花束をきみに
世話焼きな陽季につい甘えてしまう洸祈が珍しく頑張ります。ただただ癒やされていただければ幸いです。
クリスマス公演が終わり、今年の舞台納めとなった今日、陽季は洸祈に呼び出されていた。
場所は東京駅。
人混みが苦手な洸祈が大都市の主要な駅に呼び出すとは大事である。陽季は焦りを胸に足早に待ち合わせ場所へと向かった。
午後6時。
方向音痴呼ばわりはいただけないが、改札前という分かり易い場所を洸祈は設定してくれた。
そして、改札を出てすぐに洸祈は見付かった。
改札前の柱に凭れて目を閉じる洸祈。
黒色の毛糸の帽子を被り、黒色のマフラー、黒色のロングコート、黒色のスラックスに茶色の革靴という姿。
パーカーにジーンズ姿でないのは新鮮だ。
あれは多分、千里君のコーディネートだろう。
服装に関心のない洸祈が千里君の指導を受けるということは、それなりに気合が入っているということで良いのだろうか?
しかし、仕事終わりでいつも通りのラフな格好の俺はちょっとだけ気まずかったりする。洸祈に合わせて紳士っぽくキメて来れば良かった。
穴が開くほど観察したところで、俺は洸祈の肩に触れた。
「……はる?」
パチパチと瞼を上下し、洸祈はチカチカする明りに目を細める。どうやら、本気で眠っていたらしい。
「お待たせ」
「う…………待ってない……」
ごしごしと目を擦った洸祈がふるふると頭を振った。
「眠たそうだね。何処かで休む?」
「ううん。それより……」
ぐいっと襟首を掴まれて引き寄せられる。
改札前で多くの人が行き来する中、俺と洸祈の顔が近付く。
クリスマスの余韻に浸って浮き足立っている26日とは言え、公衆の面前でキスしちゃうの?なんて思っていると、洸祈は一言だけ口にした。
「これ寄こせ」
と、俺の上着を強く引っ張る。
「え?」
「ちぃが格好良い服選んでくれたけど、やっぱり寒い。風邪引く。今年も俺の看病したい?」
「看病するのは構わないけど……」
風邪を引き慣れているとは言え、苦しむことに変わりないから風邪は引いて欲しくない。
内側にもこもことした羊の毛に似たボア付きのジャンパーを脱ぎ、洸祈のロングコートと交換する。序に手袋も貸してあげた。
「ほかほか」
あったかそうで何よりだ。
オシャレさんモードの洸祈は既に脳裏に焼き付けているし、彼シャツならぬ彼ジャンパーも良い。
「あ、陽季の匂いする。全ての病に効くな」
まぁ、もれなく洸祈に匂いを嗅がれたが。
「それで?何処か行きたい場所があるんだよね?」
店でも俺の借家でもなく、東京駅。
洸祈には行きたい場所があるに違いなかった。
「そう。あっち」
指で示すと、洸祈はスタスタと歩き出す。
俺は洸祈の背中を見ながら、彼を追った。
洸祈は途中のコンビニで温かいコーヒーを買うと、それを俺の手に収めた。洸祈の腕には肉まん入りの袋が下がる。
今日は買い食いの気分。と言っていた。
ほどなくして、俺は洸祈の目的地が何となく分かった気がした。
「わぁ!綺麗だ!」
「ホントだ」
短い言葉だったが、横目に見た彼の瞳は大きく見開き、瞬く光をキラキラと反射させていた。
並木道を彩るイルミネーション。
それが洸祈の目的地。
「どうしたの?」
洸祈が熱心に光の粒を目で追っていたから、俺も今はこの景色を楽しもうと、遠くに目を向けていた。しかし、何だかむず痒い気配がして振り向けば、洸祈が俺をじっと見ていたのだ。
洸祈は俺と目が合うと「…………別に」とそっぽを向く。
とは言え、洸祈との恋人歴の長い俺は、彼のその行為が『ただ好きな人を見たかっただけ』なのだと知っているのだが。俺も先に洸祈のことを盗み見てたし。
だから、今度は俺が遠慮せずに洸祈の横顔を見詰めていると――
「…………何?」
気まずそうに眉間を寄せてくる洸祈。
「お前が好きだから見てた」
素直に伝えると、洸祈は目を開いて、眼球を彷徨かせ、マフラーを鼻先まで上げて、俯いた。
「もっと見てても良い?」
「…………ん。代わりに俺も見るから」
「好きなだけ俺を見て触って」
「…………陽季も俺を撫でても良いよ」
ツンデレ洸祈の許可は洸祈からのお願いと同義だ。
撫でても良い、ではなく、撫でて欲しい、ということ。
