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38 レイン

 

 レインの眦から流れ落ちる涙を、リアムはそっと人差し指で拭った。

 手を近づけただけで、腫れあがった顔の熱がリアムの手に伝わってくる。


 眉根を寄せて眠っているのは痛みが走るせいか。

 額にかかるレインの細い髪をそっと撫でてよけると、血で固った髪の根元が見え、その部分を凝視する。


「まただ……」


 また……そう口にしたのは、悔恨が古い光景にリアムを引きずり込んだからだ。


 ――古傷が再び開く。

 十五の頃。帰宅したリアムが見た光景。血に染まった母。

 大切な人をひとり残し、護れなかったという不甲斐ない共通点。



 母の死を境に、リアムの騎士としての志は夢から野望へと変化していった。




 リアムの母は田舎貴族の娘で、教養があった。

 戦いで夫を亡くした婦女子の支援や、病院の慰問に精を出し、事件や争いが絶えないジェノバの為に尽力をつくしていた。

 ”武力では解決できない”と指針を持ち、騎士団を率いる夫に対しても意見を述べる強い女性だった。

 リアムの兄が任務中に負傷し、足を引きづるような身体になっても尚、リアムまでもが入団を希望し家を出た時には諦めたように無口になり、ひとり残った屋敷で静かに暮らしていた。


「戦いじゃ解決しないわ。貴方の御祖父様も言っていたでしょ。武力は痛みと憎しみしか残さないわ」


 リアムの母は何度となく息子にそう話して聞かせた。

 その言葉を心に止めたものの、戦いで痛みを味わったことが無かったリアムは、十分理解しようとはしていなかった。ただ憧れの騎士に成ることを夢見る少年だった。


 リアムが十五の頃だった。郊外の村が隣国に攻め入られた。

 所属していた部隊が付近を警備していたため、即座に挙兵し村に駆けつけた。

 だが誰の手引きがあったか、村には隣国とつながる道が築かれ、すぐさま多くの敵兵と直接交戦となった。

 それがリアムの騎士としての初陣だった。

 前線に立ち混乱と慄きのまま剣を振ることも出来ず、味方の倒れた兵を背おい屍の上を逃げた。幸運にも駆け付けた援軍によって村は救われ侵略を免れた。

 勇んで出た戦いは、若いリアムに屈辱と闘志、そしてひどい矢傷を与えた。


 だが悲劇は終わらなかった。

 帰還し、母のもとを訪ねたリアムは惨状を目の当たりにした。

 私兵たちも前線に駆り出され手薄になっていた屋敷は、ならず者に荒らされ、母は殺されていた。

 ジェノバの村を守るために戦いに出て、自分の母を守ることが出来なかった。

 代々続く騎士の家系に恨みを持っている者も多くいたはずだった。

 味方でさえ、戦で犠牲になった家族がいれば憎むだろう。

 ――武力では……殺し合いでは解決しない。

 実践を経験し、悔しくも母の死をもって痛みを体感したのだった。


 母や祖父の願望が自分にも備わり、成就する道筋を立てるために、リアムは戦いの地ジェノバを離れた。騎士でありながら、戦うことに意義を問う己の指針を見つけるために、王宮騎士団の先鋭部隊に身を置いた。

 優れた騎士たちが集まる中で劣等感を抱きつつ、任務に専念する日々が続いた。人並み以上に鍛錬を積み、組織から見聞を深め持ち帰ろうと懸命だった。




 戦争の兆しに、騎士たちが浮足立った頃だった。

 鍛錬で迷い込んだ森で、絵描きの少女にあった。

 戦争など程遠く、浮世離れした少女だった。

 木々の蒼が反射しているのかと思う程に、青白い顔でたどたどしく話す少女は空っぽの人形のようで不気味でもあった。今思えば、彼女は本当に森の中で生死を彷徨っていたのかもしれない。

 両親を亡くしたばかりだった。


 ひとりで生きてゆくにはまだ未熟な年頃。その上彼女は極度の内気だった。

 偶然にも再開した彼女は、出会いの時のような弱々しさは消えていたが、けして、街娘の力強さや商人の計算高さを持っているようには見えなかった。


 頼りなく不器用で、だが凛とした存在感が、静かな森に咲く小さな花のように思えた。この花は誰にも手折られず、穏やかに暮らしてほしいと自然と思い描くようになった。いつしかそれは、王都を戦場にさせまいといきり立つ気持ちに変化させた。


