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君は知っているだろうか。動画投稿サイトでは「コスプレして(ついでにちょっと露出して)ピアノやギターを弾いているだけ」の動画が恐るべき再生数を叩き出していることを。
初めはちょっとした出来心だった。俺はすごい、俺はお前たちとは違うんだ。現実に居場所がなくそんな思いに逃げていた土井はネットの世界に自分の世界を、逃げ場を求めていた。現実ではまともに喋れない。会話ができない。顔が見れない。目が見れない。キョドる。キモい。どもる。「コミュ障」のすべてを詰め込んだような存在。だから当然友達などいない。知り合いすらできない。それでも俺はすごいのだと、お前らなんかとは違うのだと、見下し、自尊心を慰める。お前らとは違う。だって俺にはこれがある。俺はすごいんだ。俺にはこれがあるんだ。
これというのはギター。ついでにピアノ。弾ける。ただ弾けるだけではなく自分はうまいと思っている。実際うまいはずだ。動画とかで見てても俺のほうがはるかにうまい。少なくともちゃらちゃら遊びでやっている同年代の奴らなんかより俺のほうがはるかにうまい。
おまけに歌もうまい。こっちは昔声楽もちゃんとやってたんだ。ちゃんとした歌い方を知っている。声域も広い。そのへんの「歌ってみた」とかやってる顔だけがウリのチャラ男とはわけが違うんだ。
俺はすごい。俺はできるんだ。それを今、俺は証明してみせる。
そうして始めた動画投稿。再生数は、伸び悩んだ。
何故だ、何故なんだ。絶対俺のほうがすごいはずなのに。俺のほうがうまい。ギターもピアノも歌もうまい。それなのになんで……
好きなアニソンを歌った。好きではない流行りの歌も歌った。投稿頻度も上げた。けれども、再生数は延びない。何故、どうして……
俺とこいつらで何が違うんだ。土井はそうして研究した。見比べた。気づいたのはビジュアル。サムネ。自分のは、いかにもキモオタな服装。首から上、顔は見せていないが一目でわかる。キモオタ特有のダサい服装。お母さんが買ってきた服。そして再生数がとんでもない動画は……
女。女性。しかもただの女性じゃない。サムネから違う。一目でわかる。コスプレ。露出。そういうサムネの動画は「嘘だろ!?」と思う再生回数を叩き出している。試しに動画を見てみるが、やはりギターもピアノも歌だって絶対自分の方がうまい。だというのに、再生回数には四桁以上の開き……
クソ、クソ、クソッ! こんな、エロで釣りやがって! 俺のほうがすごいのに! こんな露骨なエロに負けるなんて!
それでも、確かにそのサムネをクリックせずにはいられない魔力がそこにはあった。
現実に居場所がない土井。けれども人一倍自尊心と承認欲求は強い土井。というより現実で誰からも認められず気持ち悪がられているがゆえに反発してそれらが異常に強い土井。そんな事実は認められない。けれどもこのままでは対抗できない。同じ土俵にすら立てていない。そう、同じ土俵……
最初は、出来心だった。俺だって同じ条件なら。気づいたらネットで「女性キャラのコスプレ衣装」を買っていた。これさえあれば俺だって。そうして届いたコスプレ衣装を見ると、さすがのキモオタ土井でも躊躇する。これを、俺が着るのか? 本当に? けれどももう買ってしまった。金を払ってしまった。元は取らなければ。そうして自室の鍵をしめ、念入りに窓の鍵もしめ、カーテンも隙間なくしめ、土井はそれに袖を通した。
鏡に映る自分は、首から下はアニメキャラだった。
(これが、俺……?)
