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27 消えた面影

 

 往来が激しく、馬車が次々と立ち往生している。

 その後方に着いた馬車から軍服を身に(まと)った、秀麗な青年が降り立った。


 銀の刺繍の入った黒い軍服に赤いサッシュ、金の肩章。

 王宮では見慣れない軍服は先の戦争で国境の砦を護り抜いたジェノバ騎士団のものだ。


「メイソン!」


 響いた声に、レインは咄嗟にメイソンの後ろに身を隠した。

 気配を消して居ないもののようにふるまう。

 騎士は風を孕んだマントを後ろに払い、レインの傍らで立ち止まった。


(――あれはきっと、ジェノバ騎士団の正装だわ)


 レインは騒めく己を宥めながら一瞬見えた彼の姿を脳裏に描いた。

 彼が羽織っているマントは、森の騎士を描いたときに視えた、黒いマントに酷似していた。

 『――鍛え直しに入隊した』そう言ったのは、出会って間もない頃だった。今や英雄と称えられ、黒いマントをなびかせたリアムの姿は、彼の思い描いていた理想の姿そのものだ。


「ここから歩くのか?」


「……ああ、そうだな。今ここで、レインを降ろしたところだったんだ」


 会話に交じった自分の名に、髪の毛先までピリピリと緊張が走った。

 会えた嬉しさが込み上げる一方で、味気ない末路を辿るのが怖かった。


「レイン?」


 困惑が混じる声色が頭上に落ち、(うなじ)に突き刺さる視線を感じた。

 おもむろに頭をもたげると、彼と一瞬目が合い、胸元あたりに視線を留めた。

 そこには数個の記章があり、彼の誇りと嘱望(しょくぼう)される将来を知らしめていた。


「お久しぶりでございます。無事のご帰還を願っておりました。この度は……おめでとう、ございます」


 気持ちが(たかぶ)り、上ずる声でそう一気に告げる。

 だが勢いづいたレインの挨拶に対して、彼の返答は遅かった。

 冷たい風が体を冷やしてゆくほどの時を置き、リアムは「ありがとう」とつぶやいた。たった一言、感情の削がれた声にレインはどう反応してよいか困惑した。


 隣りあっている二人の間にはまるで空気の壁があるようで、レインは思わず後退(あとずさ)りリアムを仰ぎ見た。しかしすぐさま視線を下げ肩をすくめる。


 穏やかで美しかったはずの新緑の瞳が、嫌なものを見るかのように眇められ、揺れていたからだ。


(どうして……)


 昔のような関係には戻れないと覚悟をしていた。しかしここまでの疎外感を味わうとは思ってもいなかった。自分が彼に対して粗相をおかしてしまったのかと振り返っても思い当たらない。彼とは身分をわきまえて接しているつもりだった。厚かましい感情なども伝えていない。なのになぜ……。


 ただ、嫌悪されている、としか感じ取れない。それでも信じられず、レインはリアムの心の内を思考する。

 長い戦争が彼の心を荒涼とさせてしまったのだろうか?と。

 以前のリアムならば、言わない言葉まで察して拾ってくれるような優しさを持っていた。しかし目の前に現れた彼は別人のようだ。


 身分の差はあっても、懐く思わなくとも、せめて儀礼の言葉くらいは受け取ってほしかった。期待した僅かな望みも叶うことが出来ず、レインの気力は穴の開いた袋から零れ落ちる砂のように、みるみると無くなっていった。

 喉は石を飲み込んでしまったようにつかえ、退散を告げる力もない。


「――あっ、……」


 足が一歩一歩とリアムから遠のいた。

 しかしメイソンの手がレインの背中に添えられ押し留めた。


「――レイン、リアムは久々に君に会って緊張してるんだよ。英雄なのに気が小さいよね」


 場を和ます優しい言葉に聞こえたが、リアムへの皮肉が混じっている。

 それでもリアムは何の感情も表に出さない。

 ただいま、と帰ってくる彼の面影を何度想像したか分からない。

 両親とは違うのだと、何度も帰りの瞬間を想像し待ちわびた。

 彼が変わってしまっても、それでも無事に帰ってきてくれたらいいと思っていた。

 けれど……、虚しくやるせない。


 後方から来た馬車が、邪魔だと言わんばかりに道端に佇む三人の横を通り過ぎて行った。それを見計らったように豪華な馬車のドアが開き、皆の視線をさらった。


 深紅の薔薇を思わせるドレスに、赤い髪を高く結った女性が降りたつと、彼女はリアムを見詰めて微笑んだ。その恋い慕う、うっとりとした表情が、彼の婚約者なのだと、周知させる。


 彼女の美しさに魅入ったレインの胸がチリリとした痛みを生んだ。

 嫉妬するにはおこがましいほどのご令嬢なのだと、華美で豪華な仕立てのドレスが告げていた。リアムと並べばまさに王宮の華になるのだろう。


 レインは胸に手を当て、出そうになる溜息を隠す。彼女から目を離し、誰とも分かち合うことが出来ない感情を胸にしまい込んだ。


 夕闇が迫り、馬車の出入りが先程よりも多くなる。風に揺れる篝火が、夜会会場へと人々を導いた。すると一陣の風がいたずらに吹いて、花びらを揺らすようにドレスの裾をはためかせた。


 令嬢の美しい赤い髪からも髪飾りを弄ぶ。白い手袋をはめた手で彼女は白薔薇の髪飾りを抑えたが、そのうちのひとつが生垣の方へと飛んでいった。その行方を彼女は目で追うが慌てることはしなかった。


 前方の馬車から顔を覗かせていたパトリシアも、その優美な令嬢を見るなり馬車から降りてきた。


「髪飾りがひとつ飛ばされちゃったわ」


 赤い髪の令嬢が近寄ってきて、微笑みながらそう言った。


 (――え?)


