37 後悔
戻って来た二人の只ならぬ殺気に、居合わせた隊員たちがざわついた。
ノックも短く隊長室に入ってゆくリアムを数々の視線が追う。
「状況は分かった。だが……手がかりもなければ、時間も経ち過ぎている。それに……言いにくいが彼女は、ただの市井の女性にすぎない」
怒りに殺気立ったリアムの申し出に、隊長は冷静に答えを出す。
騎士としての精神は平等を唱えても、王宮勤めの身となれば不条理も飲み込まなくてはいけない。
社交シーズンのこの時期、貴族たちが王都に集まってくる。そのため警備に人手がいる。
貴族へは手厚く、庶民への対応は手薄になる。
身分の低い者は身分の高い者より、命の扱いも軽くなる。
すべてを見据えて下す隊長の判断には従わなければいけない。
だが納得がいくはずもない。保身のために引く気もない。
「わかりました。しかし、騎士の動員が無理ならば、私だけでも捜査に当たらせてください。今日と明日で順当な手段を取ります」
森の中の捜査、そして王都から地方へつながる道の検問、街の質屋や宝石店を張る。だが、既に時間が経ち過ぎていた。こうしている間にも、レインは命の危機にある。
鷹揚な男が余裕なく、熱心に頭を下げる姿に、隊長は目を瞠り訝し気に問う。
「お、おい、その女性は何者なんだよ。お前の恋人か?」
「いえ、そうではありません。個人的な捜査を願い出ているわけではありません」
「じゃあなんだ」
「彼女が貴族であっても平民であっても、捜査に差をつける姿勢は取りたくないと思っています」
正当性を貫く意見を、あえて上官に放った者はいない。分隊長としてのあるまじき規律を乱す行いだが、リアムは既に捨て身だった。
「ふん、そうか」
頑ななリアムを隊長は鼻であしらう。
助けられない人命は必ずある。だが騎士の精神に忠実であれば見過ごすことはしない。隊長とて同じ騎士。純朴な若者に彼は自嘲した笑いを見せた。
「都合のいい体裁で言いくるめてきたな。――まあ、今日明日は、王宮で貴族の集まりは無いからやってみればいい。だが、それ以降の巡回はいつも通りだ。残念ながら貴族がらみの事件が起きれば、そちらが優先だ。というより、あってはならない」
「了解しました」
既に足がドアへと向いている無鉄砲な部下に、隊長は的確な指示を飛ばす。
「この時期、地方から王都に入る主要道に監視や警備隊がいるはずだ。そこから当たれ」
リアムが敬礼し、執務室を後にしようとしたとき、守衛の騎士が速達を持って入って来た。差し出された手紙を受け取った隊長は、出て行こうとするリアムを即座に呼び止めた。
「城下のカーソン医師のもとにレイン・シェフィールという女性が救護されている。強盗事件の被害者らしく医師から捜査要請が来た」
レインの名にリアムが全身で反応する。
「これのことか?」
リアムは頷き、そして天を仰ぐ。
「行きます!」
「――だな」
ドアを開け放ち、リアムは執務室を飛び出した。
***
古くからある城下の診療所は有能な老医師が営んでいた。
彼を慕い共に働く若い医師に案内され、リアムは小さな応接室に通された。
既に騎士の訪れを待っていたであろう老医師と目が合い、リアムは対面する椅子に腰を下ろす。すると僅かな時も置かず、老医師の口が重々しく開いた。
「名前はレイン・シェフィール。年齢はニ十歳。王宮の裏山に一人で住んでいる。昨晩、就寝中に三人の見知らぬ男に襲われたらしい」
医師の説明は手紙に書いてあったことと、ほとんど変わりなかった。リアムは恐怖と焦りを吹っ切るかのように声を張り上げて医師に問う。
「ほかに情報は? 彼女から犯人などについて聞いていませんか?」
返答を迫るリアムに反して、彼は鈍く左手で顔を覆ったまま動かなくなった。
空回りする問いをもう一度リアムが問えば、医師の深い溜息が応えた。
そしての苦しさを吐き出すように言葉が押し出された。
「……っ。それだけしか、聞けなかった……」
虚しさを凝縮した声色は遠回しにリアムに恐怖を植え付けてゆく。
――見知らぬ男がレインに何をしたというのか。男に何をされて……。
――明かされない事実はそれほど悲惨で、近親者以外は関わる余地がないということか。
歯がゆさと、レインへの強い思いにリアムは口走る。
「俺は彼女の知り合いでもあります。家の現状も先ほど確認してきました」
「そうか、知り合いか」
医師から投げられた強い視線にリアムは覚悟を問われたような気がした。
重かった胸がより重くなる。
体温がじんわりと下がりそのまま凍結してゆくような感覚。
「彼女に、レインに、事件の詳細を伺いたいのです。会って話すことはできますか?」
「ああぁ」と医師はかすれった声をこぼした。
だがそれは了承の意ではなかった。こぼれ出たのは医師の呻きだった。
彼は空っぽの手を見詰めてリアムに告げた。
「――彼女は……重体だ」
手にした白い布の……彼女の寝間着の重さが不意に腕に伝わってくる。