首から上はあえて見ない。下だけ。好きなアニメキャラが(正確にはその服が)そこにいる。試しにポーズをとってみる。かわいい。試しにその格好でギターを持ってみる。これだ! これ。鏡の状態でもわかるその強烈なサムネ力。ギャップ。しかし何かが足りない。胸だ。当然男の土井には胸がない。ガリガリだから一切ない。試しにタオルを詰めてみる。らしくなったが不自然だ。自然、勢いで胸パッドを買っていた。何かに駆り立てられるように、衝動で。そして脱毛クリームですね毛の処理もした。それはもうツルツルに。そうすると女子とも見間違える美脚が出来上がる。土井はキモオタだ。キモオタ特有の細さと白さを兼ね揃えている。それは結果的に女子っぽい生足を生み出した。あとは内股。
そうしてここに「女装コスプレで弾きながら歌ってみたユーチューバー」土井が爆誕した。投稿名は「イド」。土井という名字を逆さにし、ついでに精神分析の概念の一つの名称。本能的なリビドーを持ち欲動のまま行動する働きをするもの。 身体的と欲求、感情的な衝動、性欲の源。それが「イド」まさに女装した彼を言い表す言葉。ついでに「Ado」も少し意識したネーミング。
そうして「イド」として最初の動画を投稿した。
ここで一つ疑問が起こる。「どれだけ女装しても声が男だったら意味なくね?」。しかし土井にはその問題も解決するだけの能力があった。
土井は幼少期からピアノを習っていた。そのピアノの先生は元々声楽の出身だった。「無限くんはいい声ねー。声が高いし声域も広い! お歌の練習もしてみない?」と半ば趣味にも付き合うわされて歌っていた(ちなみに無限というのは土井の名前である)。歌うことは楽しかった。好きだった。元々うまかったしどんどんうまくなった。元来中性的、女性的な高い声でさらに高い音まで出せるようになった。もちろん練習で低い音も。結果として、彼は歌唱における「女声」を体得していた。
土井は撮った動画を見直した。問題ない……まったく問題ない。いける。どう見ても、どう聞いても女性としか思えない。ちゃんと首から上も映っていない。これなら絶対、男だとバレない。俺だとバレない。
土井は震える手で、アップロードをクリックした。
結果として、動画再生数はこれまでの比較にならないくらい伸びた。土井は歓喜した。やっと、やっと俺が認められた! やっと俺を世界に証明できた! どうだ、見ろ! これが俺だ! 俺はやっぱりすごいんだ! お前らなんかとは違うんだ! そう歓喜し、次のコスプレ衣装をポチる土井。あえて気づかないふりをしていたのかはわからなかったが、少なくともそこに「映って」いる姿は、まったく彼自身ではなかったのだが。
ともかく、動画再生数は増えた。土井はのめり込んでいった。再生数が増えればお金ももらえた。それで新しいコスプレ衣装も買った。こういうのはレパートリー。視聴者は常に新しいものを求めている。毎回同じじゃ飽きてすぐ見放される。
投稿する度再生数は増える。SNSのアカウントも作った。フォロワーが増える。動画にも肯定的なコメントが増える。「かわいい!」というコメントを見るとなんとも言えない気持ちが湧いてきて「ふひっw」と絶妙なオタクスマイルが浮かぶ。
のめり込んだ。もっともっと。俺の音楽を、俺の歌を。俺はすごいんだ。お前らとは違うんだ。あいつらとは違うんだ。お前らはこんな再生数稼げるか? こんなお金稼いでるか? お前らとは違うんだ。俺はすごいんだ。
そんな優越感を抱きながら、今日も一人うつむき学校へと向かうのであった。
*
女装しての動画投稿から半年ほどが経過した。ネット上ではすでに十分有名な動画投稿者となっていた土井であったが、現実は何も変わらなかった。友達などいない。いつも一人。ボサボサの髪にメガネでうつむいている。喋らない。典型的なコミュ障のキモオタ。誰からも見向きもされない。けれどもその内心では周りの人間を見下していた。
俺はお前らとは違う。俺には才能がある。俺は稼いでいる。俺はすごい。ほら見ろ、また昨日上げた動画が一日でこんなにも再生されている。次はどの曲をやろうか。リクエストはいっぱい来ている。それは衣装も同じこと。このキャラでやって。この服来て。そんな投稿。幸い動画で稼いでお金は十分にある。そうだ、見ろ。俺はこんなにも求められている。こんなにも認められている。
お前らとは違うんだ。なんの才能も持たず。毎日遊んでいるだけのお前らとは。
そうして放課後、一人教室で帰り支度をしていると、
「あーあんただ」
と突然近くで声がした。
「君、土井だったよね?」
名前を呼ばれ、土井は思わず振り向く。そこにいたのは、いかにもギャルっぽい女子だった。名前は知らない。けれども見覚えはある。去年も今年もクラスは違ったが異様に目立つ存在だ。いわゆる典型的な陽キャ。イキイキしている。自分なんかとはあまりにも違う存在。
「――え、え、ぼ、僕?」
と土井はキョロキョロしながら自分を指差す。内心の一人称は俺で威勢も良かったが、現実では僕でこんなものであった。
「うん、君。土井だよね?」
