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女子との買い物というものは、土井にとってこれまでのどのような体験とも比較できないものであった。天国、などと簡単に言えるものではない。異常事態。絶えず緊張が強いられる。それでいて油断するとどこまでもキモオタスマイルで頬が緩む。自分は何もしていないのに周囲に対し謎の優越感を抱いてくる。俺は違う、お前たちとは違う! と。なんだか完全に別人になった気持ちで、体も自然と背筋を伸ばし堂々と歩くのであった。
服を試着する時の着せ替え人形状態というのも、土井にとっては至福の時間だった。次々に着替え、女子三人に品定めされる。そこには面倒など一切なく、「女子がこんなにも自分に対して真剣になってくれている……!」という喜びだけがあった。
「やっぱ下はこれが一番だと思うんだよねー」
「だろうな。土井、顔。めっちゃ緩んでる。裸眼の時の顔」
「あ、はい!」
と土井は緩み切っていた表情をキッと引き締め、裸眼の時の「よく見えないがゆえのみけんにしわ寄せた細め」にする。
「けどこれ目つき悪すぎないですかね。睨んでるようにしか見えなくていらぬ面倒が起きそうですけど」
「TPOだろ。キモオタスマイルよかマシだっつうの。貫禄だよ貫禄。舐められるよか全然いいだろ」
「ヤンキーの世界観ですね……」
「土井―、せっかくだし色々考えて一着ってのもあれだから何枚か買っといたほうがいいと思うんだけどどう? 余裕ある?」
「あーはい、ありますよ。ズボン一つでもせいぜい三千くらいですもんね。服に三千も出すなんてもったいない気はしますけど思ってたよりは全然高くないんで」
「服に三千は安すぎだろ。てかズボンって」
「よし! じゃあ思い切ってここ全部行ってみよう! 土井もオッケー?」
「もちろんです! 吉田さんが俺に、バンドに必要なものだと思ったのならそれは必要経費なんで!」
「ほんと金あんなお前……なんかムカつく」
「どうせだから短パンも買っとく? 夏暑いだろうし」
と短パンも試着してみるのであったが、
「……お前すね毛剃ってるの?」
「あ、いや、脱毛といいますか……」
細くて白いツルツルの脚があらわになる。それは当然「女装コスプレ」のためにしているものであった。
「そう……なんで?」
「いや、身だしなみといいますか……」
「キモ……てか白すぎ細すぎ。マジでいかにもなオタクの脚だな」
「そういうとこは隠しようがないよねー」と古石。
「ほんとな。オタクは体に現れるんだな……」
そう言って顔をしかめる外田であった。
次にやってきたのは靴屋。どれだけ服を変えても足元が洗ってないような謎ブランドキモオタシューズでは格好がつかない。
「スニーカーだけどあくまでライブ用だもんな」
「そうだねー。となるとやっぱペダル踏めるのが一番重要だよね」
「そうだな。まあ大抵の靴なら問題なく踏めるけど、底は平らな方がいいよな。スニーカーなんて大抵平らだけど」
「コンバースとかヴァンズとか多いよねー多分。底めっちゃ平らだし」と古石も言う。
「スニーカーも結構消耗品だからねー。安いほうがいいよねやっぱ。あんまゴツいのも重いしさ。あとなんかある?」
「あえていうなら靴紐くらいじゃない? スリッポンで脱げるのも嫌だけど靴紐でコケるほうがダメージはデカいからさ。どうしても嫌なら内側で結べばいいんだけど」
「じゃあとりあえずヴァンズとコンバースの定番履いて一番合うのでいっか。予算的にも良さそうだしね」
ということで履き比べ、結局黒いヴァンズのスニーカーに落ち着く土井であった。
