13 美しい
季節の移ろいと共に表情を変化させるこの森すべてがレインの遊び場だった。
山を駆け、木に登り、小川に入り、そして温泉を見つけた。
裸足で水を蹴って遊んでいると、煌めく水面に模様が浮かんでいる場所があった。近づけば、だんだんと水が温くなっていく。
しゃがんで覗き込むと砂が揺れモワン、モワンと波紋を作っていた。
家に帰り母にそのことを話すと、彼女は仕事を放りだし、レインを連れて森を走った。
スカートを捲り上げじゃぶじゃぶと小川に入り、温かな湧水の場所を足で探りながら歩く。
最終的に小さな泉に辿り着くと、また歓喜の声をあげたのだった。
「レイン! ここも温かいわ! 温泉よ、温泉の池!」
王都では温泉が珍しい。
この温泉に湯舟を作れば、毎晩苦労して湯を沸かさなくて済む。
父を驚かせようと母にシャベルを渡され二人で必死に湧き出る場所を掘った。
最初は面白く意気込んだものの、体力と腕力のない婦女子では、足をつけられる場所が出来ただけだった。
父に浴場のことを打ち明けると、いつもは楚々たる彼が、長い髪を高く括り上げて意気揚々と自ら掘削に出掛けたのには驚かされた。
仕事の合間を見て掘削をし、美しい女性のような手に豆を作って帰ってくる。
設計図を自ら描き上げ、遠方から作業人を呼び、一緒に立派な浴場を作り上げたのだった。
今思えば、彼は全て用意周到だった。情報が洩れぬように遠方から呼び寄せた作業人もわずか数名だけだった。それも彼の領地の人だったのではないだろうか。
***
冬の速い夕暮れ。
夜を待ち、冷気を孕んだ森に白い湯気が立ち昇っている。
レインは温泉から少し離れた沢で仔犬を洗いながら、騎士達があげる歓喜の声にほくそ笑んでいた。毎日通う浴場も今日は娯楽場になったかのようだ。
僅かな夕日の名残りが充実した時をぼんやりと浮かび上がらせている。
「さぁ、ブーちゃんもお風呂よ」
薄汚れた仔犬の体を石鹸でごしごし洗うと、仔犬は体をくねらせ嫌がった。レインは負けじと仔犬を抑え込んだが、ヌルヌルの身体はレインの手からするりと容易に抜け出した。
「あ、まって!」
仔犬の首に付けていた長い紐がレインを揶揄うようにくねくねと地面を這う。
まだ小さく軽い仔犬は紐を引っ張れば訳なく引き戻すことが出来たが、それでもバタバタと暴れ手ごわかった。
「こら、捕まえたぞ。おとなしくして」
仔犬を押さえ、レインは勢いづいたまま草むらから立ち上がった。
「お~い、レイン!」
「まあ!」
レインは驚きに声を上げ、同時に動きをピタッと止めた。
突如現れた目の前の光景に、犬を洗っていたことも忘れレインは目を瞠った。
茂みから姿を現したレインにメイソンが手を振っている。
呆然とするレインを笑い、騎士たちは面白がってわざと裸体をさらけ出す。
「驚いて動けなくなっちゃってる?」
メイソンの揶揄いにレインは飛んでいた意識を取り戻し、詰まった息を吐き出した。
――驚いている。
でもそれは年頃の乙女が抱く男性に対する羞恥……、ではなく、絵画の素材としての肉体美を目の当たりにしたからだ。
(み、見えたわ……いいえ、見せてくれているのかしら)
好奇心が大胆な下心を正当化させる。
水も滴る艶やかな裸体に目が離せなくなる。
(ネッリ画伯の『天井人』の裸体とそっくり……)
「本物だわ……」
瞼がぱっちりと上がり、恍惚となる彼女に騎士たちの疑念を含んだ視線が集まった。
メイソンが岩陰から体を起こし、上半身を露わにすると、レインもつられ首を伸ばした。薄暗い中でも男性特有の身体の隆起がしっかりと見えた。
「………………………………美しいです」
「――何?」
メイソンは耳に手を当てて問い返す。その仕草もレインにとっては優美な彫刻のポーズに見えた。
レインが男性の身体をよく知っていればきっと、今まで描いてきた男性たちをもっと繊細にそして具体的に描けたことだろう。レインの知る男性の裸は、神々の裸体像や絵画の中だけだ。それを模写して男性の体の描き方を覚えた。
願わくはもっと白昼の下で逞しく美しい身体を観察したい、と思うのだったが、それでもこの刺激はレインにとって、強すぎるほどだった。
レインの指がおもむろに、空のキャンバスにメイソンの身体の輪郭を描き出した。画板と木炭があればよかったのに――、そう思うと勝手に手が動き出すのだった。
その不可思議な仕草に騎士たちは首を傾げ、身を乗り出した。
「おーい、どうした?」
レインは騎士達に微笑んだ。
「――見せて頂きありがとうございます。……私……、男性の裸を見たのは初めてです。これで、男性の絵も上手く描けると思ういます。もっと明るいところで見れればよかったのに……」
顔を赤らめ告げられた明け透けな言葉に、ジョシュアは乗り出していた身を湯に隠し、もじもじと背中を向けた。
「あはは、いや~美しいなんて。……やっぱり芸術家の表現は違うなぁ」
芸術肌のロッドだけは柔軟に理解を見せた。
そのムキムキの筋肉質な体でポーズをとっておどけて見せるのだった。
(もっとたくさんのオイルランプを持って来ればよかったわ)
メイソンの腰の為に訪れたことなど、レインはすっかり忘れていた。
佇むレインの傍らで、ブーがキャンキャンと吠え始めた。
「ここにいたのか。声が筒抜けですぐわかった」
脱衣所と反対側の木立を踏み入って現れたのは、リアムだった。
彼は軍服ではなく毛織のシャツと細身のズボンの上にコートを羽織っていた。畏まった軍服とは違いその脱力感が麗しい彼をいつもより艶やかに見せていた。
リアムは温泉の淵にかがみ、湯に手を入れながら三人と会話を始めた。
先程から佇んでいるレインの元まで声は聞こえてこない。
メイソンに相槌を打つ彼は、立ち上がり木陰の方へと戻っていった。
騎士たちが揃ったところで、レインも自分の持ち場を離れていたことに気づかされた。
「さて、ブーちゃんも戻ろっか」
いつまでも呆けてみていたレインの手を、仔犬はしきりにガジガジと甘噛みする。
「痛いことすると、もう一度ゴシゴシするぞ」
抱えていた仔犬を降ろし、紐を持ち直すと、メイソンに手を振り「帰ります」と合図を送った。するとなにやらメイソンが手の平を向けて視線を投げかけてくる。
(どうしたのかしら?)
意味を知ろうと、身を乗り出したレインにメイソンの満面の笑みが返って来た。とたん、光の玉を受けたかのような衝撃にレインは目をしばたたかせた。
「これは……本物の本物だわ……」
薄闇の中、一瞬だがレインの目の前を横切って行ったのは、名画のような腰布さえもまとわぬリアムの裸体だった。
想像を超えたその鮮烈さに、爪先から髪の毛の先までレインの身体に、ぞわわ~と肌を這う刺激が抜けていった。
つやつやした肌、広い肩幅、筋肉質で大きな背中、すらりとした足と高い位置にあるお尻。女性とはまったく違うしなやかさがあった。そして……。
(足と足の間に…………)
思い出し、息を飲み込む。そしてそれ以上は罪に問われそうで、レインは思考回路を閉じた。
力の抜けた身体を木立に預け、レインは両手で口を覆った。