「あ、はい、そ、そうですけど……」
思わずどもる。どもりは昔からあった。そのせいでいじめられた。バカにされてきた。だからどんどん喋らなくなった。けれども歌う時だけは違った。歌う時だけは、どもらない。だからこそ歌うのが好きだった。
「そんな緊張しなくていいってw 今日これからだけど時間ある?」
「はひ? じ、時間ですか?」
「うん。ちょっと付き合ってくれない?」
「つ、付き合う?」
「うん。話したいこととかあるからさ。時間あるならちょっと付き合ってよ」
女子はそれだけ言って教室を出ていく。土井は、逡巡する。果たしてついていくべきか。ついていっていいのか。教室内の視線が刺さる。あのキモオタが女子に――「あの」吉田に話しかけられてたぞ、と。パシリじゃね? いじめか? なんでもいいがキョドる土井を見て笑っている。何にせよ、コミュ障の土井には断ることなどできず大人しくついていくしかなかった。
土井はそのまま彼女についていき、下校の道を歩いていた。
「……は、話ってその、どこに行くんでしょうか……」
「どこって土井んちでしょ」
「ぼ、僕の家!?」
「それ以外ないじゃん。丁度いいし。けど奇遇だよねーほんと。あるんだーって感じ。そういえばだけど土井って下の名前なんていうの?」
「はひ?」
「はひってw 土井って面白いね」
と心底愉快そうにケラケラ笑う女子。その姿にあまりにも自分とは人種が違うと感じる土井。
「は、はい、その……む、無限です……」
「ムゲン? って無限大とかの無限?」
「はい……」
「マジで!? やばっ、ちょーかっこいいじゃん!」
その言葉もまた、表情を見る限り本心からのものに思えた。そんなことを言われるのは土井にとっても初めての経験だった。名前もまた彼のコンプレックスの一つだった。このキモオタ、このコミュ障っぷりからの「無限」。いつだってその名前はギャップからバカにされてきた。笑われてきた。合わない。ダサっ。バカじゃん。それが普通。そんなふうに「かっこいい」などと言われたことは、一度もなかった。
「いいじゃん無限。そのまんまアーティスト名になりそう。MUGEN!」
そんな事を言って笑う女子生徒。
「そっちは私のこと知ってるもんね」
「え? ……あ、その、す、すみません……見たことはありますけど名前までは……」
「マそう 確かに挨拶の時顔合わせなかったもんねー。聞いてない?」
「はい? え、あ、挨拶って……」
「親から聞いてない? この前隣に引っ越してさ、それで家族で挨拶しにいったんだけど。土井はいなかったけどさ。そこで私も名前言ったんだけど」
「え? ……と、隣に引っ越し、ですか……?」
土井は思い出す。確かに数日前隣の借家に誰かが引っ越してきた。挨拶にも来たらしい。もちろん自分は顔を出さなかったが、親からも聞いていた。そういえば親が言っていた気がする。「隣の子あんたと同級生だって。同じ学校」と。
「……と、隣に越してきた方ですか……?」
「そうそう。吉田。吉田日出子。よろしくね」
吉田はそう言って軽く笑って手を掲げる。まさか、こんなかわいい、しかもギャルの同級生が隣に引っ越してくるなんて……
それなんてアニメ? と土井は内心で思っていた。現実の出来事も一旦アニメやゲームを通して変換しなければうまく認識できないオタクあるあるである。
「そ、そうでしたか……よ、よろしくお願いします……それでその、話っていうのは……」
「それは土井んちついてからね。一応確かめとかなきゃだし」
確かめるって何を? と思ったがそれは口に出せなかった。
それはともかく、そうして彼女と歩いていると気が気じゃない。土井は女子と話すこと自体ありえない。高校に入って一年ちょっと。その間に女子と交わした言葉の数は両手で数えられる程度のもの。女子と並んで歩くなど、最後は小学校の修学旅行の班別行動くらいではないだろうか。とにかく、女子などという生物と一切関わりがないのだからただでさえ緊張する上に、相手は「ギャル」。しかもかわいい。いかにもな「陽キャ」。そんな人間と自分が並んで歩いているなど、とてもじゃないが信じられない
そうしていたたまれない感情の中、ようやく家にたどり着く。
「改めて私お隣の吉田ー」
と吉田は笑って自分の家を指差す。
「あ、はい……ほんとに隣なんですね……」
「そうだよー。てかなんで土井敬語? うちらタメじゃん」
「あ、いや、でも……そ、そっちのほうが話しやすいんで」
「そう? ならいっか。無理させることないもんね。じゃあ案内してよ」
「は、はひ。というかその、ほんとにうちに来るんですか……?」
「うん」
「……ほ、ほんとにいいんですか……?」
「いいっていうかすでに行ってるし。玄関までだけど」
「……わ、わかりました……」
こういう人種は逆に自分みたいな人間の家に入るのを誰かに見られるとかもまったく気にしないのかもしれないな、などと思いつつ土井はドアを開け吉田を中に招き入れる。そうしてリビングに案内しようとすると、
「え、土井の部屋じゃないの?」
「え? ぼ、僕の部屋ですか?」