服に靴、ついでにおまけのリュックと買い物を済まし両手に大量の荷物を抱えた土井。人が多い街中でのショッピングという慣れない苦行で疲労感に満ちていたが、同時に達成感充実感にも満ちていた。それは「お金をたくさん使った」ことに由来する部分も当然あったが、それだけではなく新しい体験、自分が変わっていくという確かな実感。そして何より「女子との買い物」という自分の人生に起こるはずがなかった出来事。人生とは、生活とはこんなにも満ち足りたものなのか、広くて多くのものに埋め尽くされたものなのか、と土井は高揚感に包まれていた。両手に持ついくつものファッションアイテム。それは土井にとってギターに続く新たな武器だった。自信へと繋がる武器。my new gear…。それに、誇らしさすら感じる。とはいえそれもこれも、すべては彼女たちのおかげであった。彼女たちがいなければ、出会わなければ、こんな未来は決して来なかった。髪を切る。コンタクトにする。服を買う。そんなことはありえず、夏休み中もずっと自室にこもり女装コスプレをして動画を投稿する。けれども自分は何も変わらず自分のまま。どこへも行けず、一歩も動かず。変化など一切なく。
変化は、変わることは楽しかった。その最初の一歩を踏み出すのには恐ろしく勇気がいったし不安や恐怖しかなかったが、それでも変わることには快感があった。そしてその一歩を踏み出せたのは一人じゃなかったからだ。それは手を引っ張られ背中を押され半ば強引な部分もあったかもしれないが、どうであろうと変わらない。結局は、自分が拒絶してしまえば起こり得なかったこと。
変わりたかった。変えたかった。その思いが、一歩が、確かに自分を変えたのだと。
「――みなさん、今日は本当にありがとうございました」
と電車の中で土井は皆にお礼を言う。
「んだよ改まって気持ち悪い」
「いえ、色々ありますけど、本当におかげさまで、今は自分は変われるって思えるようになったんで」
「……あっそ。別にうちらもバンドのためにやってるだけだしな。キモオタはお断りだってだけで」
「そこは俺も同じです」
「ははは! でもいいよね! やっぱ誰でも何にだってなれるわけじゃん。自分が思う自分にさ。音楽なんてまさにそうだよね。誰だって変われるしなんにでもなれるし、音楽はその助けになるしさ。うちらのバンドがその助けになったなら本望って感じじゃん?」
と吉田も笑っていう。
「そうですね……変われるって、なんにでも慣れるって背中を押せる音楽って、いいですね」
思えば自分もずっと、そういう音楽に支えられてきたのかもしれない。そういう音楽に魅了されてきたのかもしれない。自分が音楽を好きな理由は、そこにあったのかもしれない。
自分はずっと変わりたくて、だから何かに誰かに、背中を押してもらいたかったのかもしれない。
土井は希望を胸に、晴れやかな気持ちで電車を降り「自分たちの街」に降り立った。
「じゃーまた次の練習まで自主練な。そんで次のライブでは土井も歌デビューだからマジでできるようなっとけよ」
「はい! 任せてください!」
「えらく威勢いいな」
「練習ではできてますしおかげさまでイメチェンできて根拠ない自信が満ち溢れてきてるんで大丈夫です!」
「大事だよねーそういうの。けどこの見た目で女性ボイス発するのほんと楽しみになってきたねー。インパクトぜったいヤバいっしょ」
と吉田。
「ギャップすさまじいからなー。目を疑うんじゃね?」
などと話していると、
「あれ、みんな」
と声をかけられる。土井がそちらを見ると、そこにはメガネをかけた女子が立っていた。
「あーマチさーん! やっほー!」
「うん。みんな久しぶり。練習? ではなさそうだけど」
「ちょっと買い物行ってたんすよ。マチさんは?」
「私塾の帰り」
「あー、夏講習みたいなのですか。お疲れ様です」
「ほんとね。みんなもお疲れ様」
「マチ」はそう言い、チラッと土井の方を見る。
「あーマチさん紹介するね! 例の土井くん!」
「あ、やっぱりそうなんだ」
「土井、前のメンバーで三年生の南戸真知さん」
「あ、どうも、初めまして」
「こちらこそ初めまして」
南戸はそう言って律儀にお辞儀をする。
「そっか君が……話は聞いてたけど、でもなんかイメージと全然違くてびっくりしちゃった」
「今日丁度夏休みデビューさせてきたところなんですよー」と古石が答える。
「あ、そうなの? なんかこう、失礼だけど、聞いてた話だとすごくこう、オタクっぽいとか聞いてたから……」
「実際今も中身はキモオタっすよ。今朝まで見た目も完全にキモオタで」と外田。
