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それから約一週間後。土井がバンドに合流してからおよそ二週間経った週末。バンド『yacell』の四人の姿は、とあるライブハウスにあった。
「ここがうちらがいつもお世話になってるライブハウス。『poco』」
「なんかライブハウスらしからぬ名前ですね……」
「そう? まー確かになんかちょっと気が抜けたとこはあるかもね。土井はライブハウス初めて?」
「初めてですよもちろん」
「ライブ見に行ったこともない感じ?」
「ないですないです全然。どんなライブも一回も」
「はは、すっごい否定。まーこういう小さいライブハウスとか最初はなかなか入りづらいよね。高校生なんかだと特に。うちらは知り合いいたからよかったけどさー」
「そうですか……いやでも、ほんとライブとかステージとか考えると、すでに緊張が……」
「ていうかさ、土井ってピアノやってたんじゃねえの?」
と外田が言う。
「はい、そうですけど」
「習ってたんでしょ? だったら発表会とかあったんじゃねえの? したらそっちのほうがはるかに客多くない?」
「……! た、確かに……」
「おい」
「いや、昔過ぎて忘れてたと言いますか、そういえばライブやってますね俺!」
「ライブではないけどな。そん時からそんな緊張してたの? 普通にできたんでしょ?」
「……緊張は、多分してたとは思います。あんま覚えてないですけど……正直記憶もうほとんどないですけど、でも一番ちゃんと覚えてるのは……終わってから、こう、椅子から立って、客席の方向いてお辞儀して、顔上げるとすごい照明が当たってて、客席が暗くて、人がたくさんいるのはわかるんですけど、でも顔はよく見えなくて、それで拍手が鳴ってて……」
そうだ、思い出した。言われるまで自分の人生にそんなことがあったなんてすっかり忘れていた。「男のくせにピアノ」「キモいくせにピアノ」「土井がピアノとかキモい」。そういうことを言われる前の、ピアノを純粋に楽しんでいた頃の記憶……あれは一体、自分が何歳ころのものだったのだろう……あの時弾いた曲は、なんだったっけ……
「いや、そんな鮮明にいいことしか覚えてないなら全然大丈夫じゃね? めっちゃできてんじゃん。だいたいその頃より今の方がはるかにできるわけでしょ? ピアノもギターも。だったら普通に自信しかなくね?」
それは、言われてみればその通りだった。けれども自分ひとりでは思いつくこともできなかったこと。自分は確かに、「成長」しているはずだった。あの頃の、発表会に出て何を弾いたか覚えていないがえらく簡単な曲を弾いて満足して拍手を浴びて誇らしげな気持ちになっていたはずの頃より、自分は遥かに、できるはずだ。だというのに、そんなことは思えない。
いつからそうなったのだろう。いったいいつから、自分はこうなったのだろう。思い出せない。何もわからない。人とうまくコミュニケーションをとれなかったから? 他人に色々言われたから? それも真実かもしれない。けれども本当に全部人のせいなのだろうか。それは確かにきっかけとしてはある。けれどもそれは、どれもこれも一瞬のその場限りのものであるはずだった。ならば何故。自分はいつまでもそれをひきずっている? いつの間に自分はこうなってしまった?
