36 落雷の痕
嵐が過ぎ去った早朝は爽やかだった。
しかしリアムにはそれを心地よいと感じることの出来ない、胸の詰まりがあった。
濡れて黒く輝く石橋の下、茶色く濁った水が勢いよく流れる様を、リアムは馬上から臨んでいた。ひどく増水しているが、問題はない。早朝の街を巡回したが落雷の被害もなかった。
(――様子を見に行くか)
仰ぎ見た裏山も煙がくすぶっている様子もなく、土砂崩れも見受けられない。
レインの様子を確認しに行くべきか、と迷うも定刻時刻が迫り、リアムは一旦詰所に戻ることにした。
*
「分隊長、おはようございます。あ、メイソン先輩もおはようございます」
リアムに続いて出勤したメイソンは、新人の守衛にあくび交じりの挨拶を交わし、リアムを見て右手をひらひらさせた。
「昨日の嵐で、何か異常はないか?」
リアムに促され守衛は引き継ぎの報告書をめくり異常なしと告げた。
しかし、付け足されている一文に気づく。
「えっと、野犬がずっと吠えていたらしいですね。雷と夜会で王宮も賑やかでしたからね。これは被害というより一応、報告です」
「野犬?」
後頭部の高い位置で括られた銀髪が、一筋、前に零れ落ちて揺らいだ。
守衛が指さす報告書の文字をリアムは目で追う。
記された時刻は真夜中。
雷が落ちた時刻にほど近い。
明け方まで、白い大型犬が詰所に向かって吠え続けていた、と追記されていた。
些細なことだ。しかし、昨夜からの懸念がリアムを煽りつけた。
「調べに出る」
顔色を変えたリアムに、守衛はどうしたことか、と事態を探る。
「分隊長ご自身で? 新兵に連絡いたしましょうか?」
「いや、いい。裏山の被害を調べてくるだけだ。野犬も放置しておけない。何もなければすぐに帰ってくる」
「あ、俺もリアムと同行って、書いといて」
常に動じることのない上官たちが、野犬ごときに血相を変えて馬首を返す姿を、守衛は呆然として見送った。
***
出兵して以来踏み入れなかった裏山を、リアムは疾走した。
更新されていない犬の記憶は大型犬とは結び付かず、だからこそ、事実確認が必要だった。
懐かしい森は、摩耗したはずの記憶をリアムの脳裏に浮かび上がらせた。
レインがアトリエで絵を描く姿、モットと話す姿、そして茶色の子犬を抱く姿。
浮かぶのは、遠い日の孤独で安寧な森の暮らし。
淡い慕情とひとり残した不安。それを抱えて旅立った日。
――杞憂に終わるはずだ。
リアムは過剰な不安を拭い、都合の良い考えを巡らせながら馬を駆った。
野犬が嵐に怯えうろついただけのことだ。
「雷が大きくて驚いた」とレインが笑って終わりになるだろう。
家がもし、被害にあっていたら修理を手伝えばいいと――。
時折、野犬がいないか視線を巡らせ、獣の鳴き声にも神経を研ぎ澄ました。
昨晩の雨で掻き回された森は、土と緑の生臭い匂いで満ちていた。雨のように降りかかる葉の滴に、全身を濡らしながら、リアムは巧みに馬を駆り木々の間をすり抜けた。
月日を感じさせない同じ匂いと息吹、そして鮮やかな彩。
悠久を思わせる神秘性とたおやかさに触れると、リアムは自然とレインの気質とそれを重ね合わせた。
だが、その平穏な幻想もアトリエに近づくにつれ、消えていった。
湿った空気が一変して焦げた匂いに変わりリアムの鼻を突いた。
手綱を握る手に汗がにじみ出し、先を阻む枝が煩わしく剣で倒し先を進む。
ようやく木々の隙間からアトリエが見えた時、不意に矢を射られたような動揺がリアムの身体を駆け抜けた。
そこにあるはずの和やかな景色。
見覚えのあるものをリアムは探し出す。
ブランコが吊るされていた木。
馬を寄せる大木。
小さな畑と花壇。
木製の素朴な玄関扉。
だがあるのは、焼け焦げて真っ二つになった大木。
開け放たれた扉。
潰された花壇。
アトリエは、口を開けた物言わぬ人形のような不気味さを横たえていた。
その異常さに、リアムはすぐさまレインの姿を探した。
(――っ、何があった)
馬を飛び降り、その勢いのまま家に駆け寄る。
だがすぐに、足が食い止められ動かせなくなった。
ぬかるんだ足元に這わした視線が、無数の蹄と靴の跡、それらに交じる大量の白い羽を捉えた。刹那、悔恨が耳鳴りとなって脳裏でリアムを攻め立てた。
『森に落ちていなければいい……』