 レインへの気持ちが強く芽生えたのは、きっとあの雪の日からだった。


 『信念があって素敵ですね』


 雪が舞う中、寒さに身をすくめ赤いケープを纏ったレインから貰った言葉。

 何かあったかい物を拾って、懐に入れたら手放せなくなったような感覚。

 迷走することを信念だと理解する彼女の本質。

 信念を持って絵描きを志すレインと、お互いに支え合える関係になれたらいいと思うと、寒空の下でも体に熱が灯った。


 ――だが愚かにも、その信念を貫くために選んだ道はレインの存在しない道だった。彼女なくして描けない将来だったのに。




 王都への帰還が迫った日、辺境伯に呼びだされ執務室を訪ねた。そこは、幼い頃父と共に一度だけ、挨拶に訪れたことがあった。

 高い本の壁は幼い頃と変わりなかった。しかし、新たな実感があった。幼く読めなかった本の背をリアムは読むことができた。洞察力に優れた伯爵の政策を理解することができた。


 この部屋に招かれた意味。同志として許されたのだと思えばこそ、自身の心情も偽りなく述べた。


 将来は、ジェノバ騎士団と共にこの地を護ってゆきたい、と。

 紛争を平和的に収め国を発展させてゆきたい、と。


『ではどうか、希望をかなえてほしい』


 伯爵からそう率直に告げられ、その要望も聞かずに頷いた。

 伯爵は唐突に『好きな(ひと)、もしくは恋人はいるのか』と問うてきた。

 毛色の違う思いもよらぬ問いに、戸惑いその場しのぎに適当に答えた。


『――いいえ』


 だがその返答が、伯爵を後押しした。


『そうか。実は、協力しあっていたボルダロッドのリゴー侯爵が亡くなり、彼の代わりに甥で養子のマーティン・リゴー卿が後を継いだようなんだ。うちもそろそろ代替わりの準備をと、思っているのだがね』


『シャルル・リゴー侯爵……』


 レインに近しい存在。有能なミティア国の元大使、元ボルダロッド領主。

 レインの神秘的な魅力は、この侯爵を連想させるせいだとも、感じていた。彼は生前その才能と美しい容姿から神がかった存在のように扱われていた。


 シャルル・リゴー卿の領地ボルダロッドは、ジェノバの隣に位置し、赤い雫が出土する樹海も両領地にまたがっている。故に樹海については密に話し合いが持たれ共通認識の上で管理されていた。樹海を国立公園に認定し、人の侵入を禁止したのもリゴー卿の力があったからだと聞かされていた。


『侯爵は優秀な方だった。本当に惜しい人を失ってしまった。だからこそ、新しい希望を育てなくてはいけない』


 伯爵の眼差しが、言葉にせずとも既にリアムに問うていた。


『この辺境地をダイアナと二人で活かし、守ってほしい』


 好きな(ひと)――辺境地を活かす――。

 リアムはその二つを結びつけて考えたことなど無かった。


『それは、ダイアナ様と婚姻を結ぶという意味でしょうか?』


『そうだ。嫡男が戦死し、私には跡継ぎがいない。二人は年頃も丁度いいし、君は娘にとって申し分ない器量と才能と度胸がある。家柄だっていい。君が娘と結婚し、次期辺境伯となってくれるとありがたい』


 自分が成し遂げようとしていた道筋を、確約するかのような申し出だった。

 故郷の領主になることが叶えば、今までの騎士としての努力が、戦争で感じた無念が、母を殺された悔恨が活かされる。


 ――あの森も、ジェノバで全てを食い止めれば、平和のままだ。


 利己的に考えればいい。そう思うと、帰還の喜びや秘めた淡い恋心に惑わされる自分が情けなくなった。


『ダイアナはこの物騒な地で育った。騎士たちの運命を間近で見てきた強い娘だ。君が先ほど言っていた信念に揺らぎがないのなら、ダイアナと結婚し、受け継いでほしい。いや、新しいジェノバを築いてほしい』


 祖父や亡くなった仲間の顔が浮かんだ。傷を負った痛みも、敵兵を傷つけた心の痛みも。

 それでも、逡巡したのは、擦り切れるほど思い浮かべていた記憶を見収めるためだった。


 森に差し込む温かな木漏れ日。おとなしく、おっとりとしたその見た目とは裏腹に、感情を見抜き繊細に描く、才能豊かな女性。

 彼女のいる街に戻る郷愁と気丈に生きる彼女への感傷が胸を突いた。

 だが膨れ上がった闘志が、将来の道筋を無価値なものにしたくないのだと心を侵食し、レインの想いを片隅へと追いやった。




 凱旋の時、歓喜する人垣の中にレインを見つけた。

 彼女はひとり不安そうに人垣の後方で祈るように見つめていた。

 出立の時と同じように。

 大きな琥珀色の双方が、万物の郷愁を見るかのように、傷ついた騎士達をじっと見詰めていた。戦ってきた男たちに何を見たのか、彼女は歓喜もせず、ただ瞳をひっそりと陰らしていた。