自分で自分にかけた呪い。他人よりはるかに強く自分に影響力を持つ、自分。そのせいで、自分はいつの間にかあの頃のことを忘れ、人を恐れ、見られることを恐れ、知られることを恐れ……
「じゃあ行こっか。リハの時間も限られてるしね」
と吉田が店内に入っていく。土井もはたと我に返り、その後に続いた。薄暗く狭い廊下。けれどもその先に、確かに彼が「土井無限」として初めて人前に立つ、世界に立つそのステージがある。
「こんにちはー。今日もお世話になりまーす」
と吉田が元気よく挨拶する。迎えたのはスキンヘッドで左右に分かれた口ひげで大柄の男性であった。
「おうらっしゃい。早いな。話は聞いてるよ」
「すみません無理言ってお願いして。ありがとうございます」
「おう。ってかもしかしてマチの代わりってそいつ?」
と男性は驚いた様子で最後尾にいる猫背でキモオタ風の男子、土井を指差す。
「そうです。土井くんです」
「マジ? 男かよ……いや、全然いいけどさ、男とは思ってなかったな……一部のファンがキレそうだな」
「そんな子供な人いないですってー。それにライブ見れば絶対納得するんで!」
吉田はそう言ってぐっと拳を握る。
「ふーん、そう……この子がねえ……」
いかにも信じてないふうに土井を見る男。そん顔には「ほんとにこいつで大丈夫なの?」という疑問がありありと浮かんでいる。ただでさえ女子の中に男一人であるのに、それに加えていかにもキモオタな風貌。バンドはおろか、楽器がひけるかすら怪しいといったところ。土井はその洗礼に萎縮してしまう。
怖い。やはり怖い。これがライブハウス……あまりにも、いかにもなライブハウス。内輪には優しいが部外者には冷たい。それは土井が思い描く通りの、偏見まみれのライブハウス像であった。
「土井、こちらのライブハウスの店長さん。今後も何かとお世話になるだろうからよろしくー。今日のことも無理言って少し早く開けてもらったからさ」
「あ、は、はい! す、すみませんでした! ありがとうございます!」
土井はそう言って大袈裟に頭を下げる。
「ああ、気にしなくていいよ。こいつらの、それにあいつらの頼みだしな」
「店長もカワさんたちには頭上がらないですもんね」
と言う古石。
「そりゃな。あいつらのおかげでここ数年は成り立ってたようなもんだし。いなかったら正直潰れてっかもだぞ」
「アオさんたちは?」
「あいつらはどうでもいい。迷惑客だ」
「あれでも固定ファン多いんすから勘弁してやってくださいよ」
と笑う外田。
「かもしれないけど酒癖引いたら何も残らねえよ。うちの新人が一番最初に覚える仕事はあいつらのゲロの始末だ」
「確かにそうかもしんないですね」
そう返して笑う外田。三人の様子は、普段見ているものと違う。いや、別に同じなのだが、こういうライブハウスという大人の場所で、大人と対等に会話をしている。そういうのをみるととても大人に見えたし、対象的に自分はひどく子供に思えた。自分には、圧倒的に社会経験というものが足りない。人間関係をしてこなかったつけだ。自分は果たして、こんなままでまともに大人になれるのだろうか。普通の、みんなと同じような大人になって、働いて……
いや、違う。これからだろ。これから間に合わせればいいだけじゃないか。運良く、本当に運良く自分は今ここにいる。幸運にもここに連れてきてもらえた。人がいる場所に。あそこで吉田さんに声をかけてもらっていなかったら、自分が応えていなかったら……自分は一生、一人のままだった。どこにも行かず、ずっと自室の中にこもっていた。誰とも話さず、社会などというものと関わらず……
でも、まだ間に合うだろ。間に合っただろ。まだ高校二年生だ。今からだろ。今から、少しでもみんなと同じようになればいいだけだろ。大変だろうけど、でも、今そのチャンスが回ってきただろ。
だから、ちゃんと、今から、やるだけだろ!
「じゃあ行こっか。案内するね。これから何度も来るだろうし色々覚えてさ」
と吉田が振り返る。
「は、はい! あ、そ、その、店長さん!」
土井は、胸を張り店長に正対する。
「ふ、不束者ですが! てちょっと意味違うかもしれませんけど、初心者ですが、というかなので、色々ご迷惑おかけすると思いますが、こ、今後とも末永くよろしくお願いします!」
土井はそう言い、頭を下げた。
店長は、吹き出した。
「ブッ、ハハハ! プロポーズかよ! おもしれーなーお前。なかなかうちにはいないタイプだわ。まあ緊張すんのもわかるからな。こんなとこだしよ、俺もこんなんだし。でもまあ、色んな意味でここは実力がすべてだ。ライブがすべてだ。そりゃ今みてえに挨拶、最低限の人間性みたいなのも当然必要だけどそれとは別にな。実力さえあれば一目置かれちまう。そんで勝手に上に行っていつの間にかこんなしょぼいハコには寄り付かなくなっちまう。そういう場所だここは。だからま、楽しんでけよ。それがすべてだ。一生ここでやるわけじゃねえんだしよ。俺もお前みたいなタイプは初めて見るから楽しみだよ。こいつらが選んだ新しいやつがどんなもんなのかな」