俺は洸祈の帽子を直すふりをしながらツンと冷えた彼の頭を撫でる。
ふふん。
上機嫌な鼻音が聞こえた気がした。
「あ、そうだった」
二人で公園のベンチに座って肉まんを食べていると、洸祈が肉まんに齧り付く動作をストップさせた。
鼻頭の赤い彼が口の中に残る肉まんを咀嚼しながら俺を見詰める。
「どうかした?コーヒー?」
「持ってて」
首を振った洸祈は食べ掛けの肉まんを俺に押し付けた。
そして、俺の着るコートのポケットを探る。
擽ったい。
片手はコーヒー、片手は肉まんを持っているのだから、容赦して欲しい。洸祈の頭に両手のものを落としかねない。
「忘れないうちにクリスマスプレゼント」
小さな白色の箱。
金色で筆記体が書かれ、リボンが付いている。
「………………俺、用意してない」
誕生日プレゼントのことばかり考えてた。洸祈は雑多な趣味をしているから、毎年、苦戦する。とは言っても、洸祈は何をあげても全力で喜んでくれるが。
だから白状すると、連日テレビから流れてくるクリスマスというフレーズに関して、俺は仕事のことしか思い浮かんでなかったのだ。そして、用心屋クリスマスパーティーの都合が合わなかったのが最大の要因だ。
「この前、スノードーム貰った」
「あれは北海道公演のお土産」
「北海道行くけど、何が欲しい?」と聞いたら、「北海道?でっかいどう?あー……熊の木彫り?」と返してきたから、流石に四個目となる熊の木彫りは要らないだろうと、オルゴール付きのスノードームと鮭とばを大量買いしてあげたのだ。
「え?俺、言ったじゃん。熊の木彫り欲しいって」
「…………熊の木彫りって一個で十分じゃない?」
「可愛いんだから、何個あってもいいだろ?ちびっ子の琉雨を乗せると、熊も天の御遣いになる。いつか騎馬隊ならぬ騎熊隊作るんだ。戦乙女『琉雨』みたいな」
琉雨ちゃんはお前の玩具じゃないぞ。
――とは、用意出来たのに熊の木彫りを買って来なかった俺には言い難い。今度はどんなに疑問に思っても、欲しいって言われたものは素直に探して来よう。騎熊隊にするにはまだまだ数がいるし。あと二三個ぐらいなら大丈夫だろう。
「なんだ、熊貰えないんだ」
「ごめん」
「………………いや、怒ってないから。通販で用意しようとかは考えなくていいからな?こういうのはコツコツ集めるのに意味があるんだから。それに、スノードームも本当に嬉しかったんだ。暗いところで使うと実際に光って札幌の夜景になるの凄かったし、お星さまも動いてたし、何よりも綺麗だった。オルゴールの曲も優しくて好きだし」
洸祈が早口で多くを訴えて来る。
「だから、いや、その、あ…………緑茶のお供に鮭とばだし、美味しかったって話で……」
肉まんを奪ってプレゼントを手のひらに押し付ける洸祈。肉まんを乱暴に食べながら、何やらごにょごにょと喋っている。
俺は飲み物をベンチに置いて、プレゼントを開けた。
「これは…………」
小さなカプセルが付いたペンダントだ。
カプセルは透明で、中に白いものが入っていた。ふわふわした毛玉みたいなものに見える。
「二之宮にお願いして作ってもらったんだ」
「へぇ……」
俺へのプレゼントを二之宮に作ってもらったんだ?
カプセルを囲む金色の細工もとても精巧な作りをしているから、器用な二之宮の仕事だとは言えるが。まぁ、桜の木を模した鳥かご風のデザインとかは洸祈だろうし、そもそも、俺のことを想って用意してくれたのだ。恋敵である二之宮の協力があったからと言って、直ぐに不機嫌になるのは心が狭すぎる。
「中に入ってるのは琉雨の抜け毛?かな」
「は?」
もやもやしていたら、唐突に爆弾を突っ込まれた。
琉雨ちゃんの抜け毛ってどういうことだ。
白色のふわふわだぞ。
伊予柑の抜け毛じゃなくてか?
いや、伊予柑の抜け毛だとしても、抜け毛のペンダントって部分から意味不明だ。
「何?その反応」
何故、洸祈はぶすっと不貞腐れるのだ。
だって、抜け毛だよ?女の子の抜け毛。全然色が違うが、これが琉雨ちゃんの髪の毛だとして、それを恋人に渡す意味が分からない。洸祈の髪の毛なら兎も角。
言い間違えておらず、琉雨ちゃんの抜け毛なのだとしたら、普通は洸祈が持っているものじゃないの?
