29 届いた荷物
気がつけばいつの間にか、筆が止まっている。
描いていた絵が霞み、先日の光景が浮かび上がって気持ちが乗っ取られてしまうのだ。
冷静に考えれば、自分がいけなかった。
貴族の彼らと同等であるはずもなく、勝手に首を突っ込んでいたのだ。
一方的に感情を浮き沈みさせ、彼を悪者にすることもおかしなことだった。
(でも……リアム様は少し薄情よね……)
反省と嫌味をぶちまけ、レインは記憶を散らすように頭を振った。
そうして再び筆を動かし、色を塗り重ねる。
色を重ねて色彩が変化してゆくように、暮らしの忙しさにこの空虚な思いが塗りつぶされ、いつしか穏やかな気持ちになればよい、そう思いながら。
(――お父様、お母様の時もそう乗り越えたわ。だから二度目は簡単よ……)
「ねっ?」
レインに突然声を掛けられたブーは、驚きもせずじっとつぶらな瞳を向け尾っぽをパタパタさせた。
「ブーちゃんもそう思うわよね。時間が経てば寂しくなくなるわよね」
そう言いながらも、寂しさにレインは筆を置き愛犬をギュッと抱きしめた。
暫く腕の中でおとなしくしていたブーだったが、不意に耳を立たせたかと思うと、レインを置き去りに玄関に向かって走り出した。
(お客様?)
そう思った直後、寂しさが急速に期待に置き換えられる。
今しがた立てた誓いも忘れ、レインは浮足立って玄関へと向かうのだった。
(もしかしたら……)
ノックの音と同時に向こう見ずにドアを開けると、ドンッと音を立てドアが跳ね返った。
「うわ!」
訪問者は誰でもない、見知らぬ男性だった。レインの期待は瞬時に失せ、警戒へと変わる。
ドアにぶつけた額を撫でる中年男性を前に、レインは開閉の幅を小さくして様子を窺った。
「ボルダロッドのリゴー侯爵の使いの者です。お手紙と荷物を預かり、届けに参りました」
彼はポーチの階段下に置いてある大きな箱を、体をずらしてレインに見せた。
「手紙も荷物も街の郵便局に届くはずなのですが……。どうして?」
レインは怪訝に男性を見据えた。日に焼けた肌に白い歯、目尻には深いしわが刻まれている。労働者らしく愛想もいい。荷物があることも事実のようだ。
男性は仕方ないなという顔で、ポーチの階段を降り、荷物をよいしょっと抱えるとレインの前に置いた。
「私は郵便配達人ではなく、リゴー侯爵の屋敷に昔から庭師としてお世話になっている者です。久方ぶりに王都の実家に帰るために休暇を頂きまして、その際に侯爵からついでにと荷物を頼まれ立ち寄らせていただきました」
差し出された白い封筒を受け取ると、レインは侯爵家の家紋の封蝋を確認した。
手紙に目を通せば、冒頭に今向き合っている庭師の男性について記されていた。
「まあ、本当ですね。大変失礼いたしました。こんな大きな荷物を届けてくださり、本当にありがとうございます」
よく見れば、気温に反して男性はコートを手で持っていた。大きな荷物を抱えて汗をかきながら山道を登ってきたに違いない。レインは恐縮しながら荷物を受け取った。だがふと彼の言葉に違和感を覚えた。
この男性の「立ち寄った」という気軽さは、ここに何度か訪れたことがあるからだろうか、と疑念が浮かんだ。
「ええ、実は若い頃、このアトリエの建設の手伝いに一年程こちらに通ったことがあるんですよ。木々の伐採もしました。昔のことだったから道を覚えているか心配でしたが、この森は全く変わっていなかったので、すぐに辿り着きましたよ」
「まあ!」
自分以上にこの家のことも父のことも知っている人物が現れ、嬉しさにレインは舞い上がった。父に信用されていた男性なのだと思うと、信頼も親しみも覚えてしまうのだった。
「ここは、画家さんのアトリエでしたよね、ということはお嬢さんも画家さんですか?」
「私は……たまごです。シャルル様が贔屓にしていた画家の弟子です」
「ここは環境がいいから、良い絵が描けるでしょう?」
――画家のアトリエ。
父がそう依頼してこの家を建てたことを初めて知った。ならば、日々絵を描き続ける自分にも、堂々とこの家に住む権限が与えられた様に思えてうれしくなる。
「シャルル様はどんな方でしたか?」
レインはあえて聞く。もっと父について知りたかった。
「そうだなぁ、あのお方は女性みたいに美しいお顔をしていましたが、意外に豪快な方だったね。自分で木を倒して、あのブランコなんかも作ってね……」
そう言って大木の枝から下がる板とロープで出来た簡素なブランコを指さした。変質しない光景にレインは胸を押さえひとつ熱い息を吐き出した。
「でもシャルル様が残念なことに亡くなられたからねえ……」
言い淀む男性は、この家の今後の行く末を知っているように思えた。
持って来てくれたこの手紙はきっと、立ち退きの話であり、今後についてのことだろう。
具体的に動き出す時が来たということだ。しかし、覚悟を決めても実のところ家を借りる手順さえも、レインにはわかっていなかった。だが幸いにも人生経験豊富そうな男性をいま、目の当たりにしている。
「あの、つかぬことをお聞きしますが、ご実家の近くには安い借家とかありますか?」
