31 ネッリ画伯
公園のベンチにドスンッと座り、木々の隙間に見える空を仰ぐ。
「はぁ、なんでこうなるのかな……」
こんなに思い悩むのは自分だけなのかと思うと悔しくなる。リアムやダイアナは悔しさも悲しさも、まったく抱いていないだろう。
淀んでゆく気持ちを紛らわそうと、レインは鉛筆と紙を取り出し素描を始める。
与えられた才能に自分の本質を取り戻し、次第に卑下する気持ちも薄れていった。
リアムはリアムの世界で、自分は自分の世界で自分らしく生きてゆこうと念じると、見えていない未来に幸福があると思えてくる。レインはゆっくりと、そしてのびのびと筆を走らせた。
公園を散策する人々や風景を夢中で描いていると、いつの間にか隣に老人が座り手元を覗き込んでいた。
「お嬢さん、いい絵を描くね。どこかの工房にいるのかい? 画商はついている?」
「いいえ、どこにも。画商の方もお会いしたことはありません」
画家と成れば、画商が仲介し絵の注文を取ってきてくれるのだが、レインにまだお声はかからない。それどころか世に出した絵は無いに等しい。だが、老人が画商がついていると思ってくれたことは嬉しい。自分の絵にも可能性があるということだ。
毛織の帽子にクチャッとよれたシャツを着た老人が、無精ひげを触りながら感心して絵を眺めている。その老人の醸し出す空気感が、絵を肩越しから覗き込む母を思わせ、レインは無意識に彼を絵描きと思い込んだ。
「おじいさんはどんな絵をお描きになるのですか?」
「わたしの絵か? わたしも絵描きだと思ったかい?」
老人は嬉しそうにレインに問う。
「多分君も見たことあるはずだよ。この歳になっても描いてくれって注文が多くてなぁ、忙しすぎてたまらん」
よれよれの服はどう見ても売れっ子の画家とは想像しがたいが、彼の持つ雰囲気や言葉はレインを魅了する不思議な引力があった。
「それは羨ましいです。私なんてまだ勉強中です」
「ほぉ、絵はもうしっかりと出来上がっているように思えるがね。誰に教わっているんだい?」
その問いには胸を張って答えることができる。
「フローラ先生です。女流画家の。今はお亡くなりになってしまいましたが」
無精ひげを撫でていた老人の手が止まる。そして素描を見て「なるほど」と頷き、口元をぐっと下げた。
画家仲間として、フローラを知っているだけではなさそうだった。表情や言葉の端々に彼の無念が感じられた。フローラと聞いてすぐに彼女の絵を数点あげて、在りし日を振り返る遠い目でフローラの絵を褒めたたえた。惜しいことをしたと嘆き、レインの絵が似ていることも指摘する。画家としてフローラを認め、女流画家を見下すこともしない。
「あの……失礼ですがお名前を窺ってもよろしいでしょうか?」
レインの問いに答えたのは、ベンチに駆け込んできた少年だった。
「先生! ネッリ先生! こんなところで油を売ってないでくださいよ。今月中に仕上げないといけないんですよ」
「……っ! ネッリ先生?!」
レインは大きな目をより大きく見開いた。
少年は息を切らしながら、横に座るレインを無視し、戻りましょうと老人に懇願する。
先程聞いた彼の名を、絵描きの間で知らぬ者はいない。王家に仕える宮廷画家でさえ彼には頭が上がらないという。
――爵位を持たない天才画家。
どこにも属さないからこそ彼は自由な表現力を持ち、世に出す作品は一世を風靡する。
「――もしかして、『踊るビーナス』などの数々の名画を生んでいる、あのネッリ画伯でしょうか?」
だとしたら隣に腰かけているのも憚られる。レインは慌てて席を立ち少年の横に並んだ。
フローラも画伯の作品を手伝ったことがあると自慢げに話していたことを思い出す。素晴らしい画家なのだが変わり者で大変だと話していたことも――。
「そうだよ。フローラも良くこき使ったなぁ。いい絵も描くし仕事も速かった、しかし真っすぐすぎて気が強くてのぉ。毎日このわたしに説教しにくるんだよ」
ネッリ画伯は声を出して笑い、恐縮して固まるレインを再び自分の隣へ座れと手で呼び寄せる。レインは恐れ多くも、言われるがまま彼の隣に再び腰を下ろした。傍にいると、母から諭されているような温かさを覚え、緊張よりも胸がきゅんとなった。
迎えに来た少年が、この場を終わらせるために、レインに忙しなく説明をはじめた。
これから異国の大商人の肖像画を仕上げると言う。その後、礼拝堂の天井画の修復やらと忙しいらしい。
画伯の年齢で、天井画を描き上げるのは至難の業。天を仰ぎ全身で描き上げるため体力も必要なのだ。その活力は生涯を絵に捧げたからこそなのか。レインは彼の偉業に敬服し、初めてフローラ以外の画家から指南を受けてみたいという気持ちが沸き上がった。
「さあ先生、今回は手を抜かないでくださいよ」
少年に諭されると画伯はレインに愚痴をこぼす。
「もぉ~忙しくてなあ、南街の壁画を適当ぉ~に描いてやったんじゃわ。あそこの司祭は神経質でうるさいんじゃ。そしたら、もちろん司祭が大激怒よ」
