18 絵の秘密
張出窓の端に置かれた、オイルランプが雨模様で薄暗くなった部屋に楽しい明かりを映している。赤、青、黄のガラスを三面にはめたそれは、レインのお手製だ。
その隣には、薔薇の模様が刻まれた対のグラスが丁寧に磨かれ、小さな輝きを放っていた。グラスの中にはそれぞれ野花が一輪ずつ活けられている。
「ここは静かだな。雨の音がよく聞こえる」
ハーブのお茶を一口のみ、少し眉根を寄せるリアムは、ハーブの独特の匂いが苦手らしい。だから、レインは蜂蜜を加えるのだが言いそびれてしまった。
「雨の音は落ち着きます。晴れの日よりも、私は雨の日の方が好きです」
熱があり身体が重い。でもまちがいなく浮かれている。決して話し上手ではないが、このまま一緒に話がしたいと願っている。
もう少し自分の心を開けばおしゃべりが続くのかもしれない。学校でも先生にそんなことを言われた覚えがある。
「雨の匂いも好きです。雨の中の散歩は生命力を感じます」
どうしてと問われれば、話してみたいことがある。
教会に捨てられていた赤ん坊は、雨に濡れて衰弱していたという。
親から見放された赤ん坊は、神のみぞ知る運命に従うよりほかなかった。神父たちに救済の気持ちはあっても、施し養うための資金が教会にはなかったからだ。生きる力のある赤ん坊には手を差し伸べられるが、そうでないものはそれなりに手をつくされ看取られた。
だが、レインの運命は幸運だった。
フローラに体を拭われ温められ、視察に丁度訪れていたシャルルによって医者に診てもらうことが出来た。手厚い治療を受け、二人から愛情を注がれた。
でもこの話はリアムにはできない。誰にも話すことはない。
二人で外の雨に視線を移す。「生命力か」とリアムは感慨深く呟いた。
何か思い描くことがあるのか、と小首を傾げるレインにリアムは心得顔で見つめ返してくる。
「雨の加護を受けてるってことかな。名前もレインだしな」
――雨の加護。
リアムが何気に言った言葉は、父が教えてくれた言葉だ。
それは、自分の名前に込められた父の思い。
三人を結び付けた雨の日。天から雨と共に舞い降りた赤ん坊。
リアムにとっては深い意味はなかったにせよ、それでも彼に言い当てられたことに特別を感じ嬉しくなった。
「俺は晴れの方が好きだけどね。鍛錬できるし」
鍛錬のこと、家族のこと、故郷のこと、話してくれるのであればもっと聞きたい。話してほしい。
なのに言葉の代わりに出たのはコンコンと喉を引きつらせる咳だった。
「ほら、もっとお飲み」
半分残っていたカップにリアムが再びたっぷりとお茶を注いでくれた。
静かになった部屋にはレインの肺の鳴る音が響く。
虚弱な体質を隠しきれないその音がレインには鬱陶しかった。
リアムはお茶を飲み干すと思い立ったように、袖口をクルクルとまくり上げ腰を上げた。
不意に彼に向けた視線に大きな傷跡が映り、驚きに目が離せなくなった。
年齢も変わりなく、明るく頼もしい彼の本当を知ったようで怖くなった。
どうしたのかと、問う前にそのはだけた腕はレインの背中をゆっくりと摩り出した。
母よりも背に当たる感触は広く熱い。力強さがとても、心地よかった。でも同時に見えてしまった傷跡に心が痛んだ。
「ありがとうございます。胸が痛かったので楽になります」
サッサッと大きく上下に手が背を撫でる。
普段は剣を握る分厚い手だ。傷跡はその証なのかもしれない。
「――その、腕の傷は?」
摩る手が止まり、肩越しからグイっと腕が伸びてくる。
「美し……くはないか」
レインをまた揶揄ったようだが、どうしたって笑って言い返すことも出来ず、首を横に振った。
「しくじった時に出来た。こんな傷ばっかりだよ」
肩には矢が刺さった痕もあると言う。
――リアム様の世界は、決してありふれたものではない。
森に引きこもっていたレインには見えていないもの、見過ごしているものが多い。
身体が強張るのは、痛々しい傷跡に怯んだから、そして戦って命を落としている人々がいることを実感したことが無かったから。
考え込んでいると、摩っていた手にトントンと肩を叩かれ振り返った。
近づいたリアムの顔は、強張ったレインを宥めるように穏やかだった。
だがその声色には深刻さを含ませていた。
「そろそろ招集がかかる。今度戦地に行ったときはしくじらないようにするさ」
戦争が激化してくる。シャルルの死が火種になったと街の噂を耳にした。
もしもジェノバに侵略されれば王都も戦場になりかねない。
既に隣国との貿易も滞り、国境付近の穀物畑は潰され人々を苦境に陥れている。
不戦の手立てがないのはシャルルの存在が大きかったからなのだと、商店の人が話していた。この国にシャルルに続くような外交に長けた存在が居ないのだと。