「ふつー友達来たら自分の部屋じゃない?」
友達……じゃないけど、やはりこういう人間はただの同級生だろうと全部「友達」なのだろうか、などと思いつつも、その響きにまんざらでもない土井であった。
「そ、そこまで言うなら僕の部屋行くけど……そ、その、狭いだろうし、こう、色々あるかもしれないけど……」
「大丈夫だって。別にめちゃくちゃ汚いわけじゃないんでしょ? 片付けてる間くらい外で待ってるし」
「……じゃあその、申し訳ないですけど、少々ここでお待ちいただいて……」
土井はそう言い、自室のドアを少しだけ開けその隙間からするりと中に入る。
女子が来た! この、自分の部屋に、女子が来る! そんなことは考えもしていなかった。土井は慌てて周囲を見回す。といっても日頃から整理整頓はしているので特に片付けるという必要もない。掃除機も運よく昨日かけたばかりだ。それでも時折どこからともなくやってくるのがちぢれ毛という存在であったが。
ともかく、掃除に関しては問題はない。すぐに窓を全開に開ける。その向こうに吉田が越してきたという隣家の二階の窓が見える。もしかすると、彼女はあの窓の部屋に……いやいや、そんないかにもアニメみたいなこと、さすがにありえないけど、でもほんとにあったら……
しばし妄想にふけっていた土井は我に返り慌てて首をふる。いかんいかん、こんなことしてる場合じゃない。そうして室内の臭いチェック。変な臭いは、しないはずだ。オナニーもここ数日していない。もとい女装投稿を始めてからその頻度は減っていた。それはリビドーを動画投稿で、そのコメントで満たせているのかもしれなかったし、女装することで土井の中の何かが少しずつ女性化している可能性もあったが、とにかく幸運なことにその点でも臭いには問題はないはずであった。とはいえ芳香剤の類もなく、今から室内の臭いをどうにかすることはできない。もはや自分の臭いなど自分の鼻ではわからなかったが、どうか無臭であってくれと祈るのみであった。
そうしてドアを開けようとするが、そこではたと気づく。この部屋には、自分には絶対見られてはいけないものがある。見つかってはいけないものがある。それすなわち「女装コスプレ衣装」。それに関するものすべて。土井はドアノブから手を離し、改めて室内を確認する。
女装に関するものは普段から徹底して管理していた。万が一にも家族にバレることはあってはならない。とにかく徹底して隠す。絶対にその痕跡すら残さない。見えるところになど絶対置かない。それを改めて確認し、すべてが各持ち場に置かれているか、隠されているかも改めてチェックする。
ない。大丈夫だ。なんら問題はない。どこからも見えない。本気で家探しでもしない限り見つからない。大丈夫だ。いける。これ以上待たせるわけにもいかない。
土井は意を決し、ドアを開けた。
「――お、お待たせしました……」
「ながっ! そんな散らかってたの? あんま音はしなかったけど」
「い、いえ、そうではないですけど、で、でも万が一にも粗相があったらいけないと思いまして……」
「粗相ってw ウケるw でもそれだけ几帳面で気遣いできるってことだもんね。それじゃお邪魔しまーす」
そう言い、土井の自室にとっては母親以外で初の「女性」が足を踏み入れた。
「ふーん。きれいにしてるんだね」
吉田は一通り部屋を眺めるとそう言って笑顔を見せる。
「あ、はい、ありがとうございます」
「はは、ありがとうって。ほんと律儀だねー」
「あの、それでその、飲み物とかは何がいいでしょうか。何があるか確認もしてないんですけど」
「別いいよーにそこまで気使わなくて。自分のあるしいざとなったら自分ち行けばいいだけだしね。すぐ隣」
吉田はそう言って笑いながら開け放たれた窓の外を指差す。
「あ、そ、そうですね。すみません座布団も何もなくて。迷惑でなければこれ使ってください」
と土井はデスクチェアを吉田の前に差し出す。
「いいの? 土井は?」
「僕はベッドにでも座っとくんで」
「じゃあ遠慮なく。てかいいの使ってるねー。これゲーミングチェアとかいうやつでしょ? 結構高くなかった?」
「そうですね。その、それは一万ちょっとくらいで……」
「高っ。椅子に一万とか無理だなー私は。バイトとかしてるの?」
「バイト、ってわけではないですけど、まあ似たようなものはちょっと……」
「ふーん。あ、入れてもらっといて早々で悪いんだけどちょっとスマホ見させてもらうね」
吉田はそう言うとスマホを取り出し、何やら操作して画面を見つめる。土井はその間手持ち無沙汰で、仕方なしにキョロキョロと自分の部屋を見回していた。
それにしても、自分のこの部屋にまさか女子が来るなんて。しかもこんなかわいい「ギャル」。しかも同級生。しかも制服。おまけにお隣に引っ越してきて……
始まったのか? ついに俺の人生も、俺のラブコメも始まったのか? こんなアニメとか漫画とかゲームみたいなことほんとにありえるのか? ここから俺の人生は一変するのか?
どうなんだ実際? そんなことって、ほんとにあり得るのか!?