疑問だらけだが、先ずは――
「抜け毛って……何?髪の毛?」
中身の再確認だ。
酷い聞き間違いの可能性があるからね。
正直、体毛には見えないし。
「琉雨の髪はべっ甲飴に似た艷やかな甘栗色だろ」
やっぱり、怒ってるし。
「でも、抜け毛って言われたら、髪の毛ぐらいしか思い付かないだろ?」
違うのは百も承知だよ。だから、聞いているのだ。そんなに怒らないで欲しい。
「抜け毛だろ?護鳥の羽根なんだから」
「羽根?」
羽根と言われれば、ふわふわしているのは納得できる。
「時々、光ってる羽が背中に付いてるのを見たことがあるな」
「琉雨は鳥の魔獣だからな。本来の姿は鳥だ」
「天使の羽じゃなくて、鳥の羽だったんだ?」
「いや、琉雨は天使だ」
琉雨ちゃんが絡むと、途端に会話をするのが難しくなるな。
もう、天使でいいや。琉雨ちゃんが可愛いことには変わらないのだから。
「俺の見た羽は青っぽく光ってたけど、抜けると白色になるんだね」
「この羽根はとっても貴重なんだぞ。護鳥の一生で数回あるかないかの生え変わりで抜けた羽根なんだ」
「一生で数回って…………貴重だ」
「そもそも、護鳥の羽根には強力な魔除けの力があって、闇市場で高く売れるから、よく密猟者に狙われる。琉雨みたいに契約主のいる護鳥は守る術があるから滅多に狙われないけど、契約主のいない護鳥はターゲットになる。だから、護鳥は森の奥で隠れて暮らしているんだ」
何だか、深い話になった。
俺は魔法使いじゃないから、魔法関係の話に疎いが、密猟というのが、動物の世界だけでなく、魔獣の世界にもあるのだとは初耳だった。琉雨ちゃんが珍しい魔獣だというのは何処かで聞いた記憶があるが、密猟される種だとは。琉雨ちゃんと一緒にいる時は周りに不審者がいないか特に気を付けないと。
「羽根は護鳥の命なんだ。羽根を手に入れようってなると、護鳥の命を奪うことになる」
「え…………じゃあ、この羽根は?」
琉雨ちゃんの命?…………そんなこと、洸祈が許すわけないか。
「言ったろ?これは生え変わりで抜けた羽根だって」
洸祈がペンダントを街灯の明かりに晒すと、中の羽根が虹色に光った気がした。目の錯覚だろうか?
「自然と抜けた羽根だから護鳥の命とは関係ない。ただ、魔除けの効果は薄れるけど。それでも、ないってわけじゃないんだ。契約主のいない護鳥が多く暮らしているスウェーデンでは、森の中で護鳥の羽根を見付けた時は、お守りとして大切に保管する習慣がある。だから、これもお守りにして欲しいなって」
「俺に?いいの?」
貴重な羽根。それも、魔除けの力のある羽根。
俺に渡していいものなのだろうか。
「いいんだよ。琉雨もそれがいいって。俺のことは琉雨が守ってくれるし。だから、これは陽季にもらって欲しい」
ペンダントの留め具を外し、俺の首に腕を回して付ける。
まぁ、右も左もイルミネーションを見詰めるカップルだらけで、彼らの雰囲気に当てられた俺は、遠くの通行人がチラチラと俺達を見ても気にならなかった。
「ありがとう。嬉しいよ」
心の底から嬉しい。
俺のところへ届くまでに沢山の想いが詰め込まれたこれをもらえることこが、俺はとても嬉しい。
「どういたしまして」
肉まんを食べる洸祈の頬は赤い。俺は洸祈が食べ終わるのを待ってから冷えた手に温くなったコーヒーを握らせた。
「洸祈」
「……うん?」
ベンチを立って、洸祈の前へ。
「洸祈にお返ししたい。何かして欲しいことはない?」
「え?うーん…………一緒にイルミネーション見て、一緒に肉まん食べたからなぁ」
洸祈は小さく笑うと、俺の頭をよしよしと撫でる。
「あはは。はるはいつも直ぐに返そうとするな。でも、俺はもう貰ってるんだって。こうやって傍にいてくれる。これって、最高のプレゼントなんだよ」
何だか、洸祈が余裕振ってる。俺の焦る様を愉しんでいるようだ。少しだけイラッとした。
「もし、どうしてもって言うなら……」
ズズズとコーヒーを啜る洸祈。カップを口に付けたまま、目線だけを俺に向けてくる。
「肩凝ってきたからあとでマッサージして?」
「肩揉んでほしいの?」
「うん。陽季の肩も揉んであげる」
洸祈から返してもらったら、プレゼントじゃない。
だが、マッサージなら俺にもできそうだ。プレゼント感はないが。
「あ、あそこ。あそこのカレーパン有名なんだ。夜食に買おう。あとさ、あっちの角に美味しいマドレーヌのお店があって、おやつに買おう。あ、この道を真っ直ぐ行ったところに、色んな味のたこ焼きのお店があるんだ。間食に買おう」
「いっぱいお店を知ってるんだね?」
