踊れない公爵令嬢は、舞踏会に行きたくない。
途中で一度、王子視点に切り替わります(◆)。
公爵令嬢・マリアンヌは、舞踏会に行きたくなかった。
ちょっとしたワガママというレベルではない。
絶対に行きたくない。
行くくらいなら公爵令嬢の地位など捨てていいとさえ思い詰めることもある。
理由は単純で、ダンスが踊れないからだ。
そんなことで? と思われるほどの理由だが、マリアンヌにとってはこの世で一番深刻な問題だった。
もちろん淑女の嗜みとして、幼い頃からダンスの練習は当然受けている。しかしちっとも上達しない。いや、上達しないどころではない。およそ人の動きとは思えぬ、ネジの外れたゼンマイ人形のような奇妙な動きは、思わず笑ってしまうような、どこかゾッとするような、珍妙極まりないものだった。
もちろんマリアンヌだって努力はしているが、あまりにも進歩がなければ誰だってやめたくもなる。教える側だって同じこと。ダンス教師たちもすっかり匙を投げてしまい、今では教えてくれる者もいなかった。
さらに幸か不幸か、マリアンヌはダンス以外のことなら完璧な淑女だった。身分も高く、美しさと気品を兼ね備え、礼儀も知識も十二分だ。人前で失敗などしたことはない。
さらに、マリアンヌはその完璧な淑女ぶりを買われ、王子の婚約者にもなっている。
同年代の令嬢たちは、そんなマリアンヌを憧れと尊敬のまなざしで遠巻きに見ていたし、令息たちには高嶺の花と噂されていた。王子との婚約が決まった時も、誰もがさもありなんと納得した。
未来の王妃、完全無欠の淑女・マリアンヌ。だからこそ余計に、無様な姿を人目にさらすことに強烈な抵抗があった。
そんなわけで、マリアンヌは公爵令嬢にも関わらず、夜会も舞踏会も欠席し続けた。
しかし、そろそろ成人が近くなるとそうもいかなくなってくる。夜会は社交の場であったし、催事要素の強い舞踏会には公爵家としても出席する必要がある。ましてや王子の婚約者が、王家主催の舞踏会に欠席し続けるとなると、いやでも口さがない噂が立ち始める。
しかし、どうあがいても、踊れない。ならばいっそ、踊らないで済む方法はないかと考えたが、これも難しい。婚約者の王子は、自分が出席すれば必ずファーストダンスを申し込んでくるだろう。そうなれば、断ることはできない。
ならば、婚約者の王子に事情を打ち明けて、踊らないで済むような方法はないかとも考えた。けれど、王子が婚約者をダンスに誘わないとなれば、それはそれで社交上、非常に不名誉なことになる。そもそも、王子に自分の恥をさらすのは嫌だった。婚約者の公爵令嬢がダンスを踊れないと知れば、王子はきっとひどく幻滅するだろう。
結局、堂々巡りを繰り返しては、一度も出席することはないまま今に至っている。
婚約者の王子からは夜会や舞踏会がある度に、毎回律儀に招待状が送られてくる。
マリアンヌは丁寧な文字で綴られた綺麗な招待状を見てため息をつき、出席できないことを申し訳ないと思いながらも、毎回体調不良と言って欠席した。
ずっとこのまま欠席し続けられるわけもないとわかっていたが、次こそは、次こそはと、ずるずる先延ばしにしてしまっている。
婚約者の王子は、容姿も性格も非の打ち所がない。およそ王子様と表される要素を詰め込んだような人物だ。
初めて顔合わせをしたのはもう二年近くも前のこと。金色の髪と青い瞳の端正な顔立ちに、物腰柔らかく気品のある身のこなし。武芸もたしなんでいるのであろう、成長しかかった体は男性らしいたくましさを予感させた。
緊張していたマリアンヌに、王子は優しく微笑んで、どうぞよろしくと丁寧に挨拶をしてくれたことは今でも記憶に鮮やかだ。マリアンヌは初めて会ったその日に王子を好きになった。政略結婚ではあるものの、この人が相手で本当に良かったと心から思ったものだった。
婚約が決まってからというもの、王子は事あるごとに贈り物を届けてくれたし、お茶会にもよく誘ってくれた。初めはマリアンヌも単純にうれしかったが、優しく接されるたびに、夜会も舞踏会も欠席し続ける負い目がじわじわと膨らんでいった。
