21 手紙
川面から冷気をさらった風が王都の街を吹きすさぶ。
店の軒下には街路樹の枯れ葉が、風に運ばれ、ひと塊になって居座っていた。
昼時のこの時間、いつもなら他愛もないおしゃべりを楽しむ人々が街を賑わせていたが、最近ではその光景も見られなくなった。たまに耳にするお客の会話からは、具体的な戦況と生活の不安ばかりが聞こえてくる。戦地では、凍てつく大河が戦いを阻み、国境紛争は小康状態が続いているらしい。
真実を知る術のないレインにとっては噂が頼りだった。だが噂に翻弄されれば、気弱なレインはより気弱になった。
自分しかいない店の中をぐるりと見渡し、心寂しさに落ち込んでゆく。ふと見かけた人影は、窓ガラスに映る自分の姿だった。
閑散とした街に、カラカラと枯葉の音だけが響いている。
手持無沙汰に、寒さに身を竦めながら、レインは行き場を失くした枯葉を掃いて集めた。
ふと響く轍の音に、丸めた背を伸ばせば、紋章の付いた豪華な馬車がこちらに向かってくるのが見えた。馬車は店先で止まり、寒々しい街に舞い降りた白鳥のような美しい女性を降ろす。
黒髪を結い上げ、つばの広い紺色の帽子と卵色のシンプルなドレスを着こなした優雅な女性。肩にかかるフワフワとした白いケープをなびかせながら、女性はレインに向かって微笑んだ。
「ここがジャガイモパンのお店かしら? 今日は開いているの?」
意外な申し出に、レインは暗い思考ばかりの頭を切り替えた。
パン屋の店先なのだから、問いかけは当たり前の内容なのだが、貴族のご令嬢の来店は初めてだった。
「はい、こちらです。お求めでしたら、中へどうぞ」
さっと扉を開け彼女を店の中へと促すと、レインは息子夫婦のところへ出掛けたっきり帰ってこないアンナの代わりに会計机の前に立った。
女性は商品を見渡し、ジャガイモパンを物珍しそうに覗き込んでいる。レインもまた、彼女の様子を目で追いながら、来店の意図を考えていた。
戦争の影響は貴族社会の食卓までも厳しくさせているのかもしれない。だとしたら、小麦などを断たれるのは、街のパン屋の方が先なのでは……、などと考えを巡らせながらも、彼女に注文を取った。
「十個欲しいの。ここのパンがすごくおいしいと、メイソン様が言っていたのよ」
「えっ! 騎士のメイソン様ですか?」
知る名を聞き、思いがけず嬉しさに声を上ずらせると、彼女も「そうよ」と親し気に相槌を打った。続けて本来の気質なのか、彼女の気さくさが顔を出す。
驚いているレインに「実はね」と顔を寄せ、彼女は楽しそうに口を手で塞ぎ、こぼれ出る言葉を塞ぐような仕草でひとり肩を揺らし笑い出す。それでいて、笑いを押し殺すと今度は真顔で話し出した。
「メイソン様からあなたのことも聞いていたの。婚約者の身としてはちょっと気がかりだったのよ」
(この方が!)
レインは驚きと共に称賛の拍手をメイソンに贈った。
「はあ、びっくりです。メイソン様の婚約者様がこんなお綺麗な方だったなんて」
レインは感嘆のため息をつく。それをどうとったのか、彼女は「おや?」とした顔を向け口調も改めた。
「あなたは? メイソン様とどういうご関係なのでしょう?」
(ゴカンケイ?)
恋愛小説で聞きかじった言葉は自分に向けられているものか?と信じがたく彼女を見れば、冗談めかしつけているようでもなかった。『気がかりだった』と言っていた彼女の来店目的に、レインはいまさら冷や汗をかく。メイソンと自分の関係……。思い返してもゴカンケイと口にされることなど一切ない。
「パ、パン、パパン屋の売り子とお客様です。あと、……そ、そうです野良犬を一匹貰いました。それと、ジャガイモパンを……騎士団に配達できるように手筈を整えて頂きました」
ジロリと一瞥され、しどろもどろとなったレインに、今度はいたずらな視線が返され、レインは念押しする。
「い、以上の関係です!」
滑稽に弁明するレインがあまりにもおかしかったのか、耐えかねたように彼女はプっと吹き出した。
「ふふっ、ごめんなさいね。あなたを疑っちゃったわ」
本当になんてことを聞いてくるのか。自分に一生降りかからない火の粉を思いっきり振りかけられた気分だった。彼女の圧力から解放され、身体の強張りがゆるゆると流れ出す。
目が合えば、彼女はしてやったり、とでも言いたそうな悪戯な笑みを向けてくる。その笑みにレインは、はたと納得した。
(メイソン様にそっくりだわ)
初めてメイソンに出会った時、彼もまた爽やかな好青年に思えたが、蓋を開ければ、彼もこんな感じだった。彼女がメイソンの婚約者であることが腑に落ちた。
「あなたがレインさんでしょ? 私はパトリシアって言うの。よろしくね」
「名前もご存じでしたか! レ、レインです。こちらこそ、よろしくお願いいたします」
彼女はレインのことは把握済みで、始めから揶揄う気満々だった。既に友達のように親し気に接してくる。容姿に相反して気取らないメイソンの婚約者は、自らメイソンと婚約に至るいきさつまで、初対面のレインに面白おかしく話すのだった。
メイソンとは夜会で知り合い、意気投合し婚約を望まれたらしい。爵位の低さも我関せずと、メイソンから猛烈なアタックがあり、伯爵令嬢の彼女も彼女の家族も根負けし婚約に至ったらしい。
