39 闇の中
跪くリアムの背後から医師が語り出す。
「頭部を何か鈍器のような物で殴られたのか、裂傷していた。傷は小さかったため五針ほど縫う程度で済んだよ。顔は強打しているが、骨は折れていないようだ。男に殴られたのだろう、腫れがひどい。――首の傷は……爪で引っ掻かれたようだな……」
リアムは握っていたレインの手をそっと掛布の上に戻すと、項垂れながら立ち上がり医師に向き直る。
首の傷を言い濁す、真意を聞かなければならなかった。
「――寝間着が……襟首から破れて落ちていた」
医師は小さく数度頷いた。
「……暴行された可能性もあると思った。……だから、薬は飲ませたよ」
――その生々しい言葉が胸をえぐる。
「――検査、して、いないのですか?」
老医師はレインの前に移動し、見下ろしながら、思いを巡らしているようだった。
「……彼女は……レインは小さな頃から知っているんだ。気管が弱くてね、定期的に診察していた。フローラが亡くなってからは診療にも来なくなって、心配していたところだったんだ」
そういってレインをじっと見つめ悲しく微笑んだ。
「重症なのは、傷じゃなく胸の方だ。聞こえるだろう? 再び興奮して発作がおきれば、もう手を施すことができない……。ここに来た時には既に、呼吸困難で話も容易に出来ないほどだった」
カーテンの隙間から薄日が細く差し込み、レインの白い腕を仄かに浮かび上がらせる。
腕は渇いた泥で薄汚れ、拭いきれていない。
なぜ、レインが狙われたのか。
なぜ彼女がこんな目に合わなければいけなかったのか。
抱え込んでいた両親の死が原因なのか。
彼女のしがらみは父方の親類、大貴族リゴー侯爵家だった。
パトリシアがレインのことを芯棒強いと言っていたのを思い出す。
確かにレインは優しく穏やかで芯の強い女性だ。
しかし辛抱強いのは気概ではない。
隠して耐えなければいけない事情があったからだ。
身分を明かせば侯爵家に迷惑がかかる、そう実直に思っていた。
侯爵家に脅しをかけて金銭を要求するようなことなど絶対にありえない。
レインに奪われた大金を侯爵家が取り戻すために襲わせたなどとは考えられない。
彼女の身なりをみれば、質素に暮らしていることは一目瞭然だった。痩せた身体、着古しのケープ、新しい靴さえも買うことを躊躇っていたのだから。
真相は全く見えてこない。
老医師はレインの手をそっと摩り、部屋を出よう、とリアムを促した。
先程通された部屋に戻ると、机の上にカップが二つ揃って置かれ、湯気が立ちのぼっていた。医師に茶を勧められたが、リアムは口にせず矢継ぎ早に尋ねた。
「彼女をどうやって救護できたのですか?」
医師はカップを手に取り、胸のつまりを飲み下すように、ゴクリと音をたて紅茶を飲んだ。
「救護しに行ったわけではないよ。明け方にね……自分でここに来たんだ――」
***
レインは、むき出しになった肩を抱きしめながら、アトリエの床にしばらく倒れ込んでいた。
瞼をギュッと閉じて恐怖を消し去ろうとしても、歯がガチガチと音を立てて震えは収まらなかった。
(――胸が痛くて息が出来ない)
ドンッドンッと脈が強く胸を打ち付けて痛い。喉の奥で呼吸が塞がれ苦しい。
「……くっ。だれが……助けて……」
か細い声を振り絞るとモットがレインを覗き込んでくる。
「グワッグワッ、グワッ、グワッ」
身体を傾けモットに手を伸ばせば、レインの頬から滑り落ちる滴が、床に染みを作った。それが汗なのか、涙なのか、それとも血なのかもレインにはわからない。伸ばした手は何も掴むことなく床に投げ出された。
裸の背に冷たい木の床が当たり、天井を仰ぎ見るとモットが顔を寄せてきた。
「――モット……さん、ブーちゃんは……どこ?」
犯人に噛みついて助けてくれたブーはどこへ行ったのだろう。
部屋を見回し、視線を彷徨わせても姿が見えない。
庭で殺されていたら……、蹴られて苦しんでいたら……そう思うと、居ても立ってもいられなかった。
「ブー、ちゃん……」
呼吸を懸命に整え、重い体をゆっくり起こし床を這う。