「折角の東京駅デートだから、呉にリストにしてもらったんだ。20軒分。ほら、マップ」
再び、洸祈が俺の着るコートのポケットを探ると、折り畳んだ紙を取り出した。
東京駅とその周辺の地図にはカラフルな点が散らばっていた。スイーツやパン屋など、色でジャンル分けされているようだ。
「ここが今いる場所」
洸祈が指差した場所の傍には多くの点があった。これらの店を洸祈は覚えてきたようだ。俺達のデートのためにこうやって努力してくれたことも含めて無性に愛おしくなる。
特に目的もなく俺の家に集合した時は、洸祈は俺にお世話されながらダラダラと過ごすことが多いが、時折、こうして張り切ってくれると、自分は洸祈に愛されてるなぁと感じるのだ。
「あと、ここがホテルの場所」
一際大きいピンク色の点を指してはにかむ洸祈。呉君はこれをどういう思いで作ったのかな…………は、さておき、洸祈に照れられると、俺も照れるから。
「よし、カレーパンとマドレーヌとたこ焼きを買って、部屋で温まろう」
「ん。イルミネーションの次は夜景だな」
一気にコーヒーを飲み干し、ゴミ箱に投げ入れると、洸祈は俺に手を差し伸べた。イルミネーションが輝いている分、相対的に公園のベンチ側は暗いが、思わず伸ばした俺の手を洸祈はしっかりと握った。
手袋越しでも温もりが伝わってくる。
そして、マフラーの隙間から白い吐息を零した洸祈は「夜は長いぞ!」と拳を上げながら、俺の手を引っ張った。
カレーパンとたこ焼きを食べ、俺達は一緒にシャワーを浴びた。
狭い浴室で互いに向き合いながら洸祈の髪を洗ってあげると、彼は猫のように目を細めて唸り、暇そうに俺の胸板をつついていた。
勿論、クリスマス公演中とその前の稽古期間の会えなかった分だけ、洸祈と戯れ合った。若さゆえに食欲旺盛な洸祈の誘惑に乗って、カッコイイを投げ出して可愛くなった彼を堪能した次第だ。
「はぁ……はぁ………………っ…………はる…………狭い…………」
冷えないよう流したままのシャワーの泡沫に目を瞬かせた洸祈は俺の胸にぎゅうぎゅうと顔を押し付ける。
「そろそろ出る?」
「……………………う………………眠い……」
おっと。
洸祈がお疲れお休みモードになりかけている。
このままではバスタブで熟睡だ。そうすると、洸祈は顔を赤くしながら年末年始をベッドで過ごすことになる。
「洸祈、あと少しだけ起きてて」
シャワーを止め、バスタオルを巻く。が、自ら動く気配はない。立ってはいるが、目を閉じてしまっている。
これは俺がお世話するしかないようだ。
プレゼントのお返しも出来ていないし、取り敢えずは、洸祈の世話を焼こう。明日は一日お休みだし、ゆっくり起きてから肩を揉んであげよう。
洸祈の体を拭き、バスローブを着せ、髪にドライヤーを当て、ダブルベッドまで運び、掛け布団をきっちり掛ける。
すると、洸祈は赤子のように小さく丸まって寝息を立て始めた。
隣に座れば、洸祈は俺の腰に手を伸ばして額をくっつけてきた。寝息に混じって、体臭を嗅ぐ深い呼吸を感じる。備え付けのボディーソープなのだから、今夜は洸祈と同じ匂いだろうに。
洸祈の好きにさせたまま、テレビを眺めていると、太腿に重さを感じた。布団を捲れば、洸祈が俺の太腿を枕にしていた。
至福の顔で何よりだ。
頭を撫でると、唇の端を上げて微笑む。
「起きてるの?」
「んん……寝てるような起きてるような」
「寝てる子は返事しないでしょ」
「うん。だから、撫でて」
謎の原理だが、要約するまでもなく、『撫でろ』に尽きる。
俺の股の上で伸びをし、太腿を揉んだり押さえたりして寝心地を良くしようとするぐらいには目覚めたようだった。俺も洸祈との交流時間が増えたということだから、いくらでも撫でてやろう。
「実は俺、既に陽季からクリスマスプレゼント貰ってるんだよね。今日の最終公演でさ」
「え?……いや、あげてないよ」
会ってすらないのに、洸祈はおかしなことを言う。
夜景を見下ろしながら白湯を飲むから、すっかり目覚めているのかと思いきや、まだ寝惚けているようだ。
「やっぱり!気付いてなかったんだ?」
窓際の椅子からベッドへと飛び移ると、腹を抱えて笑い出す洸祈。俺が何かの拍子に洸祈にプレゼントを渡したことを気付かなかったのが、大いにウケているようだ。
俺は洸祈が夢遊病を発症している現実にドン引きだよ。
あとで憎たらしい二之宮に診てもらうか。
「俺さ、月華鈴のクリスマス公演ずっと見に行ってたんだ。公演の最後の方で、お客さんにメッセージカード付きのクリスマスブーケ配ってたろ?」