「そうだねぇ。畑ばかりだしなあ。何軒か空き家ならあるかなあ。城下まで出て仕事しているもんはみな、住み込みみたいだよ」
なかなか条件がつくと難しいことなのだと、その返答を聞きにわかに焦りを覚える。
「やはりここを出るのかい?」
「ええ、そろそろ」
頼りない風貌のレインが、肩を落とす姿を見ていられなかったのか、庭師は他に困っていることは?とより親身になった。
「あの、一度侯爵のお屋敷に伺わなくてはいけないのですが、行き方をお教えいただけたらうれしいです」
「お嬢さん一人で行くつもりかい?」
レインが頷けば、いつ頃?と問われた。
まだ手紙を開けてみないと分からないが、たぶん雪解けの頃になるだろう。
「まだ未定です」
庭師はすこし考えたあと、憐憫の情をみせた。
「お嬢さん一人じゃ、馬車に乗っていくしかないな。ただ、馬車を借りたりするのは高いぞ。安い郵便馬車もあるけどなあ……。春先にまたこっちに帰るつもりだから、その時で良ければ、乗せてってやれるよ」
こんな爺と一緒で良ければと、庭師は豪快に笑う。
「日程が決まれば侯爵にもそう伝えるよ」
「ありがとうございます。ぜひお願いいたします」
困った時には誰かが手を差し伸べてくれる。
ひとりで生きるレインが、萎れる度に感じたことだった。
庭師は一週間後にまた、返信の手紙を受け取りにくるという。
レインは運んでくれたお礼にと、大量に保存してある自作のジャムっぽい栗を渡した。いまだ食糧不足でも、栗だけは豊富にあった。玄関に飾ってあったモットとブーの絵も可愛いと気に入ってもらえたため、それも持って行ってもらった。
彼は実家にいい土産が出来たと白髪交じりの頭を何度も下げながら、王宮へ続く小道へと立ち去って行った。その姿を見送っていると、やはり彼の後をモットがついて行くのか見えた。
「さ、ブーちゃん、この箱を開けてみましょう!」
ブーもまた体で見知らぬ男の侵入を防ぐように玄関を塞ぎ、じっと身構えていてくれたようだった。
「ブーちゃんも、ありがとうね。頼もしいわ」
お礼におでこにキスをすると、のそのそと立ち上がり、箱の匂いを嗅ぎ始めた。
箱を食卓に置き、手紙を読む。侯爵の手紙は簡潔だ。
報告書のような手紙は、侯爵と自分の関係を良く知らしめている。
――麻袋に入っているの豆は、シャルル様の育てていた畑で収穫したものです。他は事故現場を捜索した際に出てきたものです。渡すのが遅くなってしまいました。春にはこちらも落ち着きます。そのころにお会いしましょう。家の明け渡しも、春以降にお願いしたい。――
箱を開けてみれば、大きな瓶にたくさんの豆が入っていた。
「わぁ、懐かしいわ!」
父が毎年瓶に詰めて持って帰って来たのを思い出す。
スープに入れて食べるとほくほくと甘くおいしい。
家族の大好物だった。
そして、見覚えのある画板があった。
あの日以来、誰も触れることのなかった画板の角には、僅かに土が付着している。馬車が転落した際に付いたのか、その生々しさにレインの手は震えた。
事故に関して遺族は手が出せなかったと聞いている。だから真実を知るのはこの遺品のみとなる。
画板に挟まっていたたくさんの素描用紙にも土が付いていた。
だが、レインはその土を落とすことさえ躊躇った。彼らの傍にあったであろうその土までもが名残惜しかった。
ミティア国の歴史の一場面を切り取った絵は、母の才能を惜しみなく見せつけてくる。母の眼差しが、隣国での式典の様子を見たまま鮮明に描き残していた。俯瞰で描かれた構図から、父と二人、高い位置から式典を眺めていたのことが想像できる。
描かれた木炭をなぞれば、まだうっすらとレインの指に炭を残した。
レインはその炭を、両親を想いながら指に刷り込んだ。
取り出した画板の下には、きれいに折りたたまれた、丈の短い白い上着と深緑色の地に、薔薇と葉の模様が刺繍されたリボンが入っていた。どちらも絹糸の刺繍が入った高級品だった。
「私へのお土産ね……」
レインは白い上着を肩に羽織り、あるはずだった三人の生活を想像する。
こんな風にひとりで暮らすはずではなかった日々があったと、思いを馳せた。
『おかえりなさい! 待ちくたびれちゃったわ』
そう言って抱きついたあと、お土産を広げて旅の話を聞く。
それから、素描を見せてもらって、絵の具の調合と背景を描かせてほしいとねだってみる。
どうしようかと迷う母に、二人が不在の間に描いた絵を見せて「これなら任せられる」と認めてもらうのだ。
新しい上着を羽織り、リボンは父に結んでもらって……。
穏やかな両親の笑い声が聞こえてくる。
歯車がかみ合わなかった両親の軌跡に、自分が含まれていなかったことはどんな意味があったのか。
凡人な自分よりも、才能ある両親をなぜ神様は連れて行ってしまったのか。
両親はきっと、傍で見守ってくれているだろう。
でも、やはり実際に傍に居て肩を抱いてほしい。言葉をかけて欲しい。
レインは手についた炭を見詰め呟いた。
「わたし、いま、とてもさみしいの」
父も母もそして……リアムも、いなくなってしまった。
レインは、床に座り込んだまま、苦しい現実から夢の中にいつまでも逃避した。




