43 あきらめ 下
レインは聞こえてくる声に耳を傾けた。
パトリシアは、誰かと会話しているようだった。
「あなたが活躍されたと聞いた時、あのこはとても喜んでいました。メイソン様の手紙を読み終えると、心配そうに聞いてくるんです。みな無事でしょうか?って。休みもなく働いていたので、休暇を取るように勧めたんです。でもレインは、無事に帰ってくるために願掛けしているから、と言って休まなかった。それほど……」
泣き出しそうな声色。
そして、向こうにいる誰かが言葉に詰まったのがわかった。
途端、メイソンが見兼ねたように立ち上がり、廊下へと出て行った。
入れ替わり現れたパトリシアは、案の定ドアの前に立ち尽くしたままとなった。
レインはそんな彼女に、心配いらない、と自ら告げ、ありもしない気骨を見せつけた。
「強盗がいて、抵抗したら殴られちゃって……」
パトリシアはおどけるレインを見ても、端から気に留める様子はなかった。
沈痛な面持ちで、頭の包帯に恐る恐る手を伸ばし、無言のままレインの頭をやさしくなでる。
口を引き結び、痣だらけのレインを前に、「どうして」とも問わない。執拗に問わないパトリシアに後ろめたさを感じながらも、レインは彼女の手の温もりに感じ入った。長い付き合いの間に、パトリシアは親友に隠し事があることを察している。だからきっと、何も問わないのだろう。レインは彼女のやさしさと寛大さに癒され、堪らず口からこぼれそうになる嗚咽を手で押さえた。
「いま必要な物もあるでしょ? あとで持ってくるわ。……メイソン様に話しづらいことがあれば、私が聞くつもりよ」
メイソンが座っていた椅子に腰を下ろしたパトリシアは、くしゃっと顔を歪ませたレインに、しっかりと頷いた。頼もしい親友を前にレインの甘えはとめどなく流れ出す。
「パトリシア様……あの……」
帰るための靴もなく、少しお金を借りたかった。
先程メイソンに話せなかった暴行の詳細もパトリシアに打ち明ける。
素肌を晒され、はだけた胸をさわられたことを感情のまま話した。
レインは胸に溜まった恐怖心を吐き出した。
令嬢として育ったパトリシアにとって、話が衝撃すぎたのだろう。彼女は口を押さえ顔を青くさせた。
「あ、あのごめんなさい」
レインは告白したことを後悔し、申し訳なさにパトリシアの腕にそっと手を置いた。すると、彼女は強張りを解き、レインの手を握り返すのだった。
「……なんで謝るの。辛かったのはあなたでしょう」
懸命に頬を伝う涙を拭い、力強くレインに告げてくるのだった。
「――辛かった。でも、そんなこと何でもないって思って。だって、あなたは生きてるんですもの」
胸に強く刺さった言葉を、レインは心の内で反芻する。
――生きていくうえで、こんなこと何でもない。
これを苦労と捉えれば、きっと報われることが次に来るはずだ。
以前アンナがレストランで話してくれたように、忘れて乗り越えて、前に進んでゆくしかない。
「――うん。……そうね。こんなこと、何でもない。ありがとう」
思わず口にした友人らしい軽い口調。でもパトリシアは咎めない。それどころか、誇らしいとでも言うように、涙を拭いながらレインに親し気な笑みを向けるのだった。
話終えたことに気づいたのか、メイソンが再び入室してくる。
白々と騎士を引き連れている彼に、レインもパトリシアも目を瞠る。
咲くにはまだ少し早い、百合の花束がレインの膝の上に置かれ、その匂いたつ甘い香りがレインの顔を上げさせた。
傍らに立った騎士が 憐憫にレインを見下ろしていた。
痣や傷に視線を這わせ、騎士は苦しそうに詰襟を緩めた。
「起きていて平気なのか? 横になったほうがいい」
レインは新緑の瞳を見つめたまま何度も瞬きを繰り返す。
リアムを前にすると、言葉が頭に入ってこない。
視覚だけが敏感に、彼を捉え様子をさぐる。
どうしてそんな顔をするのか、今、何を思って苦しそうなのかと、そればかり気にさせる。そんな心の綾がばれてしまわないように、レインは慎重に言葉を選びリアムに返答した。
「ご、ご心配を、おかけいたしました。お忙しいのに、来ていただいたんですね……。すみません」
来てほしくなかった。医師にも断ったはずだった。
リアムの眼差しは相変わらず強く、レインはすっと目を反らした。
「――心配しているよ。とても」
追ってくる眼差しを感じ、レインの動悸が激しくなる。
「俺が気にかけていれば、レインがこんなに辛い思いをせずにすんだ。すまなかった」
