28 信念
高い天井に反響する艶やかな声と、贅をつくした食事。
厳粛な叙勲式が終わり、引き続き大広間では新年の慶びを祝う舞踏会が盛大に執り行われていた。
王族の挨拶が終わると、ダンスが始まり豪華なドレスが体の動きに沿って色を変え、光と影の濃淡を変幻させている。
一様に明るく晴れやかな笑みを浮かべているのは、帰還した騎士とその家族、そして王都の貴族たちだ。
先の戦争を勝利に導いたリアムは、この夜会の主役とも呼べる。そして、その精悍で秀麗な彼の隣で微笑む女性もまた、彼に選ばれた唯一として、堂々とした気品を纏っていた。
英雄との縁を結ぼうと、遠巻きに挨拶の機会を窺っている出席者たちがにわかに騒がしくなると、その人垣が幕のように左右に開かれる。
「こんばんは、勝利に導いた英雄殿。いや、次期辺境伯爵かな」
リアムに歩み寄る恰幅の良い男性。一同が控え敬服するのは、彼がこの国の頭脳であり有能な宰相だからだ。
たとえ英雄であろうとその尊い人物と対等であるはずがないのだが、リアムは堂々と不遜な程の態度で彼と向き合うのだった。
戦場で痛みを与え、与えられた憎悪と虚しさが、目の前の男性に刃を向ける。
――開戦を決定した張本人は何を思いこの場にいるのか。
「お目にかかれて光栄です。この度、第二部隊の分隊長の任を承りましたリアム・ランクです」
丁寧な挨拶を交わしつつも、柔和な笑みを崩さぬ宰相の心の内をリアムは探る。
シャルル・リゴー大使が亡くなり国の一枚岩となった彼は、どの様な人物なのか。愚鈍か、それともただの非情、または頭でっかちの理想主義者か。
「幼き頃に一度お会いしたことがあると、父から聞いております。ダイアナ・サラ・ジェノバと申します」
「あの末娘のお嬢さんが、こんな美しい淑女になって、しかも婚約するとはね。私も年を取ったな」
まるで好好爺のように顎髭を撫でながら、辺境伯の息女と昔話をする宰相の横顔を眺めながら、リアムは苦々しい思いで戦禍に置かれ続ける故郷を顧みた。
建国以来、国境にある故郷ジェノバはこの国の盾だった。日常的に紛争が起こり、男たちは家族を養うために万年兵役に駆り出されている。働き手を失い田畑は枯れ果て、街は闇市が立ち並び、定職を持たない民たちで溢れかえっている。場末は既に傭兵たちや盗賊たちのたまり場だ。
ジェノバが経た戦いの歴史。その中で起こった神の啓示「赤い川」。
祖父がその警告を受け取り、自分が引き継ぐと誓いを立てた。
いつまでも血を流す愚かな民。この終わりのない悪循環を己の手で終わらせたかった。
そのためにもこの宰相との縁は貴重であり、利用すべきものだった。
そんなリアムの心中など察することもせず、宰相は和やかに談話する。
「はやく結婚して二人であの辺境地を守ってもらえれば、心強いのだがね」
宰相の言葉に、ダイアナが嬉しそうに頷く。
白い手袋をはめた細い手で、未来の夫の顔を不意に撫で自分に向かせると、夕日のように赤みがかった瞳を瞬かせた。
「リアム、閣下にもジェノバの復興の力になっていただきましょう」
次期領主らしい考えをダイアナから聞きリアムは驚いた。
今夜は公然のジェノバ領主代理と周知されていることも、彼女を前向きにさせたのだろう。しかし、今までの行動を振り返れば彼女の関心がそこにないことは明白だった。宰相を前に見栄を張ったのか、とリアムは将来の妻に懐疑的な目をむけた。
当面、リアムはジェノバに戻らず、分隊長として王宮騎士団を勤め上げるつもりでいる。その間、ダイアナは領地に戻り伯爵から領主としての役割を教授される予定だった。しかし、ダイアナはそれを拒んだ。王都の華やかさに惹かれ、辺境地へ戻ることを先延ばしにしている。
彼女と過ごす日々の中で彼女の本質が見えてきた。伴侶としてリアムは、ダイアナを理解しようと努めている。理解しがたいことも、彼女を思いやり謙虚な姿勢で受け止めた。
先程のレインとの一件もそうだった。
赤いドレス、赤い髪の華やかな女性。髪飾りが一つ欠けても、その美しさに損傷など無い。
意味の分からぬ要求を、ダイアナは素性も知らぬ使用人に押し付けた。そしてそれをリアムは理解しようとしたのだった。課せられた重責に麻痺し、善悪も考えずダイアナに向き合おうとした。
レインが恐怖を味わい、取り戻す必要などないことは明白だった、にもかかわらず。