「…………まさか……」
確かに、クリスマス公演の演目の一部として、団員がそれぞれのイメージで作られた小さなクリスマスブーケを手に観客席を回り、無作為に選んだ数名に渡している。貰えなかった人にも配慮して、退出時にも簡単なクリスマスブーケを渡してはいるが。
団員イメージであるか否かと、団員直筆のメッセージカードが付くか否かの違いはある。
勿論、俺イメージのブーケもあり、ホワイトローズを中心に白色でまとめ、金色と紺色のリボンで結んだクリスマスブーケにメッセージカードを添えて配った。
毎公演3人分だ。
「陽季は舞台を正面にしていつも左側の通路を歩く。通路の右側と左側の席を合わせて3人分。それも、弥生さんのあとに来て、弥生さんが渡した相手と被らないようにうまい具合にバラけさせて配る」
「………………ずっと……」
「うん。見に行ってた。陽季のこと」
笑い過ぎて滲んだ涙を拭う洸祈。
「一回目の公演は陽季の位置確認して、二回目は陽季の通り道の席座って、陽季は毎回ここを通るんだな、とか、やっぱり通路側の人が貰えるんだな、とか」
「三回目からはひたすら祈ってた」と俺に背中を向けながら、洸祈は布団を捲って潜り込む。
「二回目の時に弥生さんが俺に気付いてさ、俺が陽季からブーケを貰えるように、自分の分の配る場所を配慮してくれたんだよね」
隣の枕をポンポンと叩くので、隣に滑り込むと、布団の上に乗せた手のひらから炎を纏った小鳥を二羽だけ生み出した。
彼らは布団の上でじゃれ合う。
フットライトだけにした室内で程よい明かりがゆらゆらと揺れていた。
「でもさ、陽季くれないんだよなぁ。もうわざとかなってぐらいに俺の周りだけスルーされた」
「やよさんはそんなこと……」
「弥生さんから、陽季に言おうか?って言われたけど、内緒にしてって伝えたから」
「なんで!?言ってよ!」
偶然を装うのは苦手だから、個人的にウエディングブーケを用意したのに。水面が見えないくらいバラを浮かべた風呂を作ったっていい。
「俺はさ、夕霧の一ファンとして貰いたかったの。ドキドキしたかったの。まぁ、もし貰えなかったら、俺が夕霧宛に特大の花束あげてたけどね。フラワースタンドに『用心屋一同』ってカードを添えてさ」
「千秋楽……」
お姉さん、おば様…………マスクをした青年。横に少女がいた。
青年の影に隠れていたが、赤色のスカートと白色のタイツの足、焦げ茶色のローファーが見えていた。靴の大きさや足の長さからして少女と判別したが。もしかして、彼女は琉雨ちゃん?
それに、黒色マスクの青年。
シャツに着物を重ねて、袴にブーツ姿。ファーの付いた厚手の羽織を膝に乗せた赤茶色の髪の青年。
この現代に洒落た子だなと感心して、服装にばかり目がいって、マスクのこともあり、顔はよく見なかった。ブーケを渡そうとした時、慌てたのか、俺の手ごと受け取り、ぺこぺこと何度も頭を下げてきたのは覚えている。耳が真っ赤になっているのは分かった。
ずっとファンでいてください、俺達も君の光でいられるように頑張るから――そう思ったのだ。
「着物に袴の子?」
「覚えてたんだ?実家から送られてきたんだ。着れなくなる前に着て欲しいからって。何回も同じ公演を見に来てたら警備員さんに怪しまれるし、変装の為に着たんだ。デートには歩き辛いから、洋装に変えたけど」
写真に残したかった。
惜しすぎる。
でも、洸祈だと分かったら分かったで、その後の舞に影響があった気がする。
でもでも…………。
「また今度、着てあげるって。そんな顔するなよ」
眉間をグリグリと押される。シワを作っていたのだろう。
だが、本当に悔しいのだ。
あんなに近くにいて、洸祈だと気付かなかった自分が。
「何かを、誰かを、推して、それに応えて貰えた時、どんなに嬉しかったか。俺、凄く幸せな気持ちになった。ありがとうございます、夕霧」
のそのそと布団から這い出して、正座をし、深く頭を下げてきた洸祈。
「陽季は俺を愛している。でも、お客さんのことも同じぐらい愛している」
「愛に違いはあるけど、お前も、夕霧のファンのお前も愛しているよ」
「うん。愛の種類は全く違うけどね。違わないと怒る」
「ありがとうございます、俺達の舞台を見に来てくれて。また、来てください。今日よりも、もっとあなたを楽しませるから」
俺も夕霧として姿勢を正し、俺のことを応援してくれる大切なお客様に頭を下げた。
「今までも、これからも、ずっと応援しています、夕霧」
お互いにベッドの上に正座して頭を下げる。
