20 出兵
辺境地への侵攻が始まり、ジェノバから王宮騎士団へ、援軍の要請が届いた。
ジェノバは街全体が堀と城壁で囲われた城塞都市だが、城壁外の外れにある小さな集落が侵略され城壁突破もまじかだと噂が飛び交った。
このまま徐々に制圧されればどうなってしまうのか、と国民たちの不安は募る一方だった。
だからこそ王宮騎士団の精鋭部隊の派兵に期待が強まった。
王都の民衆の生活に目立った変化はないが、河川港の様子は一変していた。大河を往来する運搬船も軍隊の輸送や物資の供給に使われるようになり、商人たちの往来はほとんどなくなった。
しかし戦争の状況を耳にしながらも、レインの勤めるパン屋にはまだ騎士団からパンの注文があった。だからか、非常事態である実感がないまま、レインは今日も普段通り配達に向かった。
騎士団の詰所に近づくと何やらいつもより騒がしい。
顔なじみとなった守衛にパンを納めると、たずねる前に彼が教えてくれた。
「今、騎射試合をしているんだ。来週早々に出兵が決まったから、決起会のようなもんだな」
「――来週ですか!」
レインは思わず声を張り上げた。
守衛も今まで聞いたことのないレインの大声に目を瞬かせている。
「そうなんだ、だから配達も今日でお終いにしてもらいたいんだ。急で申し訳ないが、おかみさんにも集金に来るように伝えてほしい」
一昨日、リアムがそろそろだと言っていたが、こんなにも早いとは思わなかった。見舞いの御礼もまだしていない。
レインは、今までになく抗議でもしそうな不満な表情を見せた。
「そう心配することもない。すぐ帰って来るさ。その時はまた配達頼むよ」
パンの売り上げを気にしているとでも思ったか、守衛はレインに律義に対応する。
騎士の家族ではないレインには、それ以上の話をされるわけもなく、またレインもパン以外のことなど身分不相応で聞けなかった。
――お礼も、別れも、励ましもきっと伝えられない。
用事もないのに、面会などできるわけもなく諦めるより手立てが無かった。
騎士達の歓声に別れの言葉を返して篭を背負う。すると、くいっと篭を引かれ、守衛に手招きされた。
「パンを持って行くついでに、騎射試合を見せてあげるよ。一般の人はめったに見られないよ」
守衛は最後の配達とあって気前がよかった。
いつもなら、内気が発動して遠慮するのだが、今日は事情が違う。
レインは背負いの篭を両手で持つと守衛に促されるまま兵舎に入った。
少し埃っぽく硝煙の匂いが鼻につく。騎士団は入り口は狭かったが中は思った以上に広かった。中央の階段を上った先は、広々とした部屋に長机が並んでいた。ワインの瓶や大鍋なども置いてあり、それらは遠征の備品だという。
彼は一番奥の机にパンの箱をおくと、窓の外を指さした。
広大な訓練場に馬が何十頭も並び、騎士達が騎乗している。その反対側には声援を送る数百人はいるであろう騎士たちの姿があった。
「ほら、両端に並ぶあの的を馬に乗りながら射るんだ」
レインに説明する間も騎士が弓を構えたまま馬を走らせていく。
パーンと音がして弓を食らった板が落ちていく。その弓の威力を見ただけでレインは怖気づいた。
何枚かの板は、的が外れそのままの状態だ。弾かれた板や割れた板を整え終えると、次の挑戦者が馬を駆る。
「大体の騎士たちは、的中率は半々かな。でも……ほら! 次、リアムだ――」
守衛は見逃すなよと言わんばかりに、尻込み気味のレインの背中を押しだして、指を差す。
長い手足と銀髪は否が応でも目を引いた。その上、馬に跨り両手離しで弓を操る姿は勇ましくとても美しい。馬が地を蹴る音がレインの心臓にまで響いてきた。
リアムが背筋を伸ばし張り詰める弦を放つ。すると、まっすぐに矢がはしり、狙いを定めた板が割れて落ちていった。短い間隔で一枚、二枚、三枚と順調に落ち、観衆がどよめく。そして最後の五枚目まであっという間に射落としていった。
「どうだ、レイン、すごいだろ! リアムみたいにすごい弓の名手がこっちにはいるんだ。鉄砲より命中率は格段上だよ。戦いもあっという間に鎮圧して帰って来るさ。第二部隊は最強だからな」
