5
楽屋で準備を終え、ギターを持ち、ステージに上がる。狭い、小さなライブハウスの舞台袖。四人も集まれば隙間もない小さなステージ。機材で歩く隙間も少ないステージ。人生初の――いや、幼少期のピアノの「発表会」を除けばの話だが――ステージ。そこは記憶の中にある発表会のステージとはあまりに異なる。あの、おそらく文化ホールかどこかのステージは、広かった。大きかった。それはなにも自分が小さかったからの話ではない。今立ったって間違いなく大きいだろう。その広いステージの上にぽつんとピアノが一つ。そのピアノの前に、小さな体の自分がぽつんと一人。会場中の視線を集めていたはずだ。豪雨のごとく降り注ぐ照明の下。それに比べれば、こんなもの。それに他のメンバーだっている。一人ではない。しかもまだリハーサル。だというのに、凄まじい緊張。胃がひっくり返る感覚。胃液の逆流。やはり滝のような汗。
そうして月面におりる一歩が如く、「人生初」のステージの上に足を踏み入れた。
「あ、みんなお集まりいただきありがとうございまーす」
と吉田が笑顔でブンブンと手を振る。その先、そう広くないフロアには数人の男女がいた。
「んじゃみなさん早速紹介しまーす。とその前に、今日はこの計画にご賛同いただき足を運んでいただき、というかこのために早く来ていただいてありがとうございます」
「『yacell』のためなら!」
とタトゥーが目立つ男性の一人が手を上げ応える。
「ほんとありがとうございまーす。てことで早速紹介しますけど、『yacell』の新メンバー土井くんでーす」
吉田はそう言って土井の方を手で指す。瞬間、その場にいる全員の視線が土井に集中する。途端、ゾワッと汗が噴き出す。
「てか男なの!?」
と恐ろしく髪の長い男性。
「あんたら知らなかったの?」
とその隣の女性が言う。
「聞いてない聞いてない。そっちは聞いてたの?」
「当然」
「マジかー。てか男かー。でもオッケー! 俺たちは全男子の味方だから! バンドやるならなおさら! 見たとこモテなさそうだから尚更オッケー!」
とグッと親指を立てる。
「それもう酒入ってるんすか?」
と外田が笑って聞く。
「あたぼうよう! シラフで昼間を生きられっか!」
「うっざー。ただのアル中じゃん」
「丁度いいから紹介するけどね、あの二人は『懺悔』ってバンドの人たち。今日の対バンの一組。よく一緒にやらせてもらってるね」
「『いつメン』よう」
と後ろで古石も言う。
「めちゃくちゃ髪長いほうが人間全さん。タトゥーすごい方が上津青さん」
「見ての通り頭おかしいけどなかなかに頭おかし二人よ」
と外田も補足する。
「ギターとベースの二人なんだけどさ、間にバスドラ挟んで二人で踏みながらやんのよ。意味わかんないよね。しかもバンド名通り歌詞は全部これまでやってきた悪行の懺悔」
「むしろ偉いだろ懺悔して!」
「ドラマー来ねえんだよいつまでたっても!」
と野次を飛ばす二人。
「まああの二人はどうでもいい。次あの女性三人」
と外田が指差す。
「『gokohh』の三人。今日のトリ。ぶっちゃけもうこんなハコでやる人たちじゃないのよ。めっちゃ売れて。それでも世話になったライブハウスってことで未だにここ来てるし客でもしょっちゅういる」
「地元サイコー!」
と女性の一人が手を挙げる。
「今の人が高井飛奈さん。見ての通りあの人もアル中」
「失敬な! 私をこいつらと一緒にしないでくれる!? こっちはまだ一杯目だっつうの!」
「ライブ前から飲んでる以上一緒っすよ」
「ガソリンよガソリン! あんたらおこちゃまにはわからないだろうけど歳食うと酒入れなきゃライブやる気力も湧いてこないの!」
「そんな歳じゃないじゃないですか。そんなん知りたくもないですし」
「で隣の人が奥馬川流さーん。リーダーね。一番しっかりしてる人」
「どうも」
と奥馬が手を挙げる。