それから、ほぼ同時に顔を上げ、見詰め合う。
「あははっ!!もう終わり!俺の恋人の陽季に戻って!」
先に洸祈が負けた。俺も限界だった為、勝ったことを確認してから堪えていた笑いを零した。
「だから、陽季からクリスマスプレゼント貰ってるんだって」
「それって夕霧からじゃないか。俺からとは言わないよ」
「あー……じゃあ、また肩揉む?俺はそろそろ寝るけど、肩だけ貸してあげるよ?」
「それは明日にするよ。誕生日プレゼントは期待してて」
貸された肩を揉んでも、本人は気持ち良くなかろうに。
「今は眠るまで頭を撫でてあげる」
「それはプレゼントとは呼ばないどく。呼んだら、特別な時にしか貰えなくなるから」
「そうだね」
ベッドを出たり、入ったり。夜中に何往復もして、笑って、騒いで。
子供になった気分だ。馬鹿みたいに楽しくてたまらない。
少し強めに頭を撫でたら、洸祈はムスッとしてから上体を寄せて来た。ぬくぬくと温かい。それから、冷たい爪先を絡ませてくる。洸祈の体は部位ごとの寒暖差が激しいのだ。
風呂場で温まった足もすっかり冷えてしまったようだ。
俺は洸祈よりは温かい足を冷たいそこに押し付けた。すると、洸祈は喉を鳴らしてから、熱を奪おうと位置を細かく変える。ふくらはぎを撫でたり、太腿の間に器用に足を入れてきたり。俺は悲鳴をあげずに我慢した。
やっとこさ、人肌程度に足の温まった洸祈は俺のバスローブを広げて、その中に入ると、目を閉じて深い呼吸をした。
「おやすみ、洸祈」
「おやすみ…………はる……」
地肌に感じる洸祈の髪が少し擽ったくて心地よい。
今夜は優しい夢が見られそうだ。
俺は窓辺で遊ぶ鳥達を最後に見て、意識を温かい水底へと沈めていった。
「…………最後のチャンス………………」
こんなのは運だ。俺のように全ての公演に出たとしても、お客さんの数からしたら、ブーケを一度も貰えない人はいっぱいいる。だから、俺が貰えなくても、それは陽季の意地悪でもなんでもない。
それでも、夕霧のブーケを貰った人達の心底嬉しそうな顔を見ると、悔しくて堪らなかった。
いいや、違う。
悔しいのではなくて、彼らのあの幸福感に包まれた顔が羨ましかったのだ。
俺にもその気持ちを教えて欲しい。
「ルーが隣にいます」
いつだって俺を支えてくれる彼女の声。
俺には琉雨がいるから、どんな結果でも大丈夫だ。
弥生さんと目が合う。弥生さんのオレンジとピンクの着物は可愛い。弥生さんはカラフルな色が似合う。
そんな彼女の目は「頑張って」――そう言っているように見えた。
そして、陽季がゆっくりとブーケを手に通路を降りてくる。
弥生さんと違って、陽季のは純白に金色の繊細な装飾の入った着物だった。紺色の帯に金色の帯紐。紺色と青色のグラデーションの羽織。柊の葉っぱを模した金色の飾りに艶々と輝く赤い実の飾りが付いたものが髪の隙間から覗く。年に一度しかないクリスマスバージョンだ。写真は撮れないから、脳裏に焼き付けないと。
上から下までじっくり見る。
恐ろしいぐらい姿勢が正しく、その一歩一歩が絵画のように美しい。
今日の俺は久々の和装だったが、陽季を見ていると恥ずかしくなってくる。服に煩い千里にも格好良いと言ってもらえて、我ながら着こなせていると自負していたが、自信がなくなってきた。
扇と舞が大切で大好きで真剣な俺の彼氏は自慢でしかない。けれども、舞妓の夕霧は高嶺の花のようだ。
どんなに手を伸ばしても、その裾すらも掴めない。遠い存在だ。
俺のことなんて…………見えてない。
陽季が二人にブーケを渡した。
手に残るのはあとひとつ。
心臓が痛い。
陽季が近付いてくる。
そんな彼に周囲の人間が期待の眼差しを一斉に向ける。
私に頂戴。と、目が訴えている。
俺も陽季の一挙一動を熱心に見ていたが、ふと、周りの視線に耐えられなくなって俯いてしまった。
俺は陽季が舞台に上がる前からずっと応援していたんだ。
上手く出来なくて悔し涙を隠れて拭っていたのも知っている。
俺は陽季の――夕霧の一番のファンなんだ。
………………そう言えたら、どんなに良かったか。
俺はここに来ている誰よりも夕霧を熟知している自信はあるだろうか。
俺はここに来ている誰よりも夕霧を熱望している自信はあるだろうか。
俺はここに来ている誰よりも夕霧を愛している自信はあるだろうか。
俺の夕霧への愛は世界で一番の愛なのだろうか。
もしも、一番ではなかったら、陽季への愛も一番ではなくなってしまうのか。
そんなのは嫌だよ。
「メリークリスマス」
現実逃避も兼ねて悶々と考え込んでいたら、目の前に花。
