3 両親
森はいつの間にか、蒼く茂らせていた葉をくすませるようになっていた。
季節の移ろいを感じれば、もう取り戻せない幸せな日々と、青葉が朝露に輝いていた別れの朝を思い起こすのだった。
***
「フローラ、レイン、ただいま!」
ノックもなしに入ってくるのは、外交官の職に就く父シャルルだ。
異国での仕事を終えて久しぶりに我が家へ帰宅すると、真っ先にアトリエへ赴くのが常だった。
レインの母フローラは名の知れた女流画家だった。
その日も画布の前で筆を持ち、貴婦人の赤いドレスに銀の花模様を描き陰影をつける作業に没頭していた。
小さなレインはフローラの足元でおままごとをしていたが突然入って来たシャルルに驚き、ピタリと手を止め二人を仰ぎ見ていた。
「レディの部屋なのよ。ノックしてっていつも言っているでしょ。レインもそう思うわよねぇ?」
そういってフローラは、愛娘の丸くぽっちゃりとした愛らしい頬を両手で包み込んだ。
琥珀色の大きな瞳が母を見つめ返し、にっこりとほほ笑む。
「ノックしてもいつも聞こえてないでしょ。絵に集中しているからさ」
シャルルは仕事の疲れを見せることなく、久しぶりに会う愛しい人を両腕に抱え込んだ。フローラの腰を抱き寄せて口づけを落とす。
その次にレインを抱きあげ、どれだけ大きくなったか重さを確かめそのまま膝の上に抱きかかえた。
「レインにもお土産買ってきたよ。見たい?」
コクコクと頷くレインの顔をシャルルは目を細め覗き込む。
シャルルの長い金髪が肩から滑り落ちて、レインはそれを小さな手で受け止めた。
「きれい……」
流れる金髪はとても魅力的で、年頃になるとレインはそれをとても羨ましく思っていた。
娘と仲睦まじいシャルルに、フローラはわざと不貞腐れてみせる。
「まあ! 私にはないの?」
「もちろん、あるよ」
シャルルは柔和な笑みを再びフローラに向ける。
フローラには決まってスカーフとブローチだった。
彼女の透き通る白い肌と黒髪には、どんな色のスカーフも反発することはなかった。そのスカーフを留めるブローチもフローラの性格を表すような、個性的な物ばかりが揃った。
レインへのお土産は成長しても身に着けられるからという理由で、いつもリボンだった。リボンにも見慣れない形や素材、意匠があり、幼いレインでもその美しさに刺激を受けることがあった。
そのリボンを愛娘の頭に形よく結ぶことを、シャルルは楽しみにしていたようだった。
――幸せな家族。
しかし、三人は血の繋がりもなく、籍の無い家族だった。
世間体など気に留めず、価値は自分たちの中にあった。
公には、シャルルとフローラは画家と依頼主の関係だった。
自身の肖像画から知り合いの肖像画、仕事先への贈り物としての静物画などをフローラに依頼していた。彼は侯爵の爵位を持つ王の有能な臣下であり、歴史あるボルダロッドの地を治める領主でもあった。
シャルルの父は貴族でありながらも商売に長け、外国との貿易も行っていた。そのため、その父の右腕となって働いていた彼は語学が堪能だった。
近年はその巧みな語学力と諸外国に関する知識が認められ、国の外交を任されるまでになった。
一方フローラは、女流画家として成功を収める前は修道女だった。
教会の工房で装飾写本を手掛け、絵画の才能を開花させた。
その才能を有名な画家に認められ、師範を受けるため還俗し修道院を出て画家を志した。
フローラが描く装飾写本にシャルルは興味を示し、二人の交流は始まった。
そうして二人はいつしか惹かれあうようになっていった。
シャルルは侯爵という身分でありながら、貴族令嬢との結婚を拒み続け、フローラとの愛を育んだ。だが、当然そんな身分差の恋が世間に認められるわけもなかった。
愛娘のレインは、二人の間に出来た実の子どもではない。
教会の壁画の制作中に、祭壇の裏で泣いているところをフローラに発見された捨て子だった。
教会では養うことのできない赤ん坊が、時々置き捨てらせることがあった。