ある日、お茶会の席で「次の舞踏会はぜひご一緒に」と面と向かって誘われたとき、直接断るのがしんどくなって会うのを避けるようになった。
一度会うのを避けてしまえば、次も会いづらくなる。そんな風にして、この半年ほどはまともに会う機会を持てなかった。
贈り物をもらっても、嬉しくなるより苦しくなる。
いっそ見放してくれたらいいのにとも思ったが、王子はずっと贈り物を届け続ける。どれも自分のために、心を込めて選ばれてきたのだとわかる品々。一つひとつに、うれしい気持ちと感謝を伝えたかったが、そんなことよりも伝えるべきことがあるのではないかと、筆が止まっていつも通り一遍の礼状しか返せない。
どうして舞踏会に出たくないのか。
たった一言、踊れないと言えばよかったのかもしれない。それはマリアンヌにもわかっていた。
けれど、ダンス以外は完璧なマリアンヌにとって、何かをできないと言うことはとても難しいことだった。
失望されるのが怖くてたまらなかった。
とっくに愛想は尽かされているかもしれないが、ここまで引き延ばしてしまっては、もうどうしようもなかった。
* * * * *
とうとう次の舞踏会の誘いに、王子自らが屋敷を訪れた。
久しぶりに会う婚約者は、記憶の中よりも随分と大人びて見えた。マリアンヌは一瞬胸をときめかせたが、長らくの不義理が負い目となって甘い感情はすぐに引っ込み、重苦しい気持ちが広がっていく。
これほど避け続けてきた自分のことを、王子は快く思っていないだろう。
王子は完璧な微笑みを爽やかに浮かべていて、その表情から真意を読み取ることはできなかった。
「次の舞踏会は、私が初めての主催を務めます。ぜひ、マリアンヌ嬢にもご出席願いたく、不躾とは存じますが直接招待に参りました」
そう言うと、王子はマリアンヌの手を取り、うやうやしく手の甲にキスをした。
初めて会った時と同じように、絵本の中から出てきたような王子様ぶりだ。けれど、マリアンヌはどこか冷ややかなものを感じて思わず手をこわばらせる。
公爵夫妻はそのことに気づかず喜んで王子と会話を続けていた。
「もちろん喜んで参加させていただきますわ」
「わざわざお越しいただいて恐縮の限りですよ」
「いえ、婚約者として当然のことです」
「王子もご主催される立場におなりなのですね。ずいぶんとご立派になられまして」
「まだまだ若輩者です。これからもぜひご指導ご鞭撻をお願いできれば幸いです」
しばらく和やかに話をした後、公爵夫妻は「後は久しぶりにお二人で」、と言いおいて満足げに部屋を後にした。
二人きりになると、部屋に沈黙が降りた。
マリアンヌは何を話せばいいか戸惑った。まずはしばらく会わなかった不義理を詫びればいいのか。そもそも舞踏会のことはどうすればいいのだろう。なんと言えば、欠席する理由になりえるだろうか。
逡巡していると、王子の不機嫌な声が響いた。
「次の舞踏会は、来てくださいますね?」
パッと顔を上げて王子の顔を見れば、先ほどまでの笑顔はなく、明らかに苛立った姿が目に入る。いつも笑顔を浮かべている王子のこんな姿は初めて見た。
マリアンヌは声が喉に張り付いて返事ができなかった。
怒っている。当たり前だ。
でも、やっぱり。
――行きたくない。
けれど、王子の顔を見てしまっては、そんなことは口に出せそうにない。
返事をためらうマリアンヌを見て、王子はため息をついた。
端正な顔が不機嫌にしかめられ、声にはさらに苛立ちが混じる。
「私が初めて主催する舞踏会です。さすがに婚約者を同伴しないと格好がつきません」
それは言われなくてもマリアンヌにもわかっていて、わざわざ言わせたことが申し訳なかった。
初めての主催ともなれば、いつも以上に同伴者の存在は重要で、一人で出席することなどあり得ない。かといって、婚約者のいる立場ともなれば、他の女性を伴うこともできないだろう。
そもそもこれまでマリアンヌが一度も夜会にも舞踏会にも出席せず、婚約者を一人にさせていたこと自体が既に問題なのだ。
「……申し訳、ありません」
思わず口をついて出た謝罪に、王子は青い目をかっと見開いで怒りを露わにした。
「なんで、そんなに嫌なんですか!」