「ごめんおまたせー」
といって吉田はスマホをしまう。
「てかギターあんじゃん。弾くんだ」
「え? あ、うん、ちょっと……趣味というか」
「いいねー、かっこいいじゃん。ピアノも弾くの?」
とキーボードの方も指差す。
「ま、まあね。ピアノは、小さい頃習ってて」
「へー、すご。なんでもできんじゃん。じゃあれ? 曲作ったりとかは?」
「そ、それは、したことないかな。さすがにできるとは思わないし」
「そっかー。実はねー、私もベースやってるんだー」
「え? べ、ベースってエレキベース?」
「うん。バンドも」
「そ、そうなんだ……す、すごい奇遇っていうか、あれだね」
「ほんとにね。それでさ、話あるって言ったじゃん? わざわざ家まで入れてもらって」
「え? あ、うん」
「まー一応確認なんだけど――これって土井だよね」
吉田はそう言ってスマホの画面を見せる。
そこに映されていたのは、女装コスプレ「イド」の動画のサムネであった。
一瞬、息が止まった。全身から急激にドバッと汗が溢れ出す。心臓がバクバク鳴っている。時間が止まる。絶体絶命。生命の危機。汗が滝のように流れる。
――バ、バ、バレた……
土井の思考は完全に止まっていた。
「いやねー、隣は男の子が一人だけって聞いてたから。でも窓の向こうの部屋から女の子が歌ってる声聞こえてくるじゃん? ギターとかピアノの音も。でも女の人お母さんだけみたいじゃん? 会って声聞いたけど全然違ったし、あんな若い声出せんだーとか思ったけどさ、聞いたら『私はギターなんて弾けないわよ全然』とか言うし。それでこの曲なんだっけー聞き覚えあるけどとか調べてさ、なんか雰囲気的に動画撮ってるのかなーってピンときて。ユーチューブ調べてみたらさ、見つけたんだ。その曲と歌声」
そう言って吉田はスマホの画面を見る。
「私耳いいから間違いないと思うんだよねー。試しに一回録音したし。ギターもピアノも歌も絶対同じだと思うしさー。聞こえてきたのから動画の更新タイミングも合ってるし。これお母さんじゃないんでしょ? お父さんなわけもないし。だったら土井じゃない? 体型見た感じもそうだけど」
「――し、し、知らないです……」
「違うじゃなくて知らないって。その答えもうアウトじゃない? でもこっちも確証はなかったからさ。でも今部屋見たら完全にそうだから。ギターもキーボードも同じだし」
は、ハメられた……ッ! 最初からそれが目的で!
そうだ、確かに、部屋とギターは隠せない。特に部屋は、動かすことすらできない。動画に残る、完全な証拠。こんなことなら裏にスクリーンでも……でもどのみちギターとキーボードが証拠になっていただろう。「見栄」として隠さずそのまま置いていたそれらが。しかもギターは二台。二台とも動画で使っている。一つならまだ偶然として言い逃れもできたかもしれないが、二台ならもう無理。そんな偶然は、ありえない。
やばい。どうすれば、どうすればいい……!? どう言い逃れする? どう嘘つく? ここから入れる保険なんてあるのか!?
どれだけ考えてもそんな答えはない。無理だ。詰んでいる。完全に証拠があるのだ。完全に、バレてしまった。相手は疑いなんて持っていない。確信している。確信というより、すでに答えが目の前にある。
もはやできるのは、被害を最小限に収めることだけであった。
「――さ、三万で……」
「え?」
「……さ、三万で手を打ってもらえませんか……?」
「……え、いや、ちょっと、」
「足りないなら五万! いや十万出しますから! だからどうかこのことは秘密に!」
「ちょ、わかったから落ち着いてって」
「落ち着いてなんかいられませんよ! 十万! どうか十万でお願いします!」
「わかったらか! とにかく落ち着いて! 静かにしないと全部バラすよ!」
「ーっ!」
土井はグッとこらえ、お口チャックマンになる。
「……えーっと、とりあえずね? 先にはっきり言っとくけど、私別にこれ誰かに言うつもりとかないから」
「ほ、ほんとですか……?」
「マジだって。言う意味ないじゃん」
「……な、なんで……」
「いや、なんでって……普通言わなくない?」
「……お金じゃないってことですか」
「いや、だからそういうんじゃ――あ、でもある意味でそっか」
「やっぱり! それで強請って俺になんかやらせる気ですね!?」
「だからそういうんじゃないって。ていうか今俺って」
「俺ですよ俺! 俺は普段はと言うか頭の中じゃ俺ですし! というかそんなのどうでもいいんです! やります! なんでもやります! やらせてください! どうかやらせてください! なんでもしますから、だからどうかこのことだけは秘密に!」
土井はそう言い、なりふり構わず土下座をする。
「――とりあえず顔上げてくれる?」
「はい!」
膝はついたまま、ズビっと顔を上げる。すると椅子に座ってる吉田の短いスカートの中が丁度見せそうな角度になる。
