25 帰還
地鳴りのような人々の歓声が、沿道の隅に佇むレインのもとまで波のように押し寄せて来た。
その歓声とともに隊列がゆっくり現れると、レインは目を凝らし見知った顔を必死に探した。
苛烈な戦いに身を置いていた騎士達からは、染みついた硝煙や血の匂いが微かに漂い、観衆の声など届いていないかのように皆が無表情だった。
彼らの瞳の奥には無念が滲み、時折無造作に向けられた視線からは否応なしに戦場での苦しみが伝わってきた。
第二部隊の若き騎士たちは少年から大人へと変貌し、体格もさらに逞しくなっていた。その雄々しい騎士たちの先頭にリアムの姿があった。
彼は出立の日のような禍々しい甲冑は身に着けておらず、見知った青の軍服を纏っている。だがその軍服はレインの記憶にある、夏の青空のような鮮やさは消え失せ、薄汚れ酷く綻びていた。
彼の短かった銀髪は一本に括られ背まで垂れ下がり、それは長く続いた戦争を意識させた。新緑色の双眸、薄い唇、高い鼻梁、その秀麗な容姿と赤い耳飾りは変わらない。しかし、騎馬隊の先頭で厳然と構えるリアムの姿に昔の柔和な面影を辿ることは出来なかった。
――苦労したからだろうか。
レインは瞼を伏せる。こんな彼を見る前に……、昔に戻りたかった。
レインの心情を他所に、帰還した英雄の姿を誰もが称賛し、その秀麗な容貌に目を瞠った。怖いもの知らずの女性たちが黄色い声を上げ、親衛隊のように彼の馬の後を追って歩いてゆく。リアムはその女性たちの姿にも無関心を極め、ただ目指す王宮を見据えていた。もはや雑踏の陰にいるレインのことなど、気づくはずもなかった。
(――おかえりなさい。無事でよかった)
けして振り向かないリアムの姿を目で追いながら、レインはずっと伝えたかった言葉を何度も唱えた。
「あっ!」
驚きの声を上げたのはレインではなく、隣にいたパトリシアだ。
「いたわ!」
そういうや否や、唐突にひしめき合う人込みの中に彼女は飛び込んでいった。
「……っ!――メイソン様!」
令嬢らしからぬ大声で婚約者の名をパトリシアは必死に呼ぶ。
手を振り上げる婚約者に気づいたメイソンは、一瞬目を瞠り、そして弱々しい笑みを返した。だがそれだけだった。彼は他の騎士達同様に、背筋を伸ばし無言のまま婚約者の前を通り過ぎていった。
長い間待ちわびた再会は拍子抜けし、一瞬で幕が降ろされた。
隊列が過ぎ去れば人の波も移動してゆく。その波にもまれながら、困惑を滲ませたパトリシアが振り返りレインを探していた。目があえば泣き出しそうな顔をして一目散で戻ってくる。
「メイソン様はそっけなかったわ。私のことなんて考えられないほど、疲弊してしまったのかしら……」
過ぎ去った隊列に瞳を揺らしていたパトリシアの背に手を添え、レインは彼女を労わった。パトリシアの側で仕えていたレインは、彼女がどれだけ婚約者の帰還を心待ちにしていたのか知っている。
「さあ、もうお戻りになられた方がよろしいのでは? きっと明日には明るいお顔でパトリシア様を訪ねてきてくれるはずです。その準備を致しましょう」
そう希望を胸に抱きレインはパトリシアに声をかけた。明るかったメイソンのあの態度も労しかった。戦争が彼の心を蝕んだと思うと、彼に負けないでほしいと願わずにはいられなかった。
「そうね。早く彼に会いたいわ」
メイソンとパトリシア。二人を遮る邪魔なものは無く、これから彼らは新しい時間を紡いでゆく。自分に手を差し伸べてくれた、大切な二人の将来が幸せであってほしい、とレインは切に願っている。
だが一方で、その願いを傍観し痛みを覚える別の心もあった。
あと少しで新年を迎える。
ちょうど三年前のこの時期に彼らが遠征に出たことを、昨日のことのように思い出す。
今年の王宮新年会は、叙勲式と終戦の祝いを兼ねた盛大なものになるらしい。