「そうなんだ。男子って聞いて最初は少しびっくりしたけど、でもバンドやる人っぽいよね全然」
「なんとかそこまで仕上げました。マチさん受験勉強やっぱ大変ですか?」
「そりゃねー。ほんと疲れるよ毎日。でも自分で選んだ道だからね」
「そうですか。ほんとお疲れさまです。いつでも息抜き付き合うんでなんでも言ってくださいね」
「うん、ありがとう。じゃあみんなもがんばってね。文化祭も。応援してるから」
「えーマチさんもう行っちゃうのー? せっかく久しぶりに会えたんだしお茶してこうよー」
と吉田。
「ありがとう。でも帰ってまた勉強しないとだからさ。今度またね」
「そう言うならしょうがないけどー……」
「受験終わったらさ、いくらでも時間あるし。今はやることやらないとだから。ほんとごめんね。誘ってくれてありがと。じゃあもう行くね」
南戸はそう言い、手を振ってその場を立ち去った。
「あー行っちゃった……あのね土井、今の人が前にギターとボーカルやってたマチさん」
「はい……ちょっと聞いてましたけどあんな普通の方だったんですね。バンドとかやらなそうといいますか」
「普段はな。それ言ったらお前のほうがそうだろ」と外田。
「そうですけど。確か受験勉強で辞められたんでしたっけ?」
「うん。マチさんは医大目指してるからねー」
「医大ですか? すごいですね」
「だから受験大変なんだよ。辞めるのもしょうがないよな」
「うん。そうだけどたまにくらいは一緒にやりたいよねー。息抜きだって必要かもしれないし」
「それは私たちがどうこう言えることじゃないでしょ。マチさんが選んだ自分の道なんだからさ。まあでも、歌うだけでもいいから文化祭でも一緒にやりたいよな」
「そうだね。歌だけなら練習もそんないらないだろうし。やってくれればいいけど、マチさんが選ぶことだもんね」
「そうそう。私たちは応援するって決めたわけだからな」
「そうだよね……まあ私たちも自分たちのすることしないとだからね! 帰って自主練と勉強! 勉強ちゃんとしとかないとバンド活動もできないしさ。んじゃ解散!」
「あ、ちょっと待ってください!」と土井が言う。
「あのこれ、頭。このまま帰ったら親になんて言われるかわからないんで……不良になったとか勘違いされると面倒ですし」
「そんなかよ……まあ劇的な変化ではあるけど」
「ゴム取ればいいだけだよ。そうすれば団子ほどけて普通に髪下ろせるし」
「ゴム……こうですか?」
「そうそう。前に戻ってちょっとスッキリした感じ。それだと刈り上げたとこも見えないしちょっと切ったくらいに見えるんじゃない?」
「それならまあ、安心ですね」
「しかし大変だなお前も。いちいち親の目まで気にしてさ。そんな人はお前のこと見てねーし気にしてねーって」と外田。
「かもしれないですけど単純に面倒は避けたいんで。バンド始めたこととかも別に言ってませんし」
土井はそう言いスッキリした頭を掻くのであった。
そうして一人帰路につく中、土井は先程であった南戸について考えていた。思ってたのと違った、とても普通で大人しそうな先輩。もちろんどういう人物なのかなどわからなかったが、それでも皆が彼女の「脱退」を残念に思っている、できれば彼女とやりたいと思っているのは確かなようであった。彼女自身受験とはいえ不本意なのであろう。彼女の代わりに、自分が……
果たして自分はそこにいていいのだろうか、という疑問が頭をもたげる。みんなは、本人も、ほんとはあのマチさんとやりたかったのではないだろうか。それが叶わず……それにまるで違う自分なんかが、彼女の代わりになどなるのだろうか。彼女にはきっと彼女のすごさがあり、役割があった。そして四人には四人の絆があったはずだ。それを、自分が……
医大を目指す。それを考えれば本人の選択も当然のようなものだし、他の三人も何も言えなかっただろう。けれども理由は関係ない。いま皆が何を思っているか。
ようやく獲得した自分の居場所が、自分の居場所ではないように感じられてきた。誰かから奪った場所。土井はそれを思い、一人ため息をつくのであった。