悔しくそして悲しい。両親の死を好き勝手に吹聴され、その上また戦場に大切な友人を送り出さなければならない。
戦争をただ否定するレインとは反対に、リアムの蒼いの瞳には闘志が滲みだしている。
腕の傷、矢傷、リアムには背負った過去がある。彼の矜持や信念、残酷さに寄り添うことのできない自分に不甲斐なさを覚えつつも、もし、彼の本質に少しでも触れることが出来たなら、理解し尊重すべきだとも思えた。
「王都にまで敵を侵攻させない。俺たちが護る。だが、治安は悪くなるから気を引き締めて過ごせよ。ひとりなんだから」
(――ひとりだ)
心もとない。だからと言って誰に縋ることもできない。
レインは気概を見せつけるように、リアムを見つめかえした。
彼の強く輝く双方の奥には、あの日視えたものが浮かんでいた。
隠し持っている心の中の本質が。
「あ、あの少し待っていていただけますか?」
レインは大雑把に椅子の背をずらし立ち上がると、部屋の奥へと急いだ。
そうして戻って来るや否や、脇に抱えた画布をリアムの足元に裏返しにして置くのだった。
「あの、これを」
見せるのに躊躇いがあった。ずっと秘密にしていた絵だ。何て言われるかもわからない。
そっと表に返してその絵をリアムに見せた。
鮮やかな彩りの画布。
いくつもの陰影と色合いを持つ緑を背景に、弓を構え馬にまたがる騎士の姿があった。その精悍な騎士は重厚な甲冑の上に黒いマントをなびかせている。
「これは?」
「これは、森で出会った時のリアム様です」
リアムは、息を詰め絵に視線を預けた。
「――これを……レインが描いたのか?」
写実的で繊細なその見事な絵を、レインが描いた物なのだと信じられないようだ。
リアムは床に置かれた画布を膝の上に持ち上げ、まじまじとその絵に魅入っている。そして中央に描かれた人物に目を凝らすのだった。
「これは俺なのか? 俺はあの時こんな甲冑も着けていなかったし、馬も葦毛じゃないぞ」
レインはこれから明かす自分のことに緊張しながら首肯した。
「絵を描くとき、なんとなく伝わってくるというか……視えてくるんです。描く対象の想いとか、願望とか執着とかが」
当然、リアムは懐疑的な顔をした。レインが突然、嘘つき占い師のような話を持ち出したからだ。
「――――う~ん……レインは心が読めるくらい感受性が強いって言いたいのか?」
「いいえ、ちょっと違います。リアム様を描いていた時、私にはこんな風に視えてきたんです。リアム様の姿が」
「俺がこんな甲冑を着た騎士に視えたってことか?」
「たぶん……この姿はリアム様の心の内にある何かです」
それを聞くとまたリアムは怪訝そうな顔をし渇いた笑いを漏らす。
「ははっ、なるほどね……」
(信じてもらえなくてもいいわ。この絵を覚えていてもらえれば)
話半分だが絵は気に入ってくれたようだ。
リアムはキャンバスに描かれた自身の姿を眺めてしきりに頷いている。
「あの……要するに私が視えたのは――リアム様の志です。リアム様はきっと、この絵のように英雄になるはずです。そう志している人はしくじったりしません。この戦争で辺境地を守り、これからも国のために武勲を立てて立派な騎士様になられると思います。あの……だから……この絵のような将来を目指してリアム様はこれから猛進するはずです。……とお伝えしたかっただけです」
未来予想図ではないが、彼の強い願望がある限り彼はこの絵に近づく将来を歩むだろう。
そう伝えたが、リアムは黙ったままだった。
意を決して話したレインの勇気はあっという間にしぼんでいった。
「あ、あの恥ずかしいからもういいです」
自信もなくなりに焦りながら絵を返してもらい、壁に立てかけた。
するとリアムは慌てて絵を取り戻そうとする。
「おっ、おい。俺の絵を雑に扱っちゃダメだろ」
「お返事がないから、気に入らなかったのかと思って……」
「感動してたんだ。こんなスゴイ絵を描いてもらったことなど無いしなぁ」
「私のお伝えしたいことも、リアム様に伝わりましたか?」
「――レインは不思議な娘ってことと、俺が闘志を燃やして頑張れば、英雄になれるってことだろ?」
「…………」
どうか無事に帰ってきてほしい――その思いを伝えるには二人の絆はまだまだ浅く伝えられない。
だから今は、彼に心からの励ましを送れるだけでいい。
「――戦争から無事にお戻りになられた時に、この絵を差し上げたいと思っています」
「そうだな。戻ったらもらいに来るよ」
リアムは壁に立てかけた絵を覗き見て、満足そうにそう答えてくれた。
レインも今一度リアムと共に絵を眺め、そしてその絵に無事の祈りを込めた。