南街の壁画と聞き、レインは思い出す。そこは昨年から立ち入りが禁止されている曰くつきの教会なのだ。
「てきとぉ?ですか?」
画伯のせいで立入禁止なのか。思考を巡らすレインに画伯は「ああ、そうじゃ」と、自慢顔になる。彼を正当に評価していないのは教会の方なのかもしれない、と思うと適当な絵を描いた彼の思惑が知りたくなる。好奇心を露わにするレインに、画伯は気安く言い募った。
「どうだ? 手伝ってはくれんかな。フローラは修復・修正の達人じゃったぞ。君もそうだといいのだが」
驚きでぽかんと口を開けたままのレインに、もう一度「どう?」と声がかかる。
興奮と怖気が交互に押し寄せるレインだったが、願ってもいないチャンスに、慌てて「ぜひ!」と声を張り上げ頭を下げた。
実のところ都合がよくもあった。パトリシアが来週結婚してしまえば、彼女に雇われたメイドは不要になるからだ。
「ぜっ、ぜひ、お願いします! 調度、職と家を探し始めたところです。今月には使用人の仕事もやめる予定でしたので、ぜひお手伝いさせてください」
「そう、じゃあ決まりね。仕事はそうだなあ、わたしがすぐには取り掛かれんから、ひと月後……いや、ふた月後かなあ……君もちょうどいいだろ? 再来月初日に礼拝堂に来てくれるかな」
とんとん拍子に話が決まってゆく横で、弟子の少年が「え~!こんな若い女性に?」と声を上げて慌てふためいた。
少年と目があえば少年は、はぁと深いため息をついた。
「あなたお名前は?」
「レインです」
「レインさん、裸体描けます?」
「も、もちろんです!!」
「想像じゃダメですよ。ほんものです」
本物が脳裏をかすめ、レインは少し赤くなる。
「男性の裸は覗き見したことがあります! その時にたくさん素描させていただきましたから。大丈夫です」
「覗いたのに、させていただいたってとういうこと?」
答えられずにいたレインに、画伯は「覗き見かい、不埒じゃの」と手を叩いて笑う。その呑気な笑い声に少年は益々目を吊り上げた。
「ネッリ先生が『適当に描いた』っておっしゃてたでしょ。そうなんです。先生は手を抜いて神々を全員裸で描いたんですよ。みんなすっぽんぽんです。それに気づいた司祭が、『卑猥だ~‼』って激怒して、見えている大事な部分を布で隠せ、と言ってきたんです。だからレインさんには大事な部分を全部布で覆ってもらいます」
(ん?……じゃあ、裸体描けなくても大丈夫じゃない?)
「今、なんだ? と思ったでしょ? でもね裸体が描けないと、その上を覆う布の動きが描けませんよ」
と少年が付け足してくる。
「以前フローラにそれをやらしたら、怒っておった」
偶然舞い込んだ変な仕事に、親子で関わる不思議。
好奇心漲るレインに画伯が話して聞かせる主張はこうだ。
服を着るということは自分を美しく見せるためであり、最高位に美しい神にとっては不必要、まして神々には欲などあってはいけないのだ、というのが彼の主張だ。
それを聞いた少年はすかさず、「服じゃなく腰布でよかったんです」と言い添える。
話しを遮る夕刻の鐘が鳴り響くと、少年は慌てて画伯の手を引いて立ち去ろうとしたため、レインも慌てて画伯の住所を聞き、書き留めた。
「では、ふた月後にお伺いさせていただきます!」
「まってるよ。そうそう、南の街の山の麓にねえ、『画家の家』を建てようと思ってるんだけど、よかったらおいで。家も探してるんでしょ」
「何いってるんですか! 奇人先生と共同生活できる女性なんていませんよ」
少年は大画伯に対してあまりにも不躾な態度だったが、それも彼らの習慣に思えた。ぐいぐいと画伯の手を引く少年は、扱いに手慣れている。
「よろしくお願いします」
画伯は振り向き、片手をひらひらとさせ「またな」とほほ笑んだ。
奇跡の出会いに、レインはいまだ感動に酔いしれる。
手に持った画板を覗けば、ネッリ画伯から聞いた住所がきちんと書かれていた。
画伯に出会えたうれしさ、それ以上に画家として先が見えたことに安心感が生まれ、清々しい。
街に長い影が落ち、帰り時間を告げている。
「美しく見せたくて服を着るか……その通りよね。先生はヨレヨレだったけど立派に見えたわ」
新しい靴が買えないなら、ボロボロの靴が霞むほど自分を磨かないといけない。
レインは空を仰ぎ、出会いを導いた母に問う。
「お母様、あの方本当にネッリ先生よね? お母様のこと気が強いっておっしゃってたわ。だから、本物よね。お母様は見た目はとても美しいけれど、実際は活発で……気が強いもの……」
ひとりクスクスと笑いが収まらなくなくなった。
二日後の休日、レインは事実を確かめに南街に赴いた。司祭に理由を話し特別に教会に入らせてもらった。その大天井には五十を超える裸体の神々が空から地上を見守っていた。
「まさに圧巻だわ!」
神々の股間をみてレインの腕はなり、そして胸は高まった。