レインは開け放たれた玄関扉にしがみ付き、身を潜めながら外を覗いた。
闇に潜む魔物を見つけ出すように目を細め様子を窺う。
目が慣れると森の漆黒は、木立の影やうっすらと地面の起伏などを浮かび上がらせた。
(誰も、いない……)
少しずつ冷静さを取り戻すと、途端に五感が情報を拾い集めた。
しじまの中に木々がザワザワと揺れる音が聞こえ、虫の鳴き声や雨の匂いに混じる木の焦げた匂いが鼻をついた。
窓の外に揺れていた赤い炎が脳裏を横切る。
落雷を恐れて男たちは逃げていった。
(――ブーちゃんは男たちを追って行ったんだわ)
椅子に掛け置いたままの、ワンピースを手に取り、震える手を押さえつけながら身に着けた。胸元の紐を結ぶことが出来ず、手で握り合わせながら、レインは光のない森に踏み入った。
(ブーちゃん、どこいったの? お願いよ。無事でいて――)
声を出しているのか、心の中で叫んでいるのかわからない。
ただ、懸命にかけがえのない家族の名を呼んだ。
両親、リアムそして愛犬までも去っていかれては、これ以上生きていく気力が持てない。
レインは家の周辺から感覚を頼りに、山道を彷徨い歩いた。
足元にはモットの温もりがあった。歩調を合わせ懸命にレインの傍を離れずにいてくれた。
ぬかるみに足を取られ、よろめき、冷たい木の幹に手を突いたとたん、頭と顔がじんじんと熱く痛むことに気づいた。痛む頭に手を当てれば髪がごわりと束になってへばりつき、頭皮が熱を持ちビクンビクンと脈を打っている。
「――痛い」
胸の苦しさと、体の痛みが何度も歩みを遮った。
座り込んでしまったら、もう動けない。
そう思うとレインは必死に足を動かした。ブーを探しながらも、助けを求めて森を彷徨う。人気を求め山を下りようとした。
眼下に街のわずかな灯が見えたが、そこまではまだ遠く、前方に広がる漆黒は入口も出口も見えない。
毎日通った道は、感覚で歩いてゆける。そしてこの道で出会う人など居ないことも知っている。
(――恐い。誰か助けて……)
身体から血が抜けていく感覚が容赦なくレインの意識を奪おうとしてくる。もうどうにもならない……。
天を仰げば、そこに出口があるかのように、黒に酷似した深い青に、白く輝く星がきらきらと瞬いていた。
(――お願い。お母様……お父様……助けて……)
とうとう立ち止まってしまったレインの足を、モットが突いてくる。
まるで「くじけるな」と言っているかのように。
「――モットさん」
道を先導するモットをレインの足は無意識に追った。
「……まって」
やがて素足に当たる感触で、自分が石畳を歩いていることに気づいた。
街に続く橋の上に辿り着いていた。
夜も明けきらない街に人影はない。
ただ、音を立て激しく流れる水音が耳を塞ぐだけだった。
レインは欄干の手摺を頼りに、腕に力を込めて、体を支えた。
濡れた手摺を掴むとあの雪の日が脳裏で瞬き、隠していた感情が浮上してくる。
もう一度だけでも、微笑んで欲しかった。
たとえ婚約者を慕っていても、変わらない笑顔で話してほしかった。
そうすれば、また知り合いの振りをして傍に居ることが出来たのに。
時が恋心を持ち去って、いつの日か自分から彼のもとを離れていくことができたのに。
破裂しそうな心臓に手を当てレインは想い慕う人に縋ってしまうのだった。
(……苦しい……助けて……)
「リアム、さ、ま……」
頼ってはいけないその人の名を呼んでしまい、レインは慌てて口を噤んだ。
(――自分でどうにかできなきゃ……。どうにか……しなくちゃ……)
『――もしもの時は山を下りろ』リアムの手紙を思い出しぐっと足を踏みしめた。
肌寒い東雲の風がレインの背中を押す。
街の外れ、木造の長屋が続くその一角に、一晩中明かりを灯す家があった。
幼い頃から通っている診療所、その古く重い木のドアを叩いた。
コツン……コツン――。
力無いノックは響くことなく消えてゆく。
あぁと長く息を吐き出すと、レインはそのままドアの前に倒れ込んだ。
薄れる意識の中でモットの鳴く声を聞いていた。