強くて、美しくて、逞しい――。
素直な歓喜も確かにある。でもレインにはそれよりも恐怖が勝った。
(――あんなこと、やめてほしい)
何もできない自分が言うことではない。
彼が身を挺して守ってくれなければ、この国は隣国に攻め落とされ民衆は隣国の民と区別され賤民として生きなければならなくなる。
(――でも)
見舞いに来てくれた日、無事を祈った。その気持ちが今は張り裂んばかりに強くなる。
――戦場で射られるのは、板ではなく人間だ。
そう思うと、これ以上見ていられなかった。
レインの知らない場所で、猛進する時勢。騎士たちの熱狂する歓声を聞きながら、非現実的だったことが現実になるのを敗北感のような悔しさで受け止めた。
「……貴重なものを見せて頂きありがとうございました。あ、あの、皆さんのご武運をお祈りいたします」
レインは胸の内を隠し守衛に丁寧にお礼を言うと、足早に兵舎を立ち去った。
***
アンナが集金に行った次の日からはもう、騎士団の詰所や兵舎は立ち入り禁止となった。
近親者しか面会も禁じられ、リアムやメイソンたちと会う機会もなく出兵の日を迎えた。
まだ明けきれぬ薄青い空に、ポツンと白く細い月が忘れられたように浮かんでいる。
早朝にもかかわらず、沿道には多くの人々が戦地へ向かう騎士や民間兵たちを激励しに集まっていた。
レインはパンを窯から出すと、アンナと一緒に沿道に赴いた。
吸い込んだ空気が、冷たく肺にしみ渡る。
胸に押し留めた不安が溢れ出し、白いため息になって空へと消えてゆく。
騎士達が見えると、レインの足は震え出した。
まるで腰が抜けてしまったかのように立っていることさえぎこちなくなった。
人々をかき分けて前列へ出てゆく力も出ず、店の壁に寄りかかり何重にも重なる人の波の間から通り過ぎてゆく、精悍な騎士たちを見送った。
袖口や襟に白いラインの入った鮮やかな青い上着に黒いズボン、そして黒いブーツの騎士団を先頭に、徴収された兵士たちが隊列を組んでその後を行進してゆく。
普段から見覚えのある青い軍服にはサッシュや肩章がついてる。
だがそれは先頭に立つ一握りの者たちのみ。殆どの騎士は出陣に相応しく兜をかぶり胸当てをしている。放たれた弓や銃、剣先から身を護るために。
隊列に平行してレインは竦む足を動かした。
人垣の最後方で人の隙間を縫いながらそろそろと隊列について行く。しかし、銀髪と赤い耳飾りは兜で覆われ、見つけ出すことはできなかった。
貴族、平民問わず、若い女性たちは、ハンカチで涙をぬぐっていた。
どれも同じ甲冑に見えたが、胸当てにはそれぞれ紋章が刻まれていた。紋章を判別することで、見送る人の姿がわかるのだろう。
当然レインは彼らの紋章など知るはずもなかった。だから手を振ることも挨拶をかわすことも出来ないでいる。どんなにレインが彼らを慕い自分の中で大きな存在とあがめても、この熱量は一方通行なのだろう。
レインに出来ることは、遠ざかり小さくなってゆく隊列に手を合わせ無事を祈ることだけだった。それが彼らと自分の関係性を物語っているように思えた。
潤む瞳から涙が落ちないように空を見上げれば、東の空へ白い鳥の群れが月を掠め飛んで行くのが見えた。その群れに思いを託した。
戦争が早く終わり皆が無事に帰還できればいい。
その時自分はこの街にまだいるだろうか。
この戦争によって、アンナの店も閉めることを検討していた。アトリエの引き渡しもある。リアムが決意を抱き戦地に赴いたように、レインも新たな旅立ちの時を迎えていた。
隊列は雲の流れのように、レインの前を通りいつしか消えていった。
レインはアンナの元に戻りいつも通り店を手伝った。
午後から売るパンを棚に並べ、ローズと交代し店を跡にした。
「レイン、今日も寒いからね。しっかり食べて温かくして寝なよ。困ったときは何でも言うんだよ」
アンナの温かさが胸に染み、そして悲しくなった。