王子が声を荒げたのは初めてだった。マリアンヌは思わず体を縮こめる。
ここまで言われても、舞踏会に出席すると言えない自分をマリアンヌは心底恥じた。それでも大勢の目に自分の姿が晒されることを想像するだけで、体が痺れるような恐怖と羞恥でいっぱいになる。
でも、このまま黙っていては王子との関係は取り返しのつかないものになると感覚的にわかった。何か言わなければ。いくつもの言い訳が頭に浮かんだが、きっとそれではダメだろう。ずっと隠してきたが、こうまで言われてしまってはもう話すしかない。
マリアンヌは覚悟を決め、震える声でなんとか言葉を押し出した。
「……私、ダンスが、踊れなくて、それで」
「は?」
王子の冷たい一言が、耳を刺すように響いて客間に落ちる。
「……なんだ、それ。踊れないって、公爵令嬢が踊れないわけないだろう。よくそんな言い訳を言えるな……俺と行きたくないならそう言えばいい」
「ほ、本当です……だから、私、ずっと夜会にも舞踏会にも」
「だったら練習すればいいじゃないか」
呆れと憤りを溜めた声が吐き捨てられる。いつも丁寧な口調も、随分と崩れてしまっている。
マリアンヌは唇を噛んだ。涙をこぼすのはなんとか耐えた。
これまで数えきれないほど練習しても一向に上達せず、あんまりひどくて教えてくれる者はもういないこと、おそらく時間で言えば誰よりもダンスに取り組んで悩み続けていることなどが頭をよぎっていく。
やはりどんなに下手でも出席した方がいいのだろうか。
けれど、あんな無様な姿を見られてしまったら、目の前にいる完璧な王子様はきっとさらに幻滅するだろう。百年の恋も冷める、というやつだ。そんなことは耐えられない。
マリアンヌは何を言えばいいのか、頭の中がぐちゃぐちゃになってわからなくなった。
また長い沈黙が続いた。
次に口を開いたのは、王子だった。
怒鳴るのを我慢しているような、自嘲を含んだ低い声が溢れ出す。
「君にはわからないだろうな。たった一人で夜会や舞踏会に立つことが、どれほど惨めなことか」
マリアンヌからの返事などいらないとでもいうように、独り言のように王子は言葉を続ける。
「婚約者と踊ってもいないのに、他の令嬢と踊るわけにもいかない。だから俺は、夜会でも舞踏会でもダンスを踊ったことがない。一度も。社交場では、俺はダンスの踊れない王子として格好の噂の種だ。
それでもいつかは君が来てくれるだろうと、もし一緒に踊れるなら君に満足してもらえるようにと、ずっとダンスの練習も欠かさず待っていたが、それも随分間抜けに見えるだろうな」
一人で参加し続けた夜会で、王子がどのように見られていたのか。マリアンヌはその姿を想像して罪悪感でいっぱいになった。
もし、自分が逆の立場だったらと思うと背筋が凍るような心地になる。
「それに君との破談を目論んで、娘をアプローチさせる貴族たちをあしらうのがどれほど面倒なことか。下手な対応もするわけにいかない。足元をすくおうと狙っている貴族連中に、つまらない醜聞など与えたくはないんだ」
ずっと積もってきた思いを止められないように、王子は一息に話した。
「……ごめんなさい」
消えてしまいそうに呟いた言葉は、王子に届いたのかはわからなかった。
何も解決していないことだけは、はっきりとわかる。
王子は大きく息を吐き、姿勢を正すと丁寧な口調に戻った。
「もう、結構です。欠席で構いません。一人だろうと、今までと変わらないわけですから平気です」
王子は冷ややかな顔でマリアンヌを一瞥すると、振り返ることなく部屋を出て行った。
* * * * *
王子が部屋を出て行った後、マリアンヌはひどく後悔した。
自分が恥をかきたくないからと、これまで王子を身代わりにしていたんだと、ようやく気付いたのだ。たった一人で出席する夜会や舞踏会で王子がどんな気持ちでいたのか、今まで考えたこともなかった。
これまで自分のことばかり考えていたのが、とても恥ずかしかった。
もう一度謝りたくて思わず後を追いかけたが、屋敷の外には広い庭園が広がるばかりで王子の姿はもう見えなかった。
マリアンヌは無性に一人になりたくて、心配する侍女たちを留め置き一人で庭園に出た。