リアムは、迷宮と呼ばれている樹海を抜け、敵兵を攪乱させて勝利に導いた立役者だ。戦死された分隊長の替わりも既に受令し務めている。叙勲式で彼はきっと、英雄として出席することになるのだろう。
――英雄。
かつての友人は、すっかり遠い存在になってしまった。
彼との接点はなく、パトリシアのように、素直に帰還の喜びを伝えることもできない。身分の違いも、生活環境もそして心の距離も、全て遠い。
そう思うのも、今、目の前を通り過ぎて行った彼を見て、感じ得たものだけではなかった。
数日前にメイソンからパトリシア宛てに届いた手紙に書いてあった真実が、レインを一層リアムから引き離した。
『――リアム様は故郷のご令嬢との婚約が決まったらしいわ』
パトリシアが目を合わすことなくそう呟いた。
レインが聞き返せるような話題ではなかった。
レインはただ相槌を打ち、コトリと崩れ落ちた心の中の何かをそっと片付けた。
***
第二部隊の帰還から数日後、ちらちらと雪花が舞った。
凍てつく寒さにレインの弱い体はすぐに反応した。
「おはようございます。今日も頑張りますよ」
森の騎士の絵に声をかける習慣は、寂しいものになった。騎士たちの帰還も叶い、今は自分の為に祈る。
世情も同年代の友人たちも変化し好転しているなか、自分だけが停滞している。
熱っぽい体と早朝からの仕事、描いた絵の料金は次の画材代に消え、薬を買う余裕はなくなった。
劣等感と虚しさを抱え、どうにかなるように、とレインは切実に絵に祈りを込めた。
「はぁ」
情けない溜息が白い霧となって消えていく。
森は意地悪にも呼吸の音さえも拾い、ひとりであることを誇張した。
「もう、しっかりしろ! レイン」
自分の頬をぱちんと両手て叩き気合を入れる。
今日は午後からご令嬢たちの絵の続きを仕上げる予定だった。絵を描くことをおざなりにしてしまえば、自分に残るものは何も無い。
レインは風邪気味のだるい身体で、冷えた山道を下り進んだ。
今朝は珍しくモットが後をついてきた。
「モットさん、ありがとうね。ついて来てくれるの? 心配しなくても大丈夫よ。咳も出ないわ」
ひょこひょこと身体をゆすり、自分を慕ってついてくるアヒルが愛しくてたまらない。
「あ、そう、騎士様たちが帰って来たのよ。もしかしたら温泉に入りに来るかもしれないわよ。そうしたら楽しいわね」
またそういう日が来るかもしれないと淡い期待を込め、明るくふるまう。
「モットさん、ブーちゃんを頼んだわよ。今日は夕方には帰るから待っててね」
川に出る手前でモットは森に引き返していった。
***
その日の午後、ようやく画布に下絵を描き始めた。
レインの熱心な仕事ぶりに、令嬢たちのおしゃべりの声も小さくなる。
そんな静かな部屋に、バンッと突然大きな音が鳴り扉が開いた。真剣にポーズを取っていた三人は悲鳴を上げ、瞬時に音の方に振り返った。
「パティ、ただいまぁ!」
凱旋の時にみた、痛惜の念を滲ませた表情はすっかり消え、あの人懐っこい笑顔がそこにはあった。
今日か明日かと待ちわびた彼の訪問は、まるで大きな虹が空にかかったように皆を晴れやかな気持ちにさせた。メイソンらしい、予告なしの訪問が屋敷中を笑いの渦に包み込む。
しかし、誰よりも持ち詫びていたパトリシアは何故かツンとそっぽを向いたままだ。
「もう、こんな品のない方知らないわ!」
細面の可憐な顔が眉を寄せて怒った仕草は、何とも愛らしく愁いを帯びている。
驚いて乱れたまっすぐな黒髪をメイソンはそっと手で梳き、彼女の小さな耳にかけて微笑んだ。
「ごめんね」
そう素直に謝ればパトリシアも押し留めていた涙を溢れさせて微笑んだ。
「おかえりさない。メイソン様」
パトリシアは逞しくなったメイソンの腰にそっと腕を回して抱きついた。
その場にいた彼女の友人が二人を囃し立てると、パトリシアは我に返り、メイソンの胸元を突き飛ばして真っ赤になって冷やかす友達に反論した。
レインもまた懐かしい友人の帰還にそっと涙を拭った。