救護されていると聞いた時点で、リアムは安堵していた。
盗賊の手から――、湿った冷たい森から――、逃げ伸びたのだとそれだけで。
「英雄様が彼女の知り合いだと分っていれば、犯人も、あそこまで痛めつけはしなかったろうにな……。ああ、だが、命が救われただけよかったよ。攫われなくてよかった」
『……市井の女性だ』
隊長の言葉がリアムの脳裏に反芻する。
何をされても文句の言えない弱い立場。
レインを襲ったのは、強盗だけではなく幾重にも重なる不幸だった。
平民。女性。独身。閉ざされた森。
それは、リアムがたった今知った境遇ではなかった。
重責に打ちのめされ青ざめた男に、医師は役立たずと言いたげな冷めた目を向け、背後のドアを指さした。
「行こうか……」
躊躇なく立ち上がると先に部屋の中に入っていった。
開いたドアからは陰鬱な空気と消毒の匂いが漂ってきた。
その中へ吸い込まれるように入ったリアムは、辿り着いた末路に立ちすくんで動けなくなった。
肌が粟立ち、息苦しい。耐えきれず襟元を緩めれば、その仕草を記憶の残滓が覚えていた。
暗く澱む底から浮き上がる記憶。
横たわる母を前にただ立ち尽くした、十五の時に味わった残酷が呼び起こされた。
リアムはしばしの間、記憶を彷徨い狭くなった視界を瞠目していた。
「レイン、脈を測らせてもらうよ」
老医師の声が耳に届き、焦点が戻る。
横たわっている人物は幻影の母ではない。
誰なのか……と問い、答えを出し、否定した。
「うそ……だろ?」
ひとりつぶやく。
消毒のにおいが充満した暗い部屋。
だが母が横たわっていた部屋よりも酷く簡素な部屋。
レインの身体は古い箪笥のように、白い掛布をかぶせられ、片隅に置き去られていた。
カーテンで閉ざされた窓。簡易ベッドの上の無機質な小さな山。
その山から空気が抜けていくような高い音が一定の間隔で鳴っている。
その音はリアムの鼓膜を擦るように煩わしく響いてくる。
小さな山の輪郭……掛布のかかった身体がわずかな上下を繰り返し、それが唯一、生きているのだとわかる証だった。
医師がレインの手を掛布にそっと置くと、リアムを促した。
その医師の姿をリアムの双方は捉えていない。その奥にいるレインしか映らなかった。
頭には何重にも包帯が巻かれ、その隙間から落ちる髪は、こびりついた血で固まっている。目元や両頬には赤紫の痣が浮き、痛々しく顔の形状を変えて腫れあがっていた。色の無い乾いた唇の端も血が滲み、強く殴られたのだと一目で分かる惨たんたる様相。男の手で絞められれば、あっという間に折れてしまうのではないかと思う程に細い首。その首筋に長い爪跡が引かれている。
変わり果てたレインの凄愴な姿が、リアムを怒涛の懺悔へと突き落とし発狂させた。
(――どうでもいい)
築いたものなど何もない。
全て無にしていい。
(――でもレインだけは、だめだ。)
ジェノバを築くことも、紛争のない地にすることも、辺境伯からの信頼も、母や祖父の願いも、ダイアナのことも、容易く手放す。だが、レインだけはどうしても失いたくない。
ジェノバよりもそして自分よりも、レインが大切なのだと赤裸々に思い知らされ、己に憎悪を抱く。
リアムは絡まっていた糸を、張り詰めた一本の糸に解くと、我を忘れベッドの前に転がり跪いた。
白い掛布の上に放り出された血の気の失せた小さな手を握り締め、頬を寄せる。
あまりにも細く哀れで……その手を握り締め、摩り熱を与えた。
摩っても握り返してこない人形のような手に、祈り続けた。
「レイン……」
腫れあがった顔を覗き込み、名を呼ぶ。
応えるのはヒューヒューと空気を求め鳴り続ける、胸の音だけだった。
死を想像させる不快な音を止めるために、リアムはレインを起こそうとする。
「――レイン。レイン……。起きてくれ。このままじゃだめだよ。咳が酷くなる。ハーブのお茶を入れるから……」
リアムの必死の呼びかけに、わずかにレインの瞼が震えた。
リアムは身を乗り出し、琥珀色の瞳を見届けようとする。
今度こそ彼女を受け止めるのだと必死に顔を突き出した。
「レイン……ごめん。助けてあげられなくて……。君を傷付けて……」
森の、そのまた奥に引き込まないでくれと、名を呼び自分のもとへと引き戻す。
彼女が一番苦しい時に傍にいなかった愚かさを恥じ、レインを自分のもとへと必死で呼び寄せる。顔を寄せて耳元でもう一度呼べば、レインの瞼が弱々しく開いた。
だが琥珀色の瞳は彷徨い、リアムを映そうとはしなかった。
覚醒していない瞳は僅かな時間揺れ動き、そして力なく閉じられた。
その瞳に映し出された虚ろな懇願の色にリアムは絶句した。
レインはいまだ助けを求めて彷徨っているかのようだった。
「レイン――」
(――大馬鹿者だ)
痛切なリアムの嗚咽が静かな病室に響くと、レインの眦が小さく光った。
閉じられた瞼の端から、一筋の滴がはれ上がった頬を伝わりレインの小さな耳に添うように落ちていった。