そのままふらふらと庭園を歩いているうちに、随分奥の方まで来てしまった。屋敷のはずれの方だろう。手入れはされているが、人の気配はなく、農具がいくつか置かれているのも目に入る。
周りに誰もいないことを確かめて、マリアンヌは庭園の木陰でワルツを踊ってみた。
音楽はなくとも覚えている。大抵の舞踏曲ならそらんじているし、自分で演奏もできるほど何度も何度も聴き込んでいる。
けれども、体はやっぱり不恰好にしか動かない。焼けた鉄板の上で鉄の靴を履いて踊る魔女みたいだ。もし通りすがるものがいれば、その異様な動きにきっと恐怖を抱くに違いない。頭の中で完璧な音楽と踊りのイメージがあるだけに、尚更自分の出来の悪さが際立つ。
いつの間にか、マリアンヌは泣いていた。
何が悲しいのか、もうよくわからなかった。
踊れないのが悔しいのか、王子に申し訳なくて泣いているのか、それとも何かまだ自分が気付いていない事への悲しみなのか。
マリアンヌは、何回目かわからなくなるほどワルツを口ずさみ、泣きながら踊り、飛び跳ね続けた。
どれくらい踊っていただろうか。ふと、奥の茂みで小さな動物の立てる悲鳴が聞こえた。
マリアンヌは踊るのをやめて、茂みを覗き込んだ。
すると、きれいな金色の猫がカラスに襲われているところだった。今にも背中に爪が食い込みそうだ。
慌てて近くにあった鍬を振り上げる。
鍬は重かったが、マリアンヌは無我夢中で鍬を振り回した。
急に現れたマリアンヌに驚いたカラスは、甲高く一声鳴くと飛んで逃げていった。
「大丈夫?」
そう言って金色の猫を見下ろすと、猫は乱れた毛並みをなおそうと体を拭って舐めているところだったが、パッとマリアンヌを見上げてきた。
きれいな青い目がじっとマリアンヌを見つめている。
ついさっき、とても似たような目を見ていたような……
「助かった。礼を言う。手は大丈夫か?」
不意に猫が人間の言葉で礼を言ったので、マリアンヌは驚いて、誰に似ていたか思い出すことを頭から消してしまった。
猫の割には礼儀正しく、偉そうなのに気遣いを見せる物言いはまるで猫の王様みたいで、マリアンヌは少しおかしくなった。
猫に言われたまま手のひらを見てみると、重い鍬を振り回したせいで少し皮がむけて赤くなっていた。
「あ、赤くなってる。でも大丈夫よ。血は出てないし、すぐに治るわ」
「あんな鍬なんか振り回すから」
「そうね、とても重かったけど、さっきは夢中だったから……もう襲われないように気をつけて」
頭をなでてやると、猫は不機嫌そうにヒゲを揺らした。
「君が変な動きをしてたから、思わず見てたら襲われたんだ」
「それは別に私のせいでは……」
「泣いてたのか」
心配そうな声で聞かれ、思わずマリアンヌはこれまでのことを金色の猫に話していた。誰かに聞いてもらいたかったのだ。
事の次第を話す間、金色の猫はじっと黙って聞いていた。そして、話を聞き終わった猫は、助けてもらったお礼がわりにダンスが踊れるように教えてやる、と言い出した。
いつもならどうせ無駄なことだと断っただろうが、マリアンヌは今度こそ踊れるようになりたかった。
いや、いっそ踊れなくてもいい。舞踏会に出席して、王子の隣に立ちたかった。おかしな動きと笑われても、愛想を尽かされたとしても仕方ない。もう愛想は尽きるところまでつかされている。
もう叶わないかもしれないが、これまでのことを謝りたかったし、そのためにできることをしたかった。上手く踊れないにしても、少なくとも人の動きくらいにはなりたかったし、見た人を不快な気持ちにはさせたくない。
そう言うと、金色の猫は少し目を細めたが、何を考えているのかはわからなかった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
マリアンヌと別れた後、金色の猫は庭園の真ん中を突っ切って、公爵家の正門に停めてある王家の印がついた馬車のそばまで来ると、木陰でするりと魔法を解いた。
はたせるかな、金色の猫は王子の姿に戻っていく。
王家にはまれに魔力を持った人間が生まれることがあり、王子は猫に変身することができた。
