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2 森のアトリエ

 

 鬱蒼とした木立の天井が開けると、日差しとともに小さな家がポツン現れる。

 卵の殻のような白い壁に深緑色の玄関扉、格子の窓枠は落ち着いた赤で塗られた素朴で可愛らしい家。

 近くの木立にはロープで作られた頼りないブランコがつり下がっている。


 森を駆け抜けてきた少女は、数段の石の階段をトトンッと上がり、玄関の取手(とって)に手をかけた。すると、待っていたとばかりにグワッ、グワッと足元に大きなアヒルが出迎えにやってきた。


「モットさん、ただいまぁ」


 息が上がり力のない挨拶を交わせば、アヒルもなんとなく心配そうに見え上げてくる。


「大丈夫よ」


 胸元からヒューヒューと、こもった音が鳴っている。

 幼いころから気管が弱く、走ったり、咳き込んだりするとこんな音が鳴る。

 風邪も引きやすく、よくこじらせた。


 そんな時は、音のする場所をゆっくり撫でて、重い空気の塊が少しずつ抜けるのを待しかない。

 普段なら母の柔らかな手が、やさしく背中を摩って落ち着かせてくれるのだが、今はもうそれは望めなくなってしまった。


 取手を握ったまましばし、呼吸を整えるレインの様子を同居人のアヒルはじっと見守るように見ている。レインはアヒルの頭をそっと撫でて、アヒルの気遣いに微笑んで応えた。


 玄関を開けると、彼も当然のように家に入り、早速餌を賑やかにねだってくる。

 キャベツの葉をくちばしの前に差し出すと、パクっとすぐに奪い取り、グワッ、グワッとまたねだる。

 その、しつこい「グワッ、グワッ!」が「もっと、もっと(ちょうだい)!」と聞こえるので『モット』と名付けた。


 モットは、近くの温泉が湧く池に住んでいたのだが、レインが入浴した帰りに自然と後をついて来るようになった。今では家に居座り続けている。

 お尻も態度も鳴き声も大きい。その上目つきは鋭く餌をもらった後は、まったくそっけなくなる。

 それでも、寂しい時や困ったときはいつもレインの傍に居てくれる、頼もしいアヒルなのだ。


 レインが想像するには……。

 人間に例えれば、彼は放浪癖のある少々荒くれ者の騎士であり、年齢は……たぶんおじさんだ。




 家の中はどこか洒脱でセンスがいい。


 不揃いだが美しいカップが並んだ棚、その横にある木目が美しい大きな一枚板の食卓には、野花が飾られている。異国土産の木彫りの猫が鎮座しているその場所は白い壁をくり抜いた大きな暖炉。その手前の、円形で毛足の長い赤い絨毯がレインのゴロゴロするときの定位置だ。

そして、白壁に映える青い扉を開けるとそこは、レインと母の仕事場でもあるアトリエになっている。


 レインは持っていた画板を壁に立てかけると、深い溜息とともにストンと椅子に腰を落とし、背もたれに体を預けた。


 陽の光が燦燦(さんさん)と降り注ぐ大きな窓、壁に沿うように置かれた画布や画板、そしてイーゼル。絵の具で汚れている大きな木の作業台にはこすり傷がたくさんあり、ぼろ布やナイフが置かれている。

 レインはこのアトリエで、木枠を作り画布を張ったり、板にやすりをかけて白く塗装したりと、画家だった母の手伝いをしながら自身も画家になることを夢見ていた。


 見慣れた作業台をぼんやり眺めれば、合わない焦点の先に先程出会った騎士の姿が浮かび上がる。


「――森の……騎士、を描こうかな」

 

 創作意欲を掻き立てられ、気持ちが昂る反面、欠落した自分を見てしまった虚しさも思い起こされる。

 指南してくれた母を亡くしても、描くことを生きてゆくための術にしたい、そう決意を固めたのが今朝の事だった。

 願いが良い題材と引き合わせてくれたとも思えた。だがやはり、絵が描けても先ほどのような態度では、今後の世渡りも難しい。


(緊張して、まともな会話すら出来なかった……)


 素描用に並べ置かれたリンゴをひとつ取り、無意識のまま(かじ)ると、先ほどの出来事が頭の中を巡り気持ちが萎えていく。


 気落ちする煩わしさにブルブルと頭を振れば、薄茶色の髪を括っていた白いリボンがするりと解かれ、おもむろに髪が分別なく広がった。

 くるくる丸まった癖のある髪は、童女のような頬と垂れぎみの眦を覆い隠す。

 本来は全体的に柔らかい雰囲気をもつ愛らしい少女なのだが、両親の不慮の死から長い間世捨て人のような生活をしていたため、髪はパサつき体は痩せこけ肌も青白い。

 髪を振り乱す今の姿は、まさにお化けのようだった。


「顔色が優れない」と偶然出会った騎士に言われたことが、今更ながらなんとなく傷つく。

 身だしなみすら、(おろそ)かにしていた自分を顧みて恥ずかしさを覚えた。

 

 先程の衝撃的な出会いによって、レインはようやく目が覚めた気分になった。

 心なしかシャクシャクとリンゴをかじる音も力強く、自身の鼓膜に響いた。




 ***




 あの日以来、森であの騎士に会うことはなかった。

 半月かけて完成させた絵は、思い描いていた以上に躍動感のある絵に仕上がった。

 千色の緑で描かれた生命力溢れる森、その中央には、弓を構え馬にまたがる美しく凛々しい騎士の姿が描かれていた。


 ーー名画と呼ばれる絵には観る人の心を揺さぶる力が宿っている。

 レインにとって、この絵こそが、名画に値するものとなった。


 勝手に描いてしまった騎士には少し後ろめたさを感じたが、もう会うこともないだろうと、ひとり秘密を楽しんだ。


 絵の師匠でもある母に見せたら、なんと言ってくれるだろうか。

 彼女の感想が聞きたかった。

 以前『人物を描くにはその人に寄り添わなくては駄目よ』と言われたことがある。

 そう思い起こすと、今回はずいぶん一方的に寄り添った感が否めない。


「ーーでも、いい絵が描けたわ」


『森の騎士』と題した絵をイーゼルに置き、一歩引いて眺めると、薄暗かった家が少し明るくなったような気がした。











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