レインは気丈で賢かった。
誰よりも優雅で美しい淑女の礼を見せ、自分よりも早くダイアナの本質を理解し、そして身を引いた。
思い起こす先程の光景が刻印のように焼きつき、リアムに悔恨の痛みを与え体をゆさぶり起こす。
だが、もうリアムには後戻りは許されない。
新たな居場所を得れて、国の頭脳と知り合い、そして信念を貫くまでだった。
リアムは改めて宰相に姿勢を正し向き合った。
安易な期待の眼差しを向ける男に真摯に述べる。
「結婚はまだ先になります。ですが将来ジェノバ領を守り、支えるという信念は二人に共通しておりますのでご安心ください」
宰相に、そして自分に揺らぎない誓いを立てる。
宰相は若い二人に新時代を見るかのように目を細め喜色を湛えた。
「信念か」
尖ったリアムの心とは対象に宰相は朗朗と呟き、リアムを真っすぐと見返してきた。
お互いに心の内を探るかのような鋭い眼差しが絡み合った。
彼の眼差しから感じ得たのは、柔和な表情で隠していた孤独だった。
彼は目元の小じわを手で押さえ、今まで見せていた偽りの笑みを解す。
リアムに僅かに微笑むと、心情を見透かされ断念したかのように、おもむろに心情を述懐し始めた。
「大使が馬車の事故で亡くなり、ミティア国の外交が一気に傾いた。戦地へ騎士団を送る前に、彼の穴を塞ぎ政治で建て直せば、戦争に至らずに済んだはずだった。君たちには三年もの長い間、苦労を敷いてすまなかった……」
頭を下げたわけではなかったが、彼は至極当然自分に責任があると言っているようだった。
「国王陛下にもジェノバの復興を進言し、早急に新たな和平を隣国と締結する」
国の柱となる人物が、驕ることなく己の非を認め、若い騎士に頭を下げる。
リアムは悪意あるほど彼を歪曲して見ていたことに、自分の浅はかさを恥じた。
去り行く宰相の後ろ姿に敬意を込め、頭を下げた。
未熟者ゆえの焦燥感に苛まれながら。
将来有望な二人のもとに、次々と声がかかる。
ダイアナの存在を無視し、自分の娘を紹介してくる親までいた。
それを不快に感じたのか、それまで慎ましく黙していたダイアナも不機嫌さを顔に滲ませた。
(限界だな)
リアムは挨拶も適当にダイアナを伴い、慣れない社交の場を離れた。
バルコニーの椅子に二人で腰を下ろすと、夜風でのぼせた頭を冷やす。真冬の冷たすぎる風に、リアムは長いマントを外すとダイアナの肩にかけ彼女を包み込んだ。すると年頃の少女は婚約者を見上げ無邪気に喜びを露わにするのだった。
「リアムは、あまり愛想がないのね。宰相閣下以外は挨拶のみで会話をする気もないじゃない。私のこともほったらかしだわ」
婚約者を批判する言葉も、彼女の身分が許してしまう。
リアムもまた当然のようにそのくだけた言葉を受け入れる。
「すべてにまだ戸惑いがあります。煌びやかな夜会も、英雄の名も、辺境の地を継ぐことも、唐突に決まった婚約も。だから今は傍観しているんです」
「婚約も? 私じゃ不服なの?」
箱入り娘が故の強い自負心をダイアナは隠さない。
「あなたは、俺にとってはまだ伯爵のご息女です」
「まだ迷いがあるのね。それは私も同じよ。でもね……」
肩にしな垂れかかり、きらきらと瞳を輝かす猫のようなダイアナに、リアムは曖昧な笑みを浮かべる。尊敬する辺境伯の息女。共に歩む伴侶。美しく社交的な女性。言葉を並べ整理しても、リアムはまだ己の首を傾げている。
「今ははっきりとしないけれど、たぶん私はあなたを本当に好きになると思うわ。主従関係はあっても、ジェノバで一緒に過ごした記憶はないもの。……そうね、今のあなたは突然、現れた素敵な王子様のような存在よ。恋しない方がおかしいわ。たぶんあなたも同じ感情ってことでしょう?」
ダイアナはリアムを受け入れる意思をはっきりと持っている。
リアムの戸惑いなど問題外だと言うかのように。
十八歳の彼女にとってこの婚約は恋すること。リアムは恋の相手に他ならない。
「そうかもしれません」
後ろめたさを感じてながら、リアムは適当に答える。
結婚して時が経てば、ダイアナの気持ちと並行して自分も彼女と愛情を育んでいくのだろう。
だが――、リアムの決意はそこではない。
リアムにとっての婚約は、ジェノバ領を守るためのものだった。
その道筋に婚約があった。