と言っても、何かしら役に立つ能力というわけではない。何せ猫だ。どうせなら狼だとか虎だとか、勇猛な動物が良かったと王子はひそかに思ったものだ。だから、特に他人に言ったこともない。ただ、窮屈な王宮生活に疲れた時の息抜きとして、たまに猫の姿で城を歩き回れるのはよかった。城の人々は金色の猫を王子が飼っている猫だと信じて疑わない。
完璧な王子様も、実のところは普通の人間だ。少々短気なところもあるし、口調だって意識して丁寧にしているだけ。それでも、そうすることで周りの人々が感心したり、美しい婚約者が慕ってくれたりするならばと、自分の役目として振る舞っている。求められる姿を見せることは王子にとって難しくはなかったが、四六時中だと気疲れもする。だからこそ、気分の晴れない時や気持ちを落ち着けたい時には、特に猫の姿になっていたかった。
人の姿に戻った王子は待っていた馬車へ乗り込むと、城へ戻りながら先ほど庭園で起きたことを思い返した。
◆
マリアンヌを責めて屋敷を出た後、王子は腹立たしい気持ちのまま足早に馬車へと向かったが、あんまり気持ちが収まらなかったので、こっそり猫の姿になって公爵家の庭園を走り回っていた。
ああまで言っても、マリアンヌは承諾の返事をしなかった。すまなそうにしていたのは本心だと信じたいが、それでも舞踏会へ出席するとは言わなかった。
信じたい、か。
いまだに彼女のことを信じたい気持ちが残っているのは、自分でも笑えてしまう。次こそは一緒に出席できるだろうと何度も期待して、何度も失望を味わってきたというのに。
マリアンヌと婚約が決まって初めて顔合わせをした日に、王子は彼女が好きになった。
気品があって美しくて、凛とした雰囲気に目を奪われた。話しかけてみれば、冷静に見えた彼女は思った以上に緊張していて、それでもとても頑張って公爵令嬢らしく立派に振舞おうとしていることがすぐにわかった。とてもかわいい人だと王子は愛おしい気持ちを抱いた。
これからこのステキな女の子と自分が一番仲良くなれると思うと、とてもうれしかった。プレゼントを贈りあったり、舞踏会で一緒に踊ったり、遠乗りへ出かけたり。たくさんしたいことがあった。
浮かれた気持ちで、たくさん贈り物をして、何度もお茶会に誘った。二人で過ごす時間は楽しくて、仲良くなれたつもりだった。
けれど、彼女はなぜか一度も夜会や舞踏会には出席しなかった。いつも体調不良だと言って、誘いを断る。
最初のうちは体調不良という彼女を心配していたが、三度四度と続けば、さすがにおかしいと思い始める。お茶会や個人的な訪問とは違い、夜会は社交場でもあるし、王宮の舞踏会は公式行事だ。
公式の場にどうして彼女は同伴してくれないのだろう。
じわじわと黒い気持ちが胸の奥に溜まっていく。
社交界では婚約者を同伴しない自分への視線が訝しいものになっていく。不愉快なまでに下心を滲ませた娘たちも集まってくる。彼女さえ隣にいてくれれば、こんな思いをしなくて済むというのに。
マリアンヌがかたくなに夜会や舞踏会に参加しない理由はわからなかった。
彼女のことを思うと楽しみばかりだった気持ちに、苦いものが混じり始めたのはいつからだっただろう。
そうこうするうちに、会うことすらも遠回しに断られることが多くなった。何度も断られれば、さすがに誘う回数も減ってくる。時間が空いてしまえば、会うこと自体が妙に難しくなった。
それでも舞踏会の招待を欠かさず手書きで送っていたのは、いつかきっと彼女と一緒に公式の場に出られると期待していたからだ。そうしたら、きっとまた前みたいに気軽に会ったり、話をしたりできるようになるだろうと。
贈り物を送り続けたのも、関係を切らしたくなかったから。戻ってくる礼状が、形式的な文面になっていくたびに心が削られた。
だから、今日は思い切って直接誘いに来たというのに。
踊れないだなんて、そんな言い訳で誤魔化せると思われたのだろうか。
公爵令嬢がダンスを踊れないはずはない。ましてやあんなに何でもできる彼女が、そんなはずはない。仮に苦手だとしても、簡単な曲だけ参加すればいいじゃないか。