「すみません!」
思わず頭を下げすぐさま視界をそらす土井。
「え? あ、スカート……ほんと律儀っていうか」
吉田はそう言って苦笑する。
「とにかく普通に座ってよ。そのまんまじゃ話できないし、こっちも悪いことしてるみたいじゃん」
「はい! すみません! 失礼します!」
土井はそう言い頭は下げたままベッドに腰を下ろし直し、今一度頭を下げる。
「あー、うん……とにかくさ、ほんと信じてもらいたいんだけど、私は別にこれ誰かに言うつもりとかは全然ないよ。ほんとに」
「はい! ありがとうございます! なんでもさせていただきます!」
「だから何もさせないって」
「……あの、それがほんとだとすると……じゃあなんでわざわざうちまで来てその動画見せたりしたんですか……?」
「これはあくまで入りっていうか、確認。そういうのとは別にっていうか、全然脅しとかゆすりとか関係なくちょっとお願いっていうか話があって」
「やっぱり!」
「だから違うって! もう話し進まないから単刀直入に言うけど、土井バンドやんない?」
「はい? ――バンド、というのはその、体をバンドで縛って痛めつけるみたいな……」
「違うし! バンド! ロックバンド! ギターにベースにドラムにボーカル! 音楽!」
「ああ、そっちの……はい?」
「バンド。私さっきベースやってるバンドやってるって言ったじゃん。うちらのバンド入らない?」
「……それはその、俺が、吉田さんの、吉田さんたちのバンドに入る……入ってギターをやる……ライブとかをやる、ってことでしょうか?」
「うん。もちろんギターだけどキーボードもできるならそっちもさ。二刀流ってかっこよくない? あとボーカルだよね。土井めちゃくちゃ歌うまいし。今は私がボーカルやってるけど二人いたほうが表現広がるじゃん。男子だとなおさらさ」
「……俺が、バンドで、ギターとキーボードやりながら、ボーカルですか……?」
「うん。ちょっとねー、色々っていうか今までいたギターの人が受験勉強しなきゃいけないからって抜けちゃって。どう? バンド興味ない?」
「え、いや、それは……」
興味は、ないことはない。ゼロではない。けれども今までずっと、音楽は自分一人でやるものだった。仲間などいなかった。友達などいなかった。おまけに、人前で演奏などしたことがなかった。いや、もう遠い昔、ピアノの演奏会、それに先生たちの前で歌を歌うくらいはあったが、成長してから、大きくなってからは、もうそんなこともなくなっていた。
バンド。かっこいいと思う。もちろんかっこいい。なにより自分をはっきり見せつけられる。すごい自分を。どうだ、おれはすごいぞと。お前たちとは違うぞと。歓声を浴びられる。少なくとも、今の「女装コスプレ」なんかよりは断然かっこいい。
それに、自分はできるとも思う。俺はわかってる。俺はすごい。俺はうまい。そりゃバンドだってなんだってできるはずだ。そうだ、俺はできる。俺は知ってる。俺はやれるやつなんだ。そんな俺がバンドまで始めちゃったら、もう成功なんて二段飛ばしで……
それでも怖い。不安がある。自分の能力にではない。人の目。トラウマ。「男のくせにピアノなんか」「男のくせに歌うたってる」「男のくせに女みたいな声」「高い声キモい」「キモいくせにバンドとか」「キモいくせにギターとか」。そういう言葉が、頭の中に湧いてくる。
そうだ、怖い。人の目が。蔑まれるのが。馬鹿にされるのが。見下されるのが。そこは自分ひとりの宇宙じゃない。自分の部屋の中じゃない。「イド」として女装しコスプレし、まったくの別人として存在しているネットの中じゃない。
どこまでも自分だ。どこまでもこの俺、土井無限。喋れない、暗い、どもる、気持ち悪いキモオタだ。そんな俺が、バンドなんて……
無理だ。無理無理。第一そんなことする意味がどこにある。俺はもう十分有名じゃないか。十分人気者じゃないか。十分何者かで、十分稼いでいるじゃないか。今更バンドなんて、そんなことしてなんの意味がある。俺はもう十分すごいんだ。認められてるんだ。求められてるんだ。それでも。
この目の前のおそろしくかわいい女子と、バンドができる。そんなアニメのようなあり得ない青春、ほんとに逃していいんだろうか? こんなチャンスこの先あるのだろうか? 欲望がむくりむくりと起き上がる。
いや待て、そもそも信用していいのか? ほんとにこの人は俺と一緒にバンドをやりたいなんて思ってるのか? どっきり、罰ゲーム、そういうものじゃないのか? 全部嘘じゃないのか? のこのこ出向いた俺をみんなで笑いものにするだけじゃないのか? いや、というかそれ以前に。これそもそも俺に断ることなんてできるのか?
そうだ。脅しじゃない。ゆすりじゃないなどと言っているが、相手が秘密を握っていることは事実。握られていることは事実。そうである以上、初めから自分には選択肢なんかないんじゃないか?