「で最後の一人が代々木五千さん。いつも笑顔でチャーミング」
「こんにちはー」
と代々木はヘラヘラ笑いながらひらひらと手を振る。
「私たちの学校の先輩でもあってー、スタジオで練習してる時にここ誘われたんだー。だからほんとお世話になってる先輩たち」
「ガールズバンドなんて少ないからね。まあ一人男になったけど」
と奥馬。
「この人たちもなかなかヤバい人たちでさ、バンドでラップやってんの。見ればわかるけどすげえぞ。レベル違うから。そりゃ売れるわって人たちで。あと少しでメジャー行くよ」
と外田が言う。
「メジャー行っても故郷はここだぞー! 一生地元ー! 地元サイコー!」
と拳を突き上げる高井。
「いや、地元出てビッグになって後輩たちの手本とかないんですか」
「ねーよんなの! だいたい都心なんてすぐそこじゃん! 電車一本! 私は一生あんたらを忘れないぞー!」
「マジで一杯目なんですかこれ?」
「ここに来てって話じゃない? こいつバカだから」
「飛奈は飲むもの全部に焼酎垂らしてるからねー」
と奥馬に代々木。それに続いて人間と上津も、
「死ぬなこいつ……」
「ああ……」
「人のこと言えっかお前ら! てか働け! いい歳こいた男が昼間っから酒飲んでライブハウス来てんじゃねえ!」
「一応働いてるし……」
「というかもう半分夕方だし、てことは四分の一は夜だし……」
「こういうヤバい人たち。んで後は店長とお店の人とー、あれ、ジョンさんもう来てるんですか?」
「ああ」
と最後方で壁によりかかり腕を組んでいる中年男性。見た目は五〇代くらい。
「店はどうしたんです?」
「……任せてきた」
「ダメな大人がいる……」
「そう言うなってー。ジョンさんはこいつらと違ってちゃんと定職あって働いてんだからさー」
と『懺悔』の両名を指差しケラケラと笑う高井。
「ジョンさんも今日の対バンの人。バンじゃないけど。まーいつメンね。この人もすごいけど、まあ見ればわかるな。ほんとすげえから」
「大人になっても働きながら音楽やるっていいよねー。てことで紹介も終わったので早速。事前説明の通り今日はリハでちょっと時間もらって土井くんのテストっていうか試験っていうか、お試しライブみたいなのをさせてもらいまーす」
「あがり症っていったっけ?」
と奥馬が土井を見て言う。
「み、みたいなものです」
「人前でやるのは初めてでどうしても緊張するみたいで」
「そっか。まあこんな人数でいいならね。ついでだし」
「ビビってんじゃねーぞ土井―! 裸になれー! ちんこ見せろー!」
「そうだそうだー!」
と高井に上津。
「やめろマジで。ライブハウス初心者怖がらせてんじゃねーよ」
「いやいや! むしろ緊張解くためですけど!?」
「知らない酔っ払いの成人女性にいきなりちんことか言われたら普通の男子高校生はドン引きするだけだけどねー」
と代々木。
「え、そうなの……? 男子高校生ってもれなくちんこ好きだと思ってた……」
「好きだぞ」
「間違いない」
と『懺悔』の両名。
「お前ら高校生じゃねえじゃん」
「心は未だに高校生!」
「男子校だったし!」
「大人になれよ」
「なれたらバンドなんかやってねえよ……」
「全バンド関係者に謝れ」
「これがいつメンのノリ……初体験初心者にはキツかろう……」
と後方腕組彼氏面の古石。
「この人たち話し始めるとこんなんだからこっちでやっちゃおっか。始めればさすがに静かになるし」
と吉田が言う。
「でもさ、いいでしょこういうの? ライブハウスの仲間のノリ。なんか音楽仲間って感じするじゃん?」
と土井に笑いかけるのであったが、「いや、こういう内輪のノリ見せられてまったく入っていけず愛想笑いもろくにできないのがコミュ障にとっては一番キツいんだけど……」と思いつつ苦笑いするしかなかった。
「じゃあ始めるんでお静かにー」