結局のところ、マリアンヌは自分と舞踏会に出たくないのだろう。公式の場に、自分と一緒に出たくないのだ。それはつまり、いずれ自分との婚約をなかったことにしたい、という意味じゃないか。
そう思うと、胸の奥が焼けるように痛み、怒りに変わっていく。
だけど。
さっき、マリアンヌは今にも泣きそうな顔をしていた。いつも気丈に凛とした彼女のあんな姿を見たのは初めてだった。
口にしたのは謝罪の言葉ばかりだったし、踊れないと言った声はとても震えていた。
ついカッとなって強い口調で話してしまったが、もっとちゃんと彼女の話を聞くべきではなかっただろうか。何か相応の理由があって言えなかったのだとしたら、自分のきつい言葉は随分彼女を傷つけたに違いない。
それに、自分の言葉にマリアンヌが傷付いた様子を見て、心のどこかが満足した。あんなに強い言葉を言ったのは、自己満足だったのではないかと思い当たって王子はゾッとした。
そんな風にしか関係を作れないのだとしたら、自分はなんと醜い人間なのか。こんな思いになるくらいなら、いっそなかったことにしたい。初めはただ、互いに大事に思い合えたらいいと、それだけを願っていたはずなのに。
◆
どれだけ庭園を走っていたのだろうか。
気づけば随分と庭の端の方まで来ていた。人けもなく、道具置き場のような小屋も見える。
もう戻ろう、と思った時、低木の向こうに奇妙な影を見つけて王子はギョッとした。
最初は人だと思わなかった。何せあまりに奇怪な動きだったから。
それは、呪いにかけられたカカシのようにぐるぐると不規則に回転し、つまずくように何度も飛び跳ねてはガタガタと体を傾けた。はためく優雅なドレスが、あまりにも動きと似合わなくてグロテスクだ。
それがマリアンヌだとわかっても、しばらく頭の回路がつながらなかった。
ただ、彼女が必死になって何かをしようとしていることと、泣いていることはわかった。
小さくワルツの曲が聞こえる。彼女の口ずさむ歌は美しく正確で、涙交じりに震えていて、奇妙な動きの違和感を一層引き立てた。
――まさか、踊っているのか?
呆然と眺めていると、急に背後から大きな黒いカラスが現れて、鋭いくちばしが皮膚をかすめた。慌てて応戦するも、あわや連れ去られそうになった時、マリアンヌが鍬を振りかざして突撃してきた、というわけだ。
思った以上に彼女の踊れなさは深刻だった。
張りつめていた糸が切れたように、子どものように泣きながら猫(実際には王子なのだが)に向かって話し続けるマリアンヌを見て、王子は彼女を気の毒に思った。
それなのに、心のどこかには満足な気持ちと、安心した気持ちが広がっていく。
マリアンヌが嘘をついていなかったことや、これほどダンスがひどいなら夜会も舞踏会も来れなくても仕方ないと、今までのことが急に全てクリアになった気がしたのだ。
こんなに彼女が悩んで辛い思いをしているというのに、王子はうれしかった。いつも完璧な姿を見せる彼女の、こんなにみっともない姿を知っているのが自分だけだという事実がどれほど甘いことか。
自分の中の気持ちはやはり醜いと思ったが、先ほどとは違って苦い気持ちではなく喜びが込み上げてくる。
猫の姿でよかった。
人のままだったら、うれしさで笑ってしまいそうな表情に気づかれてしまったかもしれない。
王子は猫の姿のまま、マリアンヌにダンスを教えると約束をした。
彼女は完璧な王子様を慕ってくれている。こんなに醜い思いや、短気なところを知られて嫌われたくはないが、猫の仮面を被って会えるなら、この意味のない魔法も少しは使いようがあるというものだ。
* * * * *
マリアンヌと金色の猫は、毎日庭園の一番奥の空き地でダンスの練習をすることにした。
人の言葉を話す猫は、やはり魔法の猫なのだろう。当たり前のように人間の姿に変化して、パートナーを努めてくれた。
人間の姿になった猫は、金色の髪に青い目の端正な顔立ちをしていて、やっぱりとてもよく知っている人だという気がするのだが、後になってみるとどうしても顔が思い出せない。これも魔法なのだろうか、とマリアンヌは不思議に思った。
金色の猫は少々短気なところもあったが、諦めはしなかった。