引きこもって暮らしてきたせいで、人との関り合いが得意ではない。自分の歪さも承知している。だからレインは、一瞬すれ違っただけの騎士に歓喜して、思いあがって後を追い、疎ましく突き放されたのだと自分を恥じた。
再び勘違いし、彼の謝罪で舞い上がったりはしてはいけない。ただ理由を見つけ出す。
先程パトリシアと話していたのがリアムならば、彼女に責め立てられていたのも彼だ。リアムはメイソンとパトリシアに指摘され、気まぐれに振り返っているだけなのだ。
「先程、パトリシア様と廊下でお話しされたから、騎士としての責任を感じているのでしょうか。……昔の知り合いがこんなことになって、と驚いているのでしょう。でもリアム様が気にすることなんて何もないはずです」
リアムに疎ましく思われないように。自分が後悔しないように。
ただ騎士と穏便にこの場を過ごすために言葉を紡ぐ。
騎士はレインの反応に、苦笑いを浮かべ溜息をかみ殺した。そして再びレインに思いのたけをぶつけるように真剣に語り直す。
「――騎士としてだけじゃないよ。……レインを見守ると、アンナと約束していたのに、俺はそれを放棄したんだ。帰還後、君とも連絡を取らず、君と会えば独りよがりに幼稚な態度で接した自覚がある。訳も分からずそんな態度を取られれば、君は嫌な思いをしたはずだ。俺は君を失望させた」
(――放棄)
岐路に立った選択の一つ、とでもいうような重い言葉。リアムの帰還後の暮らしはレインの生活とは対極にあった。昔の知り合いにかまっている暇など無かった。だから放棄した。
そしてレインはそれは当然だと納得した。彼には理由がある。だから失望しても、半分は失望できずにいる。
「申し訳なかった」
頭を下げたリアムを見れば虚脱感に襲われる。
失った時間を描き変えれたらいい。ただそう思った。
許すという傲慢なことを自分がしていいわけもない。
話し合うなどそんな気力も持ち合わせていない。
「独りよがりとは思っていません。リアム様が前に進んだのだと思いました。だから、昔の約束も無効です。遠い存在になってしまった寂しさもありますが、リアム様が道を切り拓いてゆく姿を影ながら応援したいとも思っています。だから……謝罪などなさらないでください」
(――そう、寂しかった。それだけだった)
レインはリアムの双眸に映る自分を見納め、不毛な話を打ち切った。
「百合の花、ありがとうございます。うれしいです。花なんて貰ったことありませんから」
誤解の壁が消えても、この先にあるものは何も変わらない。
リアムとの接点はない。初めからなかった。
手元の花に顔を近づけ優しく甘い香りを吸い込む。好きな男性から貰った花に、こんなに切なさを感じる自分が情けなかった。
レインは熱くなってゆく胸にゆっくりと空気を入れ、自覚した彼への執着心を吐き出した。
(――大丈夫)
今後のことを正直に告げようと、レインは視線を巡らせ背筋を伸ばした。
「皆様のように、私も、前に進もうと思っています。……絵を、描いてゆきたいので、この地を離れます。だから……この件はもう、捜査していただかなくて結構です。また同じ事件が起きないように、情報をお伝えしたまでです。今日はありがとうございました」
窓から入ってくる風が、カーテンを揺らし日差しと影で明滅している。
暗い病室と対照的な鮮やかな日差しが、今のレインには眩しすぎ、外へ出る恐怖を与えてくる。
皆に告げた言葉と裏腹に、身の上に起こっていることが酷く怖かった。
目を細めて日差しを見つめるレインの眼差しが唐突に遮られる。膝の上の百合を抱きしめていた手に大きな手が被さり、レインは肩を揺らした。
「怖いし不安だろ。痛いし、苦しいよな。もう、疲れたか。だったら俺を頼ってほしい」
リアムに触れられるのは怖い。その温かさから抜け出せなくなりまた勘違いしてしまいそうだ。
レインは何も返答せず、そっと己の手を引き抜いた。
言い出せなかった本心をリアムに羅列され、まばたきをすれば涙がこぼれ落ちそうになった。だからレインはフンッと顔を反らした。
「わかった」
リアムは長い沈黙の後そう言い、立ち上がった。
「おいポンコツ、分かったって? 捜査を止めるのか?」
怪訝そうに眉を顰めるメイソンにリアムは「いいや」と言い返し、再びレインに言い募った。
「レインは何もしなくていいよ。ゆっくり療養して」
瞳に熱を宿し、ただただ、やさしくレインに微笑むとリアムは病室を立ち去った。