そうだ、自分には選ぶ権利なんかない。詰んでいる。もう後戻りなどできないのだ。これが嘘であろうと真実であろうと、自分の生死を握られている以上、自分にできることは首を縦に振ることだけなのだ。それでも……
「――その、聞いてもいいですか?」
「なに?」
「……吉田さんはその、なんで俺なんかを、バンドに誘おうと思ったんですか……?」
「え、土井がめっちゃうまいからだけど」
吉田はなんてことないように即答する。
「でも最初は女子だと思ったんだ。歌ってる声聞いて。私も今は三人でやってるけどさ、やっぱりちょっと音的に足りないなーって思ってたところで。そしたら引っ越した隣の家からギターの音聞こえてくるじゃん? 女の子が歌ってるのも聞こえてくるし、ピアノの音までするし。これだ! って思ったよね。運命じゃんって。でもなんか聞いたら女子はいないっぽいし。でもめっちゃギターもピアノも歌もうまいし。だから絶対この子とバンドやりたい! って。まあ女子じゃなかったけど、でもうまいのは変わりないじゃん。女子の声出せるし。ていうか土井なんであんなほんとに女子みたいな声出せるの?」
「それは、その……練習といいますか、練習ってわけでもないんですけど……自分、元々地声が高くて、どっちかっていうと女子っぽい声で……それで、昔小さい頃ピアノやってたんですけど、そこの先生が声楽出身で、それで声楽も習ってたっていうか、遊びでやってて……その時に高い声の出し方、女性っぽい声の出し方とかも伸ばしてもらったと言いますか……」
「すご。それであんな出せるようになるんだ。でも今は普通に低いよね」
「あ、はい。それもその、練習じゃないですけど……もちろん声楽で低い方出す練習もしましたけど……でもそういうのとは別に、昔、男のくせに声高くてキモいとか言われて……」
「そっかー。男子とか平気でそういうこと言うもんね」
「はい。それでまあ、普段は低い声で話せるよう意識して……」
「それでも歌う時あんな声出せるんだからすごいよね。それ歌う時も低い方、男声でも歌えるってこと?」
「一応そうですね」
「すご。マジで万能じゃん。じゃあバンドやったってどっちも声いけんだ。マジで音域めちゃくちゃ広がるじゃん」
「それは、そう、かもしれないですね」
「そうだってー。マジですごいんだからもっと自信持ちなよ。え、でもさ、なんで土井はあんな動画上げてたの? あんなっていうか女装して女子の声で」
「そ、それは……」
来る時が来たか、年貢の納め時という心境。
「――ほんとに、正直に話しますと、再生数のためです……」
「あー、やっぱそっちのほうが全然違う?」
「違いますね。その、最初は男っていうか、このままでやってたんですけど、ほんと全然再生数伸びなくて……それで色々調べてっていうか、動画見てると、やっぱサムネで女の人がコスプレしてるだけで弾いてみたとか歌ってみたみたいな動画も再生数全然違うじゃないですか。それでこう、ちくしょうっていうか、気づいたら自分も女装してたといいますか……」
「それで再生数増えたから調子よくしてそのままどんどんって感じかー」
「おっしゃる通りです……」
「でも確かに再生数って大事だよねー。見てもらわないと意味ないし。あれだけ動画あるとほんとサムネ勝負だしさ。どれだけうまくても。そりゃやるからにはみんなに見てほしいもんね」
「そうですね……あの、吉田さんは、気持ち悪いとか思わないんですか……?」
「え? 土井のこと?」
「はい。というかあれ、女装とかコスプレですけど……」
「まーキモイはキモいんじゃない?」
グサッ、と胸に突き刺さる言葉。
「でも別に本人の自由だしね。どんな格好だってすごいんだからそれでいいし。だってめっちゃかっこいいじゃんあれ」
「え、そ、そうですか?」
「うん。かっこいいよ。かっことか関係ないじゃん。あんだけギターもピアノもうまくて歌までうまかったらさ。かっこなんておまけっていうか、ついででしょ。みんなだって別にあのかっこだけ目当てに見てるわけじゃないんじゃない? 最初はそうでも次からは純粋に演奏見たいって」
「ほ、ほんとですか……?」
「私はそう思うかな」
「そうですか……あの、一つ聞きたいんですけど、あれ、ほんとに女子だと思いましたか……? 俺だってバレたりしませんかね……」
「んー、私の場合先に土井っていうかお隣には男子しかいないって情報あったからあれだけど、それでもあれ見て土井だとはわからなかったかな。思いもしなかったし。わからない人なら普通にわからないと思うよ? それこそ部屋とか見ない限りは」
「そ、そうですか……」
よかった、とほっと安堵する土井。
「それよりどう? バンド」
「はい? あ、そうでしたね……」
「はっきり言っとくけど、私も本気だから。冗談とか半端な気持ちで誘ったりしないし。そりゃ土井のあれとか見て多少は面食らったけど、でも土井の腕は本物じゃん。歌は。それ以外は全部関係なくてさ、ほんとにあの演奏と歌聞いて、この人とバンドやりたい! って、本気でそう思って誘ってるから」
吉田は笑わず、真剣な目でまっすぐに土井の目を見て言う。そんなふうに誰かにまっすぐ見つめられることなど、随分久しぶりだった。しかもこんな可愛い女子から、この距離で。元来人と目を合わせられない土井。思わずそらしそうになるが、それももったいないとなんとか視線を維持する。が、体が当然慣れておらず、
「ふひっ」
と思わず声が屁のように漏れた。
「ふひって、なにそれめっちゃキモオタっぽい!」