『何が起こっても大丈夫じゃないかしら……』
その言葉を聞いてもなお、何の行動も起こさなかった。
レインを貶める話をただ横で聞いていた。
『――私はずっと変わりありません』
帰還後、馬留めで偶然再会した日。
去り際に、弱さを見せぬように目をはらしながら、彼女はそう言った。
募った言葉があったのかもしれない。
それなのに、受け止めることもせず、目を伏せ逃げた。
――レインに会えば、己の選択が揺らぐから。溢れ出る彼女への慕情がばれてしまうから……。
動機は単純だった。そして愚か過ぎた。
「――レイン」
今までに経験したことのない恐怖を突きつけられ、己の過ちの重大さに気づく。
傍に咲いていた愛しい花が、偽りの代償に手折られてしまった。
ウォンッ、ウォンッ、ウォンッ。
静寂を突き破る鳴き声がリアムを振り向かせた。
歯をむき出して威嚇する犬にリアムは容赦なく近寄った。
「おまえ、ブーか?」
獰猛に吠え続けていた犬が、名を呼ぶと手なずけたかのように吠えるのをやめる。
一歩ずつ歩み寄るリアムに犬は後じさり、警戒し、そして弾かれたようにうれしさを露わにしてリアムに飛びついてきた。
決して野犬には見えない体格と美しい毛並みに、リアムはレインの犬だと確信した。
「詰所に呼びに来たのはおまえか?」
犬の黒い瞳がそうだと言わんばかりに、リアムを見つめかえし、クゥン、クゥンと情けない声でリアムを家の中へと誘い込む。
扉の奥から風が抜け、雨の名残りのしたたる音がどこからか聞こえてくる。
二人の騎士は互いに目配せをした後、息を合わせて家の中へと突入した。
外と動揺に荒らされた室内に目を瞠る。
雨水や枯れ葉が吹き込んでびしょぬれの玄関に、泥の付いた無数の足跡。それは、アトリエまで続いていた。テーブルや椅子、暖炉の前の赤い絨毯は昔と変りない。だがどれも、整った位置に置かれてはいなかった。
(――頼む)
情けないほどの懇願を心で叫びながら、リアムはレインを求めて室内を捜索する。半開きになった扉をそっと押し出せば、レインの悲鳴のように、高い音を立てて軋み、リアムに入れと告げてくる。
そして、大きすぎる衝撃に襲われた。
「ひでえ……」
メイソンの呟きが硬直しているリアムの背後で響いた。
なぎ倒されたイーゼル、背もたれのない椅子は、脚を天に向け転がったままだ。画布が散乱し、どれも裂けて歪んでいた。
たったひとり、恐怖に落とされるレインの泣き叫ぶ姿が脳裏を掠め、リアムをどん底へ突き落した。
「――落雷どころじゃ、ない」
否定できない、事件性を唸り声と共にリアムは吐き出した。
すでに手遅れとなった時間を取り戻すべく必死に硬直した体を叱咤し動きだす。
どこもかしこも荒らされ、レインの姿も見つからない。痕跡を見逃さぬように、心を鎮め集中させなければならないとわかっていても、荒く吐き出す息が、耳を塞ぎリアムを動転させた。
都合よく戻ってきた犯人を前にすれば殺しかねない勢いだ。
アトリエにさす柔らかな光が、リアムの尖った神経を導くように一隅を照らしていた。
照らされた先に落ちている塊に引きよせられ、そして感情が爆ぜた。
拾い上げた塊の、重量に震撼する。緩慢に広げれば、その形状に絶句した。
リアムの手から重く垂れさがる布は、大きく引き裂かれ、白の半分を赤黒く血で染めている。
「レインの……」
室内を見渡せばこげ茶色の木の床が所々、赤黒く染まっていた。
まるで射られた獣が逃げ惑った痕のように。
はっと心臓の高鳴りと共に息が漏れる。
滲んだ大量の血にレインの安否が危惧された。
琥珀の大きな瞳、可愛らしい小さな鼻、柔らかそうな唇、その愛くるしい顔を鮮明に思い出し、精神が真っ赤な鉄のように焼かれる。
「レイン!」
リアムは名を叫びながら家の至るところを開け放った。
隣室のクローゼット。掻き出された衣類の下。炊事場の納戸。
目覚めない悪夢を足掻きまわった。
「リアム」
上下するリアムの肩を、メイソンが掴みかかる。
彼もまた怒りに、目が血走っていた。
「もう無理だ。詰所に戻り捜索願を出すべきだ」
犬が騎士団の兵舎の前で吠えたのは深夜からだ。
既にその時に事件は起こっていたに違いない。
二人は、草むらに倒れた人影を探しながら、森を駆け抜けた。