「メイソン様って軽いところもあるけれど、けっこうしっかり者で思いやりのある方なのよ」
パトリシアの贔屓目ではなく、レインにもそう思い当たるところがあり納得する。温泉の時もパンの配達も、そして今も。彼が采配を振らなければ成し得なかったことばかりなのだ。
話しが弾むなかで、パトリシアは「忘れないうちに」と、桃色のビーズで飾られた小ぶりなバックから、小さく折りたたまれた白い紙を手渡してきた。
「はい、これ」
レインがその紙を受け取ると、「開けてみて」と興味深げに催促される。
畳まれた紙の表は真っ白だ。
丁寧に紙を広げると、そこには伸びやかな力強い文字が並んでいた。
――レインへ
体調を気遣い、無理はしないこと。
一人住まいのことや、家の場所を他人に言わないように。
ブーとモットを躾て、不審者は十分警戒するように。
ずっと言い忘れていたが、栗のジャム美味しかった。
ありがとう。帰ったらまた様子を見に行くよ。
追伸
王都は戦場にはならない。
けど、もしもの時は、山を下りて教会へ逃げろ。
狙われるのは王宮だから間違っても近づくなよ。
リアム――
言葉の端々に騎士の務めと、知り合いとしての気づかいを感じる。どちらにしても、彼が自分のことを気に留めてくれたことがうれしかった。別れの言葉は伝えられなかったが、やっとリアムの声が聞けてレインはそれだけで安堵に満たされた。
初めて知る、彼らしい文字をそっと指でなぞり、レインは戦場の騎士の無事を祈り、その姿を思い出す。
出会いは突然で、再び会うこともない人だと思っていた。
その稀に見る美しい容姿がまた彼と自分は無縁なのだとも思わせた。
再会は季節の移ろいのようなめぐり逢いだった。
彼はあっという間に印象を覆した。
屈託なく笑い、身分をひけらかさず、誠実に接してくれる姿に好感が持てた。
内気でも彼といる時は緊張せず楽しかった。
だから、また彼と再会したいと思う。彼との縁を大切にしたいと思えた。
手紙を丁寧に折りたたんでいると、好奇心を隠しきれないパトリシアの視線を感じ、レインは顔を上げた。
「ありがとうございます。リアム様からのお気づかいの手紙でした」
「昨日、メイソン様から届いた手紙の中に、それが入っていたのよ。あなたに届けてほしいってね」
戦地で手紙が書ける余裕があるということは、戦況がまだ緩やかなことを示している。そんな状況を知ったからなのか、パトリシアはこの戦争を意外に楽観的に考えているようだった。
「彼らが帰ってくるのも、すぐよ。だから、こっちはこっちで出来ることを頑張りましょう」
その通りだった。
レインは手の中に納まっている小さな手紙をそっと机の上に置いた。
その手紙に過剰に気持ちを寄せないように、手紙にこもった自分の熱を放した。
いつの間にか、リアムの手紙に期待を寄せていた自分が、意気地なしで情けなく思えた。
受け取ったばかりだと言うのに、心の重荷を拭って欲しい言葉を――、「大丈夫だよ、安心しろ」という言葉を――、もっと書いて欲しかったと求めていたのだ。
レインは手紙と元気を貰ったお礼に、たくさんのジャガイモパンを袋に詰めて彼女に渡した。
「ありがとう。いただいていくわ。メイソン様お薦めのパンですもの」
パンの包みを受け取ると、パトリシアが会計机に置かれたリアムの手紙を、名残惜し気に見た。
物欲しげな貴族令嬢がおかしくて、レインは惜しみなく、手紙を差し出した。
「どうぞ。私はただのパン屋の店員ですよ」
パトリシアはぱっと瞳を輝かせ、遠慮もせずに手紙に食い入り、読み終えると難しい顔をした。彼女の知るリアムと、何か食い違いがあるのか。
「う~ん」と小さく唸り、唇に人差し指をあてるパトリシアに問われる。
「ねえ、あなたはリアム様の恋人なの?」
「へっ?」
そう問われるような内容ではなかったはずだ、とレインは手紙をもう一度一読する。もしくは自分がそんな態度をとっていたのだろうかと、たじろいだ。
「そんな、滅相もございません! ただの知り合いです。この手紙も注意事項のようなものですよ」
男性から女性への手紙だが、そう深く考えることなど無い。レインの必死の否定に、パトリシアはふふんっとおかしそうに鼻を鳴らせた。
「ふ~ん。そう、つまらないわ。あなたがリアム様の恋人だったら、そりゃあもう、このパン屋にご令嬢たちが押し寄せてきたことでしょうに」
そんなことを言われると、思わずある光景がレインの脳裏に浮かび上がる。
――宮廷でご令嬢の乗った豪華な馬車を先導する麗しいリアムの姿。そしてご令嬢の細く白い腕と扇で隠した口元。
そんなレインの横でパトリシアはすました猫のように小首を傾げてスンとしている。
「まあ、どこぞのご令嬢が来た時は私に言って。飛んでくるわ」
彼女はリアムに関していろいろ情報を持っている様だ。特に女性に対してのことのようだが。
この日から、パトリシアはレインのところに度々訪ねて来ては、おしゃべりを楽しむ仲になった。
――これはメイソンの策略。
婚約者のパトリシアが寂しくないように、そしてひとりで暮らすパン屋の娘を少しでも見守れるようにと、お人好しでやさしいメイソンが考え、作ってくれた縁なのだとレインは受け止めた。