 その時、彼女が話した“視える”が不思議と事実なのだと感じ得たのだった。


 同時にレインを捉えた瞬間から、愛しさを覚え、将来への野心が揺らぐ羽目となった。自分のあまりの女々しさに失望した。だから連絡を絶ち、会うことも止めた。


 レインとの間に確約した特別な感情は無かった。だからこの痛みが己だけのものだと思っていた。自分さえ気持ちの整理がつけばよい。その傲慢さが態度に現れた。




 メイソンの策略だったのか、ダイアナと共に出向いた王宮でレインと再会した。


 新年の宴に質素な身なりが場にそぐわず浮いていた。

 だがその姿は、着飾るどの令嬢よりも楚々とした気品を持ったいた。

 使用人としてメイソンの傍で控えるレインは、寒空の下コートも羽織らず顔色が悪かった。

 苦労したのだろうと思い、胸が痛くなった。

 そんな姿を見ていられず口を引き結び背を向けた。

 口を開けば喉元から心の声が溢れそうだった。

 だから自分自身に言い聞かせた。

 ――俺は次期辺境伯であり、ダイアナの婚約者なのだと。


 無関心な態度を示せば、レインもまた目を合わすことをさけた。

 ただ、貴族と使用人の立場をわきまえ儀礼的に挨拶を交すのだった。

 しかし儀礼であってもレインの純粋な言葉は容赦なく胸に響いた。

 思いやり深く、無事の帰還に安堵し、騎士の将来を彼女は祝福する。

 身分の差などレインと自分の間にあるはずもなかった。それなのにあからさまにひけらかし、益々()んでいった。


 うかつに覗き込んでしまった瞳の奥に、昔と変わらない孤独を見た時は、何もしてあげられない虚しさに目を背けた。すると、レインは傷ついたとばかりに顔を曇らせ後じさった。


 彼女は二人の間に出来上がった壁を見上げ、そして自分の居場所へと戻っていった。貴族たちを前にレインは使用人に徹したのだった。


 ダイアナの落とした髪飾りを、レインは危険を冒してまでも拾いにいった。

 馬車の前に飛び出し恐怖で身をすくめた彼女が、みるみると正気を失った時は、とうとう自分が壊れたかと思う程の葛藤に身体が動かなくなった。

 もし彼女があの場で助けを求めていたら、きっと自分は彼女を掻き抱いていたに違いない。しかし、呼吸困難に苦しみ蒼白になっても、レインは顔を上げ誰にもすがる目を向けなかった。

 完全に孤立を選んでいた。あまりにも無防備でその気丈さは無垢で尊かった。


 あの時、自分が急激に後悔へと走ったのを覚えている。

 それを、ダイアナの声に引きとめられ、我に返ったことも。


 リアムは自分を戒めるために、安易な方法を取った。

 ダイアナを引きよせ腰を抱き、婚約者の存在を自分に知らしめた。


 レインは自分の失態に、立場がなくなったとばかりに、逃げて帰ろうとした。

 傷つき、寒空のもと去る彼女に、一言でも温かい言葉をかけたかった。


『――体調は? ……君の体調は相変わらずなのか?』


 そんな探るような言葉しかかけられなかった。

 相変わらず身体が弱くても、君の側で助けてあげることができない――。

 その気持ちが悔しさになって出てしまった。


 レインはその言葉に、自分の心境を吐露した。

 彼女の矜持が目の前の騎士との決別を、潔く導き出したのだと思えた。




 去ってゆく姿に、欄干に佇む赤いケープを纏ったレインを重ね合わせて見ていた。

 真っ白な世界にポツンと浮かんだその赤に切ないほど美しい存在感を感じたのは、三年以上も前の事だった――。




 脳裏に浮かぶのは手放した思い出。

 散々捨て散らかした感情は醜く、レインを傷付け取り戻せるとも思えない。

 露呈したリアムの幼さにレインは呆れているだろう。


 リアムは濁り渦巻く回想からもがき、苦しさに顔を上げた。

 母の語った痛みとはこのことだったのか、とようやく思い知る。

 負傷した身体の痛みではなく、欠けてゆく心の悲しみ。




 握り込んだ手はいまだに冷たく反応しない。

 握り返してもらえなくても、放したくはない。


 レインの傍にいて、抱える事情を聞き、彼女を慰めてやることをしていたならば。ともに悲しみを乗り越えることもできたはずだった。

 こんな事態になることは免れたはずだった。











 

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