「――はい、がんばります! よろ、よろしくお願いします!」
そう言い、再びお辞儀。コミュニケーションのことなどわからない。未だに会話などどうすればいいかわからない。何をすればいいのか、わからない。自分はガキだ。どうしようもなく無知なガキ。でも、だからこそ。せめて挨拶だけは。挨拶だけは自分でできる限りきちんとやらなければ。
受け入れてもらいたい。ただ、自分もここにいていいのだと、受け入れてもらいたい。そうしてもらえさえすれば、あとは自分で、彼女たちと一緒に、やって、見せて……
そうすれば、徐々にこの世界にだって自分の居場所は増えるはずだ。
*
楽屋。そこは思ってたよりずっと狭い場所であった。ゆっくり休憩などできるようなスペースもない。土井は不慣れながらも手取り足取り教わりながら準備をする。
「さーて、じゃあいよいよ土井の『yacell』での初めてのリハだね!」
「は、はい……」
「まー今まで通りやってれば大丈夫だって。スタジオとはちょっと勝手が違うかもしれないけどやることは同じだし。とりあえず今日はやることやればいいだけだしさ」
それが何より大変なんじゃないか、とはさすがに言えなかった。何を聞いてもプレッシャーになる。緊張に結びつく。もっと別の話を、気を逸らすような話を……
「――あ、そういえばめちゃくちゃ今更なんですけど、みなさんの、というかこのバンドの名前、『yacell』って、普通にダイエットの痩せるなんですか……?」
「そうだよ」
「……なんで『痩せる』なんですか?」
「体脂肪と戦え! じゃん!」
吉田はそう答えピースする。
「……ダイエットってことですか?」
「それもそうだけど、わかるかもしれないけどライブってめっちゃ疲れるんだよね。汗かくし。痩せるよあれは」
「けどバンドマンには暴飲暴食、特に打ち上げの暴飲をする人間が多いから結局痩せてない人間が多い」
と外田が付け加える。
「まーそうだけどうちらはね。でも別に体重とかだけの話じゃなくてさ、なんかこう、ライブやってると痩せるんだよね。体重とか体脂肪とかそれだけじゃなくて、全然違う何かが」
「そうなんですか?」
「うん。土井もやってみればわかると思うよきっと。なんかね、削ぎ落とされてくんだ、全部が。余計なものがさ、どんどん削ぎ落とされてって、どんどん自分の中心しか残らない感じになっていって……気持ちっていうのかな。余計な考えとか、そういうのが全部なくなっていって、ただ体だけが残るっていうか、音だけが、ライブだけが残るっていうかさ。ほんとにもう、今ここっていう、それだけになって」
吉田はどこか恍惚な表情を浮かべて言い、ニッと笑った。
「だから私はライブが好き。一生ライブしてたいかな。土井にもわかるといいかなそれ。すごい気持ちいいから」
「早い話サウナで整うーだな」
と古石も言う。
「それはちょっと違うだろ。あれは単に死にかけてるだけで」
と外田。
「ライブだって死にかけてんじゃん」
「おっさんたちはね」
「バンドマンなんてサウナーだらけなんだからサウナの悪口言ってるとしばかれるぞー」
「ほとな。なんなんだろあれ。やっぱ死に急いでんの? 暴飲暴食の後にサウナで整いとかやってたらマジ死ぬじゃん。だからバンドマンには早死する人多いんじゃね?」
などと話す外田たち。そんな中で、土井は一人その「痩せる」について考えていた。
余計なものが、余計な言葉が全部削ぎ落とされていく……今ここ、体だけ。それだけになっていく……それは土井にとって、とても理想的に思えた。ずっと、長い間、今だってそうだが、自分は多すぎる余計な言葉に支配されてきた。余計な言葉でがんじがらめになってきた。それが自分を自分にしていて、自分のままにさせ続けていた。言葉言葉言葉。いつだって言葉が頭にある。余計な言葉。呪いの言葉。自分を縛る言葉。自分を、自分自身に、何も変えられず変わらず何もできない自分に。今だってそうだ。これだってそうだ。余計な言葉。これがなくなったら、それはどれだけ素敵だろうか……
吉田が恍惚とした表情をするのもわかる、気がする。自分が目指すところも、そこであるはずだった。そして何より、自分もそれを知っているはずだった。ライブじゃないが、一人だが。汗など少ないが、それでも。
あの練習の日々。ただひたすらに音楽だけをしている時間。あの間は、自分も余分な多くが削ぎ落とされている。自分を忘れる穏やかな時間。それが、もっと、きっと……
そこに行きたい。自分もそれを、味わいたい。そうして自分は、自分から解放されたい。そのためのライブ。みんなとなら、一人じゃないから、それができる。そこへ行ける。そのはずだ。でも、結局は自分自身。自分が自分から解放され、一歩を踏み出し、始めなければ。そうしない限り、一生そんな経験は味わえない。
痩せろ、痩せろ。もっと痩せるんだ。考えるな。言葉に支配されるな。言葉に動かされるな。自分にあるのは音楽だけだ。ギターだけだ。だからもっと削ぎ落とせ。思考を痩せさせろ。
痩せるんだ。自分が自分に、なるために。