 リアムの腕に縋りながら彼女はレインに向かってそう告げたのだ。

「やめなさい」そう制したのはリアムだ。


 停滞していたレインの思考は、彼女の意図をすぐには理解できなかった。


 煌びやかな礼服に身を包んだ紳士淑女。

 お仕着せを着た使用人。

 彼女は、鈍い、と言いたげに視線をレインから生垣の方へと移動させた。


 (そうか……)


 とたん、自分の立場に気づき心に陰がさす。

 リアムは英雄であり、貴族であり、次期辺境伯である。彼からは威厳さえ漂っている。彼の態度は冷たいのではなく、体裁を重んじ使用人との正しい距離を置いているだけなのだ。しかし、そう理解できても以前のリアムを知るレインには彼の態度が信じられなかった。


 彼は婚約者を丁重に扱う一方で、レインをぞんざいに扱っている。

 考えたくはないが、その態度は地位のない女性を蔑むようにも感じられレインは余計に寂しさを感じた。


 (あなたも……)


 貴族とはそういうものだ。幼い頃よりレインに植え付けられた感情は、騎士達との出会いによって覆されていた。

大貴族である侯爵家から厭われ、肩身狭く生きてきた。その隔たりを知っているはずなのに、つい浮かれていた。


「少々、お待ちくださいませ」


 レインは何食わぬ顔で、務めを果たそうとする。それは矜持がそうさせたのかもしれない。しかし本音を言えばリアムの気を引きたかったのかもしれない。


 その場に荷物を置き、レインは馬車が往来する道を横切った。王宮の馬留めに初めて足を踏み入れたレインには、それがどれだけ危険なことかを想像できていなかった。


 飛び出してゆくレインを、リアムは険しく見据えた。とたん、軋んだ轍の音が響いた。


「レイン!」


 メイソンとリアムの声が重なりレインを呼び止めた。だが間に合わなかった。

 馬の嘶きと罵声が飛んだ。


「危ないだろ! ウロチョロするな」


 怒鳴られ足が竦みレインはその場から動けなくなった。その上、(わだち)が石を弾き頭を掠め飛んだ。


「……っ! 何してるんだ」


 身を固くしたレインの腕を、駆けつけた武骨な手が掴み取る。

 痛みが走るほどの力で手を引かれ、レインは沿道へ戻された。

 リアムに腕を雑に振りほどかれ、その荒々しい態度に恐怖を覚え委縮する。

 手からは髪飾りがもぎ取られ、嫌悪が滲む瞳に追い詰めらた。


「リアム様、女性の腕をそんなに強く引きずってはいけません。ドレスを着ていたらそれこそ破けてしまうわ」


 受け取った白い髪飾りを触りながら、同情とは程遠い冷めた声色で令嬢はそう告げた。


「あっ、あの……」


 惨めと失望にレインは飲み込んだ息が吐き出せなくなった。体調不良も災いしたのかもしれない。壊れそうなくらい打ち付ける心臓を手で押さえ、(くう)を見詰め、レインは神に助けを求めた。神にしか頼れなかった。


 ヒュッと喉がなる。呼吸もおぼつかないうえに空咳が出始めた。

 発作の恐怖が頭をよぎり、レインの身体は冷たい汗で凍えてゆく。


 (――こわい)


 蒼白になるレインの傍らにはリアムがいた。

 一瞬だけ迷う手が触れそうになったのを、レインは視界の端で見た気がした。だが荒く上下する背を撫でてくれた手は細く華奢で、リアムの手ではなかった。


 出立前に、レインの背中を摩った手が、幻のように霞んで消えてゆく。リアムが苦むことがある時は、今度は自分が疵ついた部分を慰めよう、そう思い続けた気持ちと共に。


「レイン、落ち着いて、ゆっくり呼吸を整えて。大丈夫よ、何も問題ないわ」


 パトリシアはドレスが汚れるのも惜しまずレインと共にしゃがみこみ、抱きとめてくれた。


「す、すみません。ドレスが……」


 ドレスに嘔吐したら大変なことになる。しかしそれを告げる余裕もなく、レインはただ顔を自分の膝に埋め耐えた。ゆっくりと鼻から息を吸い口から吐き出す。何度か繰り返すと徐々に乱れた呼吸も少しずつ落ち着きを取り戻した。