と吉田が言うと、彼女の推測通りピタリと会話が止まる。さすがは「大人」なのか。それともやはり音楽好きだからこそ音楽に対しては、音楽をやるものに対しては真摯なのか。
ケーブルなども繋ぎ、準備が整う。試しに音を鳴らす。ちゃんと聞こえてくる。エフェクター。諸々の確認。大丈夫。いつもの位置。ステージの上が狭かろうと、自分が立つこの半径一メートルもないエリアは、普段の練習と変わらぬ形で整えられている。だから自分は、あとはここで自分の仕事をするだけ……しかし。
顔を、上げられない。額からは汗が吹き出している。元々人の目を見ることは恐怖だった。ゾワゾワして直視できない。耐えられない。それは顔であっても変わらない。目からは逸らし顔全体に目をやっていても、やはり言いようのない気持ち悪さに襲われ何秒も見ていることができなかった。それがここでも、変わらない。
自分を見てる。それはわかる。だってステージ上のバンドを見るものだし、今回は自分の場馴れのためにやっている特別なリハーサルだから。それに自分は、初対面の新メンバー。前にいたらしい「マチ」という女子の代わりで、しかも男子。そりゃ見る。見るのは、自分だけ。それが当然。
だから顔を上げたら、この顔に一身に視線を浴びる。ほとんどど知らない人たちの目を、顔を目にしなければいけなくなる。それはキツイ。考えただけで具合が悪くなってくる。体が硬直し今までのように弾くことはできない。
それでも、この顔を上げないことには、何も始まらない。
汗だくの顔で、ボサボサの髪で、土井はなんとか顔を上げた。
その先にいる、わずか八名。八名でも、その顔は見知った顔じゃない。さっき紹介され見たといっても、それは知っている顔ではない。何より自分を知っている人々ではない。その、どこか品定めするような目。しかもそこにいるのは、みんなすごい人。
店長、店員。今まで数え切れないほどのバンドを、アーティストたちを見てきたであろう存在。一瞬でも俺がダメだと分かれば、ある意味切り捨てられるような存在。そしてそれはバンドのみんなも巻き添えを食らう可能性すらある。
『懺悔』の二人は、よくわからないけど少なくとも圧倒的な個性で他者など関係なく自分たちのライブをやるような人々、らしい。それはきっとかっこいいし、すごい。なにより年上の男性。それだけでもう恐怖の対象である。
『gocohh』。どうやらメジャーデビュー寸前らしい、すごいバンド。今日の対バン。このライブハウスの顔であるような存在、らしい。『yacell』の先輩。バンドでラップをやるというのはよくわからないが、立ち姿だけですでに一流に近い風貌である。オーラ。自分たちの確固たるスタイルを持っている自負。それがにじむ佇まい。
そんな凄い人たちの前で、今から……
ゾワッと、悪寒が全身にせり上がってくる。
「土井、だいじょぶそう?」
隣で吉田が声をかける。土井はかろうじてそちらを向いて、弱々しく首を横に振るのであった。
「了解。すいませんちょと一旦下がりまーす!」
吉田はそう言い、メンバーらとともにステージ袖に戻る。
「何が問題だよ」
と外田が言う。
「……い、言ってしまえば全部ですけど、見られてるとか、見えてるとかが……」
「……どうする?」
「まー今日はあくまでテストのテストのリハみたいなものだし。とにかくやること、できること、成功体験が大事なわけじゃん? なら方法はなんでもよくない?」
「てことはなんかあんの?」
「メンバーが正面向いてないバンドとかあるじゃん。土井だけが後ろ、斜め後ろの方見てるとかそうすれば少なくとも客席が目に入ることは少ないし」
「そうだな。根本的解決にはならないし失礼でもあるけど、ギターとキーボードならそれも可能か。けど先のこと考えたら歌うわけだろ? それ後ろってのはなあ」
「横向いてるくらいまでならあるよね。マイク持って動き回るボーカル専とかならしょっちゅうだし」
と古石。
