残っていない。
肩を抱き寄せる騎士を見上げ、一心に伝える。
どうしよう。どうしたらいい?と眼差しで。
言葉に出来ない苦しさは、自分で散々彼の厚意を拒否し無駄にした罰。
「犯人が憎らしいな」
事件があった事実を肯定する騎士の引きつった声に、レインは身体を強張らせた。
力がぬけ、床に膝をつく。冷たくなった指先を、転がった絵に伸ばした。
力が入らず迷うレインの手を、リアムがつかみ、強く握り返す。
「あとで一緒に片付けよう。修復出来るなら、画材を買いにいこうか?」
顔を見合わせた騎士の瞳が、仄暗く輝き怒りを滲ませているように思えた。
慮ってくれることが伝わってくる。だが騎士に大丈夫だ、ありがとう、といつものように言い返せない。
心中がわなないてどうにもならなかった。
レインは震える手で必死に破れて垂れ下がる画布を、何度も何度も合わせる。壊れてしまった時計の針のようにカタカタと外れた木枠の音を響かせて、何度も何度も繰り返した。
「……直せない」
押さえても裂けた切れ目は不格好に引きつり、手を離せばまた垂れ下がった。
どうにもならない苛立ちに飲み込まれ、レインはおもわず声を荒くした。
「――買い足すにも画材はとても高いんです」
なぜ、それを理解できないのか、と理不尽にリアムにあてつける。
「ほとんどの絵の具は鉱石で出来ています。この鮮やかな青は婦人たちが身に着けている宝石を砕いて作り出されています。この青に魅了されて、財産を失った画家はたくさんいます。母はいつも、父に言っていました。『宝石は砕いてから頂きたいわ』って笑いながら……」
失ったものが怒涛の如く押し寄せて言葉になる。絵も両親も思い出も、取り戻せず悔しさばかり募る。
何も関係ない騎士に、甘えた感情をレインは爆発させた。騎士に対しての非礼。だがリアムは愁いを秘めた形容しがたい表情でレインの話を黙ってきいている。
レインは、込み上げた感情を抑え込むように、腕の中に一枚の額縁を抱え込んで顔を埋めた。
人形のように動かなくなったレインの頭を躊躇いがちに大きな手が撫でる。
言葉の代わりに、擦り切れた心を大きな手で懸命に摩り、人形を息づかせようとする。その温もりにレインは伏せた瞼をゆっくり開けた。寝返りを打った子供のように。
「――ごめんなさい」
リアムの手は、ゆっくりと撫で続けている。
「俺がいるから、心配するな」
耳元で聞こえた声に息を飲んだ。ずっと傍に居てくれるような錯覚を覚え、レインはまたしっかりと瞼を閉じた。
享受してよいのは騎士としての配慮まで、そう戒めてきたのは自分自身だ。
深く呼吸し、顔を上げる。
「ありがとうございます。部屋の中まで片付けて頂いき、恐縮です。それで……もう一つ、お帰りになる前にお願いできますか」
突然気丈になったレインに、リアムは訝し気に答える。
「いくらでも手伝うよ。早く帰らなくても支障はない」
「いいえ。部下の方たちが分隊長のお戻りを待っているはずです。それにいつまでも女性の家にいたら、将来の奥様もいい気はしません」
リアムは重く沈黙する。だがレインは微笑んだ。
「この絵を外に運んでいただけますか? 一人じゃ運び出せそうにないので」
リアムは形を成していない絵を拾い上げ、ほこりを払いレインに差し出す。
レインはその一枚一枚に、別れを告げた。
流れは単調で、迷う時間を与えない。
集めた絵をリアムが外へと運び出す。
庭にはごみとなった画布が山積みされた。
レインはその山を見つめ、その眼差しを天に向けた。
(――もう、どうしていいのかわからないの。だからこの絵は天国に届けるわ。大切な物がみんな盗まれて家の中が空っぽになっちゃった。……本当にごめんなさい)
長く仰いだ天から視線を戻すと、レインはマッチ箱をポッケから取り出し、躊躇う手に力を込めた。絵の前にしゃがみこみ、ひとつ息を吐き出すと、藁に火をつけ絵の山に放り込む。
絵は無情にも大きな炎となって天へ伸び、煙となって登ってゆく。
無残な絵をそのまま家に置いておけば、日々目に触れ、虚しさに狂うだろう。
レインの自画像、フローラが描いた幼いレイン、練習に描いた果物や花瓶の野花、モットやブー、森の動物たち、森や街の風景、四人の軍神も、すべて灰となっていく。
だが、燃やした絵の中に、リアムを描いた『森の騎士』の絵はなかった。
煙の行方を追えば、堪えていた眦に溜まった涙がこぼれ落ち、レインは慌てて顔を手で覆った。
「……っ、うっ、っ」
悔しくて悲しくて、行き場のない感情に嗚咽が漏れる。
「レイン……」
控えめに名を呼ばれリアムがいたことを意識した。
側に彼がいることが、幸福であり不幸だった。ごちゃごちゃの感情の中に、彼に対する矜持だけが際立って居続けている。
背を向けたままのレインに、リアムは静かに伝えてくる。
「フローラ画伯もシャルル・リゴー大使も娘の悲しむ姿にきっと胸を痛めている。大切な娘を悲しませた犯人を、憎く思っているよ。俺もご両親に誓って、レインを悲しませた奴らを捕まえてこの罪を償わせる」
先程リアムも一緒になって空を見上げていた。その理由はこのためか。
レインの目頭が今まで以上にかっと熱くなった。
大切な娘などと誰にも言われたことなど無かった。
誰も二人の娘だと知らないのだから。
気持ちが共有されることが、こんなにも温かいものだとレインは知らなかった。
じんわりと広がる熱い感情に飲み込まれてはいけないと、警鐘が鳴らされる。
レインは涙を袖で大雑把に拭い、勤めを終えた騎士に頭を下げた。
「ありがとう、ございます。色々手伝って頂き助かりました。あの、……では……これで」
掠れた、小さな声で礼を言うと、レインは押しつぶされてゆく己の隠し場所を求め立ち去った。
アトリエに飛び込み、いつも座っていた丸椅子に腰を下ろし、作業台に突っ伏した。
灯火のようにしぼんでゆく炎を、騎士は眺め続けている。
すべてが焼けすっかり灰になっても、アトリエから聞こえてくる嗚咽が止むまで、ずっとその場に居続けた。