と爆笑する吉田。
「すす、すみません思わず」
「ハハッ、マジウケる。土井っておもしろいよねーほんと」
おもしろい? おもしろいのかこれ? キモイの間違いじゃないのか? というか面白いなんて言われたの多分生まれて初めてだぞ!? などと思いつつもキモオタスマイルを抑えきれない土井。
「とにかくさ、考えてみてよ。今すぐ答えだしてなんて言わないから。ていうかさ、土井はどうなの?」
「はい? 何がでしょうか……」
「土井はバンドやってみたくない?」
「それは……」
「最高だよ。客席に向かってさ、自分の存在叩きつけて。自分たちの演奏で、歌で盛り上がって。世界が一つになるっていうか、自分はたしかにここに存在するって、生まれてきた意味がわかるっていうか、そういう快感」
そういう、快感。そんなものは、動画投稿では確かになかった。時差。遅れている。双方向ではない。けれどもなにより、確かにそこには物足りなさがあった。それにそこにいる自分は正確には自分ではなかった。なにより、承認欲求のために、自己満足で、ただ自分を慰めるためだけに……自慰。公開オナニー。そういう類の虚しさ。
「土井はほんとに満足? 動画だけ撮って、ネットに上げてるだけでさ。一人で。もっと自分を知らしめたくない? 仲間と一緒に一つになってやってみたくない? 私は土井とやりたいし、もっとみんなに土井のこと知ってほしいと思うけど。こんなすごい人がいるんだぞって」
そんな言葉。そんな言葉は、今まで誰からもかけられたことはなかった。
想像する。ステージ上。客席に向かって、ライブをする。歌う。ギターを掻き鳴らす。ライブ映像で見てきた光景。それにずっと惹かれてきた自分がいることも、また確かであった。自分もそこに立てたら。そんなことができたら。でも、自分なんかには……
「無理強いはしないけどさ、やってみない? やってみないとわからないんだし。やればわかるかもしれないし。やってみて嫌だったら全然やめたっていいし。とりあえず一回くらいはどうかな。とにかくさ、できるできないとかじゃなくて、やりたいかどうかで決めてみない?」
やりたいか、どうか。自分は、やりたいのか? できるのか? いや、できるかどうかじゃない。自分の気持ち。本当の気持ち。
やりたいかどうか。何に惹かれるか。何を理想とするか。その欲求。
自分がずっと、本当にやりたかったこと。なりたかった、自分。
「――とりあえず、試しに」
絞り出せたのは、なんとも情けない言葉だった。それでも土井にとってはあまりにも大きな一歩だった。
「ほんと?」
「はい……で、でも、やってみて、できなかったら、無理だったらその、すぐにでも全然、諦めてもらっていいんで……」
「そんなことないって。まーメンバーもいるから私一人では断言できないけど、でも土井なら大丈夫だよ。だってあんなすごいんだもん」
その、あまりにも確信的な言葉。信頼。無条件、無根拠ともいえる信頼。けれどもそれは無根拠なんかじゃない。少なくとも、どんな形であれ土井の演奏と歌を聞いたからこそ言える言葉。その信頼は、土井本人ではなく、彼の演奏と歌にある。実際耳にしたそれにある。それならば、土井自身にも納得はできた。自分だって、それには、それにだけは、自信はあると。
「――ありがとうございます。やります。やらせてください! どうなるかはわかりませんけど、でも吉田さんに選んでもらったからには、吉田さんのその信頼に答えられるよう、がんばります! だからその、よろしくお願いします!」
土井はそう言い、頭を下げた。吉田は、満面の笑みを見せた。
「うん、ありがとう! こっちこそよろしくね!」
吉田はそう言い、握手を求めてを差し出した。その、いかにも柔らかそうな白い手。土井は思わず凝視する。こんな、女子の手……絶対生暖かそうな、リアルの女子の手……そんなもの、自分が触っていいのか? というか女子の手を握ったことなんて、握手したことなんて多分今まで一度もないぞ? それこそ幼稚園の頃なんかは別かもしれないけど。などと思いつつも、恐る恐ると差し出された手に手を伸ばす。
そうしてその手を、ほんとにそっと、握り返した。
「――ふひっ」
思わずまた、キモオタスマイルが音とともに漏れていた。
「また、ふひって! 土井ほんとウケるw」
そう言ってほんとに楽しそうに笑う吉田。その笑顔を見ていると土井もつられて笑みが溢れるのであった。そういえば、こんなふうに笑ったのなんていつ以来だろう……
「よし! そうと決まれば早速メンバーに紹介しないとね! 土井のことみんなにも知ってもらいたいし! 明日大丈夫?」
「は、はひ! 全然大丈夫です! 暇なので!」
「そっか。じゃあ早速連絡とっとくね。じゃあまた明日!」
吉田はそう言い、立ち上がり手を振る。土井も思わずキモオタスマイルで手を振り返す。また明日。そんな言葉も、最後に言われたのはいつだったろう……
「――あ、そうだ。土井の動画だけどさ、結構再生数すごいことになってるじゃん」
「あ、そうですね……」
「……やっぱあれ相当儲かってる?」
「それなりには……」
「やっぱそうか……あのさ、別に全然脅しとかゆすりとかじゃないんだけど、バンド活動にちょーっとカンパしてもらえたりする?」
吉田はそう言い、手を合わせ「お願い!」といった具合に片目をつぶる。その仕草に、女子への耐性など皆無に等しい土井は一撃で落とされるのであった。
「ふひっ……も、もちろん……」
土井は、満面のオタクスマイルでそう答えるのであった。