「けどまあうちはなあ……でもとにかく今回だけはどんな形でも成功体験重視でいいか。横でも後ろ向きでもなんでもさ」
「あ、それと土井。そういえばなんだけどさ」
吉田はそう言い、土井の方を見ると――すっと近づき、その目元に手を運び……
「え、ちょ、ええ?」
過去一番近づく顔。土井は、何もできずにキョドるしかない。しかしそのすぐ後、吉田は土井のメガネのフレームを掴み、ゆっくり外した。
「どう? ていうか土井ってどんだけ目悪いの?」
『……今何も見えませんね』
「はは、めっちゃ目つき悪くなってる。眉間にしわよって」
「いや、ほんとこうでもしないと全然見えないんですよこれでも。吉田さん多分今目の前にいますよね? その顔も全然見れなくて」
「でもそれなら客席もろくに見えないじゃん?」
「――あ」
「それでギター弾ける?」
「ギターは、まあ正直ほとんど見なくても弾けますし……まあぼんやり見えてて、あとは機材周りもいつものとこに置かれてて、自分も動かなければそのへんはもう体の記憶で」
「――よし! じゃあリハ一回目はとりあえずこれでやってみよっか!」
「マジで?」
「うん。これなら客席というか人間よく見えないみたいだし、でも演奏はできてさ。しかも見えないせいで演奏にも今まで以上に集中しないとで、ならいけるんじゃない? それに念のため向きも変えて。もう最初なんだからさ、とりあえずなりふり構わずどんな形でも成功体験! それでいい土井も」
「……俺は、ほんと足引っ張ってるだけなんで、どんな形でもちゃんとリハを終わらせるところまで運べるなら、なんだってしますしどんな状態でだってします!」
「なんかメガネ外してキャラ変わってね……?」
「見えないって逆にめちゃくちゃいいなって思いまして!」
「ははは! 顔も変わってるもんねー。目つきも。こちのほうがよくない? かっこいいじゃん」
「ふひっ?」
「ふひじゃねーって! かっこいいに反応してふひってんじゃねえよアホが! とにかくこれでやるぞ! こんだけお膳立てしたんだから、マジで自分のことだけっていうかうちらの音だけ聞いて集中してやれよ! 今まで通りだ今まで通り! 練習通りのお前が一番いいんだよ!」
「おーソラも珍しく褒めるじゃーん」
「成功体験自己肯定感なんでもござれだ! 切羽詰まってんだからなんでもやるだろ! もう本番だって迫ってんだしよ! これでなんかしら結果見えねえとなんだからなんでもするっつうの! だからもう行くぞ待たせてんだし!」
外田はそう言ってズカズカと歩きステージに戻る。
「よしっ! じゃあ今度こそやってやろうじゃん土井」
「あー……すみません見えなさすぎてこの状態だと歩けません」
「そんな!? けどあの距離で私の顔見えてないとか言ってたもんねー。ほら」
吉田のその声とともに、土井の手を柔らかい何かが掴む。
「ふひっ!?」
「あーごめんごめん。見えてないから言っとかないとびっくりするよね。手、引っ張るから。ちゃんと誘導するから安心して」
「あ、は、はひっ!」
「土井はなるべく下見ててねー。私も段差とか障害物とか教えるから」
吉田はそう言い、土井の手を引きゆっくり歩く。土井は、別の意味で心臓のばくつきが止まらない。もはや緊張などすっかり忘れどこかにいってしまっている。全神経は、手に集中。柔らかい、ほのかに温かい手。女子の手。吉田の手。今、手を握っている。握られている。一度だけあったあの握手とは趣が異なる。これはまさしく、「手を繋ぐ」という行為。
――手、手、吉田さんの手……うわあああああああ!! こんな、これが、手をつなぐということ! 手を繋いでいるだけでこんな、心臓が、頭が、顔が、うおお! わかる、わかるぞこれは! こんな、こんなやばいもの、そりゃ世の中の人は人混みだろうとなんだろうとみんな必死こいて手を繋ぐわけだ! こんなの魔薬だ! やばすぎる! おかしくなる! 気が狂う! というか狂ってきた!