白色のバラ。紺色の花と水色の花がアクセントに入る。
顔を上げると、前の座席のおば様が俺に祝福の拍手を贈ってくれていた。
花束、リボン、そして、指先。羽織が見えて、夕霧の顔。
優しい顔だった。
「まだ俯かないで。まだ顔を上げていて。まだあなたの夢は終わらせない。だから、まだ俺を見ていて」
嘘だろう。
こんな顔をして。
こんな台詞を言って。
誰が惚れないんだ。
陽季が俺を館から連れ出してくれた時のように、俺の頭の中は驚きと喜びと嬉しさで満杯になり、彼以外の情報が消え去る。
俺はただブーケを受け取って、ただ頷いていた。
そして、触れた彼の手は温かかった。
――覚えていたのはそれだけだった。
何回目か分からないぐらい見た景色だったが、今日のこの時間のこの舞台だけは俺には全く違うものに見えた。
カーテンコールを受けて現れた陽季は少しだけ乱れた髪で、切らした息を抑えながら立っていた。興奮に頬が上気していて、今にも紳士な笑顔が崩れて、子供みたいな満面の笑みになってしまいそうだった。
普段、俺には見せない表情だった。
けれども、俺と会っている時の愛情の籠もった眼差しとか。不意打ちに弱くて、焦りでたじたじなところとか。俺のことを想った上で、激怒した時の見下すような視線とか、声とか、表情とか。俺だけの陽季もいるから、舞台の上の陽季の存在も許せる。独り占めするために籠の中に閉じ込めてしまったら、この顔は一生見られないと思うから。
「……旦那様?」
幕が降りたその後も、俺は暫く動けないでいた。
そして、腕に触れる琉雨の手の感触に俺の意識は呼び戻される。
「あ……………………帰ろう」
「はう」
今日も女神のように可愛い琉雨は、俺の肩に羽織を掛けると、俺の巾着を手に持った。
「琉雨?」
「そのブーケ、大事に持って帰りましょう。ルーがこれ持ちます」
俺の両手を陽季から貰ったブーケの為に空けてくれたようだ。
俺はその言葉に甘えて、ブーケを抱き直した。
「琉雨、これ、どうしたら長く残せるかな」
「まずは写真撮って残しましょう。あとは……………………あ!ドライフラワーにするです」
「へぇ。あとで教えて」
「はひ!」
俺達は最後のお客のようだった。
辛抱強く待つスタッフにこれ以上の迷惑をかけるわけにはいかない。ここのスタッフは陽季の仕事仲間でもあるのだから。
俺達は小走りで出た。
早く、陽季に会いたい。
――――――――――――――――――――――
「これでいいわけ?」
全身が黒い。
洸祈は眉を顰めた。
「僕のセンスを疑うの?洸が言ったんでしょ?陽季さんに合わせて大人で格好良い服を選んでって。洸の普段着より全然格好良いよ。ね、あお?」
「まぁ。パーカーにジーンズよりは夜の東京駅に向いてると思う」
ここは千里の部屋だ。
ブーケを大事に抱えた洸祈が最終公演を終えて帰ってくると、彼は直ぐにリビングのソファーでバラエティー番組を見る千里に頭を下げてきた。
今夜の陽季とのデートの服を見繕って欲しい、と。
ブーケを貰うために月華鈴のクリスマス公演期間中は毎日朝から晩まで劇場に通い詰めていた親友のお願いを聞かない人間はおらず、パーカーとジーンズしかない洸祈を千里は自分の部屋に連れて行った。時間がないのだ。千里の服から見繕うしかない。
そんな二人を珍しくやることのない葵が野次馬していた。
千里のベッドに寝転がる葵は小さく欠伸をして毛布の中に入る。千里への断りがないのは、それが二人にとっての当たり前な関係だからだ。
正しくは、千里が断りなく葵のベッドを使用する為、葵も勝手に千里のベッドを使うことにしたのだ。
千里は葵の匂いがベッドに付くから大歓迎らしいが。
「ほら!」
「真冬なのにちぃってこんな薄着してんの?」
「僕だって寒いから中に着るけどさ。洸が中に着たら、僕の服入らないじゃん」
「……………………………………」
洸祈はズボンに片足を通しながら固まる。
「大丈夫。俺も千里の服は入らないよ」
「あおは僕と肌でぶつかり合えば直ぐに熱くなるから、服なくても平気でしょ」
「………………洸祈が脱ぎ始めるから、それ以上は喋るな」
葵が折角フォローに回ったのに、千里が台無しにする。
足を抜いてズボンをぐちゃぐちゃと畳み始める洸祈の姿に、千里はようやく自身の失言に気付いて「あう……ごめん」と謝った。
「でも、格好良いって。今夜は特別にしたいんでしょ?だからさ、着てみてよ。後悔はさせないから」
「…………………………信じる」
素直に着込む洸祈を尻目に葵と一緒にベッドに寝転んだ千里はふと思い出したように上体を起こした。