『私の描いた天使にあなたそっくりだったのよ。抱きかかえた時のぬくもりは、とても幸せだった。運命を感じて……あなたを私が育てようと思ったの』
フローラはレインとの運命の出会いを、隠すことなくレインに語った。
レインはフローラから、道徳と個性を尊重した教育を受け、シャルルから淑女としての教養と社会の成り立ちを教わって育った。
このアトリエは、シャルルがフローラとレインのために建てたものだった。
シャルルの執務室と居室を持つ王宮に程近く、そしてまた、誰も立ち入ることのないこの深い森が三人の関係を覆い隠してくれた。
画家のフローラにとっても、喧騒がなく俗世から閉ざされた森の中での暮らしは、絵画の制作に最良の場所だった。
四季の移ろいは、彼女の豊かな感受性をより高めてくれた。
体の弱いレインにとっても、この森の澄んだ空気は、最良の薬となった。
それから十七年間、三人は家族としてこの森でひっそりと暮らしてきた。
春の始め、フローラとシャルルは仕事のため隣国フロストへ赴いた。
自国ミティアと隣国フロストとの友好五十周年の式典が行われ、シャルルは大使として参列し、フローラはその平和の式典を絵に描き残す役目を国から承った。
馬車の事故が起きたのは、その式典の帰りだった。
そのため隣国同士の友好を望まぬ者たちの策動による事故だったのではないかと憶測を呼んだ。
夕闇の国境付近、山越えの際に車輪が緩み、二人の乗った馬車は渓谷へ転落した。
謀られた証拠は何も挙がらなかったが、友好とは名ばかりの隣国とは辺境での小競り合いが絶えずくすぶっている。負の感情を持つ者も少なくはなかった。
頭の回転が速く、冷静で隙のないシャルルは、自国では有能な指導者であるが、隣国では時に不利益をもたらす厭わしい存在であった。
***
式典に向かう日の朝は、慌ただしく賑やかだった。
「レイン、こっちの方がシャルルに似合うわよね?」
フローラは美しい夫を、まるで作品でも作るかのように、より美しく仕立て上げることに夢中になっていた。
「その緑色の外套よりも濃紺の方が似合うと思うわ。あっ、そうよ! 白いタイの代りに、この前贈っていただいた私のスカーフを巻くの。あなたの瞳と同じ空色のスカーフをタイ代わりにするなんて、奇抜ですごくお洒落だと思わない!?」
「私は何でも様になるようだからね。今じゃ社交界で流行を生み出す先駆者だよ。まあ、あなたにされるがままに、なっているだけなんだけどさ」
シャルルはいつも愛するフローラの言うことは何でも受け入れていた。
表向きは仕事の同士、ミティア国の代表として赴くのだが、二人の服装はどことなく対になっていた。
これでは恋人同士だと疑われないだろうか、とレインは二人の様子を見守りながら思っていた。
二人とも洗練された装いがお似合いで、とても若く見える。
その上、立派な仕事を担う両親をレインは誇らしく感じていた。
「十日位で戻ってこられるはずよ。お土産買ってくるわ」
フローラは相変わらずレインのふっくらした頬を撫でるのが好きだった。
いっときの別れも寂く、愛娘の頬にキスをする。
「何度も言うけれど、気をつけるんだよ。何かあった時は、王宮騎士団のところに行きなさい。ひとり置いていくのは本当に心配なんだよ」
続いてシャルルも反対の頬にキスをした。
「お金は、棚の上に置いたわよ。調子が悪かったら薬をきちんと飲むのよ。あとは……何か他に言っておかなきゃいけないことあったかしら? 気が気じゃないわ……」
過保護な二人はレインを心配し、なかなかアトリエを去れずにいた。
「心配しすぎよ。私、もう十七よ。お父様も、お母様も道中お気をつけて。お土産楽しみに待ってるわ」
二人は顔を見合わせて、ほほえましく照れ笑いを浮かべる。
レインはいつも、三人の関係を疑われぬように、二人を名前で呼ぶようにしていた。
しかしこの時ばかりは、優秀な両親の娘なのだと胸を張りたくて、父、母と呼んだのだった。
そして、二人が育ててくれた娘は、立派に成長し自立する年頃になったのだと両親に伝えたかった。
――そうしてレインの両親は、にこやかに手を振り森を後にしたのだった。