土井の胸中はさながら「頭が沸騰しそうだよー」といった具合。もはやこれからライブをすることなどすっかり忘れている。とはいえ転ぶ恐れはあるしそうなると吉田も巻き込むのでしっかり下を向いて歩く。それは抑えようとすることでなお悪化する複雑に歪んだ満面のキモオタ微笑を結果的に隠すことになったのだが、無論転ばぬよう道中を見守っていた外田らにはしっかり見えており「こいつマジでキッモ……」と思われているのであった。
「おっ! なんか手繋いで出てきたぞあいつら!」
「ナメてんのかー! デキてんのかコラー!」
と野次を飛ばす『懺悔』の二人。そこに代々木が、
「でもあの子さっきメガネしてなかったー? 外してないー?」
「あーそれで見えなくて手引いてんのかー」
「は! わかった! これはあれだ! まさしく『観客はカボチャ』作戦!」
と高井が言う。
「観客はカボチャ~?」
「そう! よく言うじゃん。緊張するときゃ客なんかカボチャだと思えとか。その究極! メガネ外して見せなくすりゃそもそも観客なんか存在しねえ! 全部ぼやけた背景だ!」
「それなら確かに緊張しないかもな。でもあんなんで弾けんのか?」
と訝しむ奥馬。
「弾けるって判断したからやるんじゃない? まあ全部見ればわかるでしょ」
と代々木も返す。
ステージの上では、土井がようやく持ち場につく。客席に背を向けメガネも外すその視界には、客の姿など一切映っていない。もとい吉田との「手繋ぎ」のせいで他のあらゆる感情・言葉が一切なくなっている。
心臓はまだドキドキしている。しかしそれは緊張とはまったく異なる。あの吉田の手の熱が、感覚がまだ自分の手に残っている。事情が事情とは言え、こんな俺の手をあんな躊躇なく握ってくれて……まさかこんな、女子と手を繋ぐ日が来るなんて……というか俺なんかの手を握ってくれる、触ってくれる人間がこの世にいるなんて……吉田さんはほんとに天使か天女かじゃなけりゃ神か……何にしても、
こんなんで惚れるなというほうが無理があるでしょ!
無理だ無理無理。こんなん女子耐性一切ない俺みたいなキモオタが抗うなんて絶対無理。だってこんなの一度もないんだ今まで一度だってなかったんだそもそも女子と話すことだって優しくされることだって触られることだって。そんな人間がこんなことされたら、
そんなん好きになってしまうに決まってんだろうが!
サークルクラッシャー。恋愛禁止。そんな言葉も思い出すが、心の中で語りかける。外田さん、問題は俺の方にはありません……問題は吉田さんです……! 吉田さんのあのあまりにもナチュラルなキモオタ殺し仕草がすべての元凶です! すべての童貞キモオタを殺す人です! だから俺は何も悪くないんです!