「ねぇねぇ、ブーケ貰えたんでしょ?メッセージカードはなんて書いてあったの?」
「ん」
洸祈がすかさず何処からか取り出した白色のカードを千里の眼前に晒した。金色の装飾の入ったカードだ。
「『本日はありがとうございました。俺達はあなたに夢を届けるサンタになれましたか?あなたの心にほんの少しでも彩りを添えられたのなら、俺達はとても嬉しいです。また会える日を願って。夕霧』……へぇ。直筆でサイン入り。これは好きな人のなら欲しいよね」
「だろ?永久保存しないと」
唇の端から抑えきれていない笑みを溢す洸祈。家族の前ではクールで頼れるお兄ちゃんになろうとする彼だからこそ、千里は対等な友として悩みや喜びを共有しようとしてくれた洸祈に恋とは別物の愛情を感じた。
温かくて柔らかい感情で、何だかこそばゆくて気持ちの良いもの。
「洸祈、プレゼントも忘れないでよ?リビングのテーブルのやつ。財布と一緒に置いてたから忘れないと思うけど」
葵が千里の腹に腕を乗せて洸祈を見上げる。
陽季へのクリスマスプレゼントに悩みに悩んで早二ヶ月が経った頃、琉雨が羽根を持ってきた。小さな羽根を手のひらに乗せて「抜けたです」と言ってきた時、洸祈は土気色の顔をして璃央のもとへと彼女を連れて行った。護鳥の羽根が希少価値の高いものだとは知っていたが、羽根は護鳥の生命に関わることだからと、慌てて母体である琉歌の契約主に会いに行ったのだ。琉雨は羽根が自然に抜けたもので、自身に悪影響がないことを分かっていたが、琉雨のことに必死で聞く耳を持たない洸祈にそれを言う隙もなく、結局、洸祈は目尻に溜まった涙を拭われながら、苦笑した璃央から説明を受けたというオチになる。
璃央には幸福の羽根だから保管するといいと言われ、「ルーはこの羽根を陽季さんに渡して欲しいです」という琉雨の願いもあり、洸祈は陽季へのクリスマスプレゼントに羽根を贈ることにした。
羽根を身に着けやすいようにアクセサリーにすることにしたのは洸祈の案だった。
ギリギリまでデザインを蓮と相談し、そうやって用意されたプレゼント。
最高の形で渡して欲しい――千里も葵も親友である洸祈の幸せを願って止まない。
「忘れない。二人とも、店番を代わってくれてありがとうな。明日、お土産買って帰るから」
「東京駅なら、あれ…………東京駅にしかないマカロンのお店があるんだよね。あとで連絡するー」
「葵は?」
「俺は洸祈が選ぶものなら何でも嬉しいよ。いってらっしゃい、洸祈」
「いってきます」
はにかんでコートを翻した洸祈。
手を振る代わりに何度も握るように指を動かすと、千里の部屋を出て行く。そんな彼を最後の最後まで見送ると、千里と葵の二人は揃って互いを見た。
「ふふ、可愛かったね、洸」
「舞台の上では毎日会えていたけど、お客さんの一人だったからな。気付いてもらえてなかったみたいだし。寂しかったんだろうな」
「ねー。このままブーケ貰えなかったら……」
「年始まで不貞腐れてたろうな」
「また僕がとばっちり受けそう」
「俺達で特大のブーケを用意して、陽季さんから渡してもらうか」
「陽季さんに会えたら、それだけでブーケ貰えなかったこと忘れそうだけどね」
「そうだな」
唇を尖らせながら眉間を狭める洸祈の顔がありありと浮かぶ。そんな彼も、陽季に会えば、どんな状況だろうと同い年とは思えない幼い顔になるのだ。千里も葵もそれが容易く想像できるのだから、笑えてしまう。
「あ、今夜はお代官様もいないし、僕の部屋に来てくれるよね?」
「…………話の切り替え早いな……」
「そう?洸が幸せなら、僕らも幸せにならなきゃ。洸が心配するでしょ?洸が不安そうだと、僕らも不安になっちゃうよ」
「……一理ある」
千里はにやける頬を隠すと、黙考する葵を腕に抱いた。
「一理あるから絶対に来てね?僕、今夜は寝ずに起きてるから」
「分かった。ただ……今は眠らせてくれ」
おや?と思うよりも早く、葵の指が千里の背中を撫でた。そして、千里の胸元に強く鼻先を押し付けて深呼吸をする。
肩が上がり、今度は下がると同時にゆっくりと小さくなると、葵の呼吸は遅く穏やかになった。
「寝ちゃった?…………葵は可愛いなぁ。今はゆっくり休んでて。後でいっぱい僕と気持ち良くなろうね」
「………………ぁぁ…………」
洸祈の幸せオーラに当てられたのだろう。ほかほかと温かい彼の笑顔に一足早い日溜まりの陽気を感じて、千里は微睡むように葵の頭に額を寄せて目を閉じた。
ただ、暫くは愛する人とこうしていたい。