 通りすがる人々の眼差しに晒されながら、レインは汗と涙でぐっしょりと濡れた顔を袖で拭った。


「あ、あの申し訳ございませんでした。皆さまに……ご迷惑をおかけいたしました」


 感覚のない唇が震える。

 救い出してくれた大きな手が、あまりにも強く乱暴で硬かったことを思い出しながら、レインはリアムの手を無意識に見ていた。強くこぶしを握り締めている、彼は何を思っているのか。


 何をしても場違いな自分はのけ者だ。何も口にできない不自由さは、知り合いや友人、そんな分類とは関係ない。この場にいては鬱屈した気持ちにしかならず、己が病んでゆく。


 レインは、足元の荷物を拾い上げ、帰り支度をする。すると、甘い香水の香りと共に白薔薇の髪飾りが、屈んだレインの顔の前に下げられた。


「リアム様から頂いた大切な髪飾りなの。だから拾ってくださってありがとう。あなたはメイソン様のところの使用人なの?」


 軽やかな声でリアムにしなだれかかる令嬢から唐突に誰何(すいか)される。


「私は……、パトリシア様のお屋敷で家事使用人をさせて頂いているものです」


「そう。家事……侍女でもないのね」


 クスッとした笑い声を耳元で聞いても、怒りより引け目を感じる自分が情けなかった。


「レイン、もういいわ。今日はありがとう。ゆっくり休んで体調を治してね」


 俯き、唇を引き結ぶレインを、パトリシアは耐えかねたように背に隠した。


「ねえ、ちょっと」


 しかし髪飾りを差し出す令嬢はまだ言い足りないとばかりに、パトリシアの肩越しからレインを覗き込む。


「家事使用人では貴婦人の所作は分からなかったのでしょうけど、あなたに、一応教えておくわ。落ちたものを貴族は……、そうね特に私は、身に着けないの。だからこれは差し上げるわ」


 令嬢の手には精密に作られた造花の白薔薇がのっている。レインは相槌を打つことも、もちろん受け取ることもしなかった。彼女の言っていることに同意することなどできるわけもなかった。

 貴族のおこぼれを期待する使用人に、善意で施しをしているとでも彼女は思っているのか。


「よしなさい。それはあなたのだ。彼女に髪飾りは必要ないだろ」


 リアムが婚約者の手を掴んでレインの顔の前から下げた。

 あなたの為の髪飾りだと言われ、彼女は嬉しそうにはにかんでいる。


 婚約者と使用人を比較して勝敗を付けたリアムの言葉にレインはとうとう失望した。共感できるものなど全くなくなった。


「結構です」


 レインは気丈に、生涯誇れるだろう優雅な淑女の礼をとる。

 するとリアムの口が僅かに動いた。反骨心が彼にだけは伝わったのだと思った。


 レインは重く苦しい身体を引きずるようにその場を去る。

 去る背に、舌打ち交じりに名を呼ばれ、その威圧感にレインは震えた。

 動揺し、丸まった赤いケープと使い古しの布のバックをしっかりと腕に抱え込む。傷つきたくないと不安を抱えていても、僅かな期待が愚かにもレインを振り返らせた。


 見ればリアムは捨てられた子どものように立ち尽くしていた。

 そう思えたのもレインがまだ彼に寄せている気持ちがあったからか。


「――熱もあるようだな。それで帰れるのか? 体調は? ……君の体調は相変わらずなのか?」


 ――相変わらず。


 リアムが発した言葉に惑わされ、去りがたくなる。

 過去を思い返す言葉に心の底から手が伸びて縋りつこうとする。

 レインの心の中はぐちゃぐちゃになった。

 握られた腕もまだ痛い。彼の仕打ちに傷ついた。でもリアムがどんな人であろうと、記憶に潜むやさしい彼がいる限り憎み切れなかった。


 これがきっと彼と話が出来る最後になる。ならば、とレインは胸の内を洗い出した。


「――ええ、相変らずです」


 自分の声が震えているのがわかった。手放すことが怖かった。

 眉間に皺を寄せるリアムに、レインは微笑み、心で別れを告げた。


 篝火の灯す陰影で彼の端正な顔に鋭さが浮かんでいた。もう昔の面影も無くなったように感じられた。


「――体調は……変わりございません。――私は、ずっと……変わりありません。先程はお伝え出来ませんでしたが……、書面でご忠告頂きありがとうございました。あの忠告が日々の励みになりました。だからご無事にお戻りになられて、こうやってお礼を伝えられたことを本当にうれしく思います」


 婚約者の前で“手紙”とは言えなかった。社交辞令のような別れの言葉はこの場では適切だと思えた。

 レインが蒼い瞳を真っすぐ見据えると、リアムは煩わしいとばかりに目を伏せた。

 その仕草に、これでいい、とレインの気持ちが定まった。


 リアムの腕に置かれていた婚約者の細い手がそっと彼を引き寄せ、赤く彩られた唇から、艶やかな声が漏れ聞こえた。彼女がなにやらリアムに耳打ちをすると、リアムは彼女の腰に手を回し、了承の合図を送った。


 レインの言葉は宙に浮いたままになった。


 冬の日暮れは早く、空は紫に色を変えてゆく。

 零れ落ちる熱い涙は拭わなくても闇が隠してくれた。










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