「おう土井。キモいぞ」
と同じギターの外田が声をかけてくる。
「はひ!」
「大方考えてそうなことなんてわかるけどよ……準備いいか? 大丈夫か?」
「あ、は、はい」
「向き変えた分それだけ動かしてるけど配置だけはな。あとは距離とかだから。エフェクターは色でわかるか?」
「はい。それよりは配置ですね。いつもと同じ場所に同じ距離であれば間違えはしないです」
「おお。そういうことはちゃんと自信持って言えんのはいいじゃん」
「そうですか? 別に自信というか単なる事実なんですけど……」
「自信なんてそういうもんだろ。絶え間ない練習の結果が『事実』を作ってるわけだしな。一朝一夕の事実じゃねえだろお前のそれは」
「……そうですね」
「まあ全部繋いであっから、最後に場所とか距離の確認だけ微調整してな。お前見えないだろうから遠慮なく言えよ」
「あ、はい」
そうして土井は明確に立ち位置を決め、最終チェックを行う。
「――大丈夫です。位置は全部ばっちりです。ギターも見えてなくても全然弾けるんで。体が、覚えてます」
「ならいいな。事実で自信だ。体が覚えてる」
外田はそう言ってニッと笑う。その笑みは土井には見えてなかったが、それでも軽く叩かれた肩の感触はしっかり残っていた。
「へい土井。視界に入るのは私だけだぜ。私だけを見てな!」
とドラムの古石が土井の正面で言う。土井は声がした方を、うっすら映るドラムとその先の人影を眉間に皺寄せ目を細め凝視する。
「めっちゃ睨むー」
「すみません。というか全然見えません」
「心の目で見るのじゃよ……」
それだと観客の姿まで思い浮かべてしまうのでは、と思うがつっこんでいいかどうかもわからず、結局何も言わずにふひっと愛想笑いを浮かべる土井であった。
それにしても、と土井はうつむきながら思う。当然だが、客など見えない。客以前に何も見えない。あまりに見えない。見えないから視界も狭まる。というかこれ、マジで見えない。こんな状態で弾くなど初めてであった。これは……弾ける、弾けるはずだ。大丈夫。これまでどれだけ弾いてきたと思ってるんだ。練習してきたんだ。ギターなんてもう目をつぶったって弾けるだろ。体が全部覚えてるだろ。エフェクターだってなんだって、全部この体が覚えてる。だから弾ける。弾けるけど、さすがにこれだけ見えないと全感覚を集中させなければ完璧に弾けることなどできそうにない。普段どれだけ目に頼っているかなど、見えている時にはわからない。目の分も、視力の分も、他の何かをフル動員させ完璧に弾かねば。
集中、集中、極限の集中。土井は深く、ゆっくり息を吐く。もはや状況は客だの緊張だの言ってる場合ではなかった。自分のすべてを弾くことに注がなければ、自分の唯一の武器であり役割であるギターすら完遂できないかもしれない。それができなければ、自分は何者でもない。ここにいる資格などない。どこにも居場所などない。
ただギターを弾くためだけの存在。土井は、生まれて初めてその境地へと向かっていく。削ぎ落とす。削ぎ落とされていく。余計な言葉。呪いの言葉。思考の言語の体脂肪。痩せる。痩せていく。細く、細く、削れていく……
その最後に残る、自分の芯とは――
「土井、始めるけどオッケー?」
と吉田が声をかける。しかし反応はない。
「……土井?」
やはりダメか、と観客たちが思った時、
「大丈夫ヒデちゃん」
とドラムの古石が言う。
「こっちから見えるけど、バチバチキマっちゃってるよこいつ。完全に入っちゃってる」
古石はそう言い、珍しく喜びを湛えた笑みを浮かべる。
「見ればわかるけど集中。緊張じゃない。私のスティックで目覚めさせてあげるからさ、そっちは構わずやっちゃってよ」
「……オッケー! じゃあ、行こっか。シュンちゃんよろしく!」
「うぃー。じゃあ行くぜお前らー! 『yacell』新メンツ一発目だ! 今日も今日とて痩! せ! ろ! ハイ!」
それに合わせてスティックの四拍子。ワン・ツー・スリー・フォー。そうして曲が始まった。
土井の体は、そのすべてに自動的に反応していた。
『yacell』の曲のジャンルは広義にはロックである。しかし作曲者によってその特徴は大きく異なる。
外田はどちらかといえばハードコア、ハードロックより。一方で吉田はオルタナの毛色を含む。そして今はいない旧メンバー「南戸真智」の曲はよりポップに近い。その多色な点は『yacell』の魅力の一つであった。
歌詞は一様に基本日本語のみ。とはいえハードコアに近づくほどそれは聞き取れずシャウトも増える。総じておよそ典型的な日本の「ガールズバンド」的な要素は少ない。そういう意味では「売れる」存在ではない。しかし今は、とにかく自分たちがやりたいことを。このメンバーで。それが彼女たちのあり方だった。
それを支えるのは彼女たちの演奏力であった。ハードロックを好む外田のギターの技術は凄まじい。女子高校生という点では頭二つ抜けている。なによりギターが好きだから。その強力な耳をつんざく要素が好きだから。そして「音痴」である彼女であったが、基本単発シャウトは彼女の役目。
ベースでボーカルの吉田は、歌がうまい。ベースの技術は十分だが、特段抜けているわけではなくテクや個性があるわけではない。それでもボーカルとして、バンドの「顔」として真ん中に立つ彼女のビジュアルは非常に優れており、そういう意味でも間違いなくバンドの中心でありリーダーであった。
ドラムの古石は、バンドの中では一番にして唯一の自他ともに認める「天才」。小柄で手足は短いがゆえに小回りがきく。天性のリスム感を持ち、いかなる曲でも対応できる。バンドの心臓、屋台骨で大黒柱。バンドの全身に血を送るのが彼女の役目。そのビートはまさに心臓の鼓動。いついかなるときも外さず常にバンドを導く。メンバーが作ってきた曲にも即興で速攻で叩き曲を仕上げるまさに天才。それだけでなく「ドラムが一番体力だぜ」ということで筋力トレーニングやランニング、水泳などにも励み常に体を作っている。とはいえその根幹にあるのは「叩くのが楽しいから」とそれだけ。ストレス解消、気持ちがいい。まさに子供の衝動。ゆえに天才。
そして土井。客席に背を向け背中を丸め、そういう意味ではまるで存在感などない。しかし聞くものが聞けばわかるその技術の確かさ。動画投稿のためアニソンや流行の曲、女装のため特に女性の曲を多くやっており、そのため『yacell』の曲は普段のものとはジャンルが異なったが培われた技術の前にはそんなものは関係ない。なんであろうと弾く、弾ける。基礎が徹底されてるから。これまでそう生きてきたから
見えない。けれども全部見えるし、わかる。それが土井の心境。目ではろくに見えないが、けれども見えなくたって全部わかる。人生の半分近くをこのギターのネックを掴んで過ごしてきた。弦を指で押さえてきた。見えなくたって、どこに何がありどうすればいいかは文字通り手に取るようにわかる。
音も聞こえている。ちゃんと聞こえている。それと一つになっていくのがわかる。自分もそこの一部。その一員。一つになる、その快感。これがライブ。これがバンド。一人の時とは、全然違う。楽しい。高揚感。一人では決してたどり着けない場所。音を、ライブを皆で作るという体験。
土井は自ずと笑う。笑みが浮かぶ。それは普段の「キモオタスマイル」とは異なる。もっと狂喜に満ちていて、もっと歓喜に満ちている。これか、これだったのか。こんなものは、自分は知らない。もっと、もっとだ。もっと、もっと。
弾いていく。痩せていく。削ぎ落とされていく。余分なものがなくなっていく。余分な言葉がなくなっていく。そうすると轟音の中でも頭が冴えていく。余裕が生まれていく。
見えない。何も見えない。けれども見たい。自分も見たい。音が聞こえてもみんなの姿が見えないのは寂しい。これだけのことをやっているのに客席の反応が見えないのがもったいない。
自分も見たい。見たいと思った。それを、その景色を。こんな見えない世界じゃ、音が聞こえても一人なのとそう変わらない。
自分も見たい。自分のこれが世界にどういう影響を与えているのか、見たい。見てみたい。それは怖くもあったが、同時に自分がどう見られているのかも、知りたかった。見られないことには、知られないことには、世界に存在しないのと一緒。
もったいない。なんてもったいないことをしているんだ自分は。せっかくここに立っているのに、その全部を味わわないなんて。これが全部じゃないだろ。これがすべてじゃないだろう。
すべてを、味わいたいじゃないか。
土井は見えない視界の中、一人狂喜に顔を歪ませ笑っていた。