どれだけやっても踊れないマリアンヌに愛想を尽かす事なく、毎日足を踏まれ続けても練習に付き合ってくれる。しかし、マリアンヌは一向に踊れる気配がない。まるで呪いでもかかっているのではと疑うほどだ。
毎日練習を終えるたび、金色の猫がこっそり落胆するのを見てマリアンヌは申し訳なく思った。
*
ある日、金色の猫は上機嫌でやってくると、得意気に一枚のドレスを取り出した。
身につければ、どんな踊りでも完璧に踊れるという魔法のドレス。手に入れるには少々手間がかかったというようなことも言っていたが、マリアンヌが踊れるようになるのなら、と手に入れてくれたのだ。
マリアンヌは金色の猫の気持ちをうれしく思ったが、どこか気持ちが翳るような心地がした。
「これを着ていけば、いくら君でもちゃんと踊れる。いや、会場一番の華になれるぞ」
さあ、早く着て踊ってくれ、と期待に目を輝かせる金色の猫。いつの間にか人間の姿に変わっていて、今か今かと待っている。
よぎった心の影を押し込めて、マリアンヌはドレスを身につけた。
果たして、魔法は正しく働いて、マリアンヌは見ている人の目を思わず奪うような、美しく軽やかなダンスを踊った。彼女の口ずさむワルツはいつもと同じく正確で、体の動き一つ一つが音に溶け合いながら美しく空気を震わせた。
楽しかった。
ダンスがこんなに楽しいものとは知らなかった。
思わず笑ってくるくると体を回すと、人の姿をした金色の猫も、溶けるような笑みを見せた。
おかげでマリアンヌは、はっきりと自分の翳った気持ちの正体を理解した。
上手く踊れて楽しかったし、相手の笑顔を見てうれしかった。
でもこれは。
魔法の力で動いているだけ。
結局、自分の姿を恥じて自分勝手に王子に負担を強いた私は、何も変わっていない。
ひとしきり踊った後、草の上に座って金色の猫を膝に乗せ、マリアンヌはこう言った。
「ありがとう。すごく楽しかった。ダンスってこんなに楽しいのね。でも……舞踏会には着ていかないわ」
金色の猫は信じられないと言った表情で、マリアンヌを見上げた。
「行かないって言うのか?」
「ううん。もちろん舞踏会には出席する。この魔法のドレスは置いていくだけ」
「じゃあ、ダンスはどうするんだ」
「……悪いんだけど、もう少し練習に付き合ってくれるかしら」
「は?」
どこかで聞いたような、それでも以前よりは少し間の抜けた返事が響く。
「やっぱり……自分で踊りたいの」
「なんで、だって、まだ全然踊れないじゃないか」
「そうね……殿下には恥をかかせてしまうでしょうから、やっぱり自分勝手なことだと思うけど……」
「別に恥だなんてことないだろ!」
金色の猫が大声で否定するので、マリアンヌはありがたく思った。
どうしたって自分勝手なことだと思うけれど、そう言ってもらえると少しは気が楽になった。
「これまで殿下を一人にさせてきた分、ちゃんと自分で踊らないといけない気がするの。私が逃げていた間、ずっと殿下は待っていてくださったのだから、もう取り繕ったりしたくないの」
「君がそれでいいなら……」
「本当はなんてステキなダンスだろうって、私のことを思って欲しいけどね」
そう言ってマリアンヌは少しおどけてみせた。
「それに、私、どうしても着たいドレスがあるの。殿下と舞踏会に出るときに、絶対着ようと思って作ったドレスよ」
作ったのは随分前のことだった。マリアンヌは少し背が伸びていて、体型も女性らしく変わっていたのでサイズ直しが必要だった。そんなに長い間、着ることもなく放っておいたのかと、マリアンヌはサイズを測りながら再び後悔を深めたものだ。
「本当に、それでいいのか?」
金色の猫は、心底心配そうに見上げてくる。
せっかく用意した魔法のドレスを着ないと言っているのに、そのことについては一言も責めたりしなかった。この金色の猫は、ずっと私のことばかりを心配してくれている。
マリアンヌは改めて、金色の猫の気持ちをありがたく思った。
「自分で踊るのは楽しかったもの。ダンスが楽しいって初めて思えたわ。それに、この魔法のドレスを着て練習すれば理想のダンスを踊れるし、繰り返せば体で覚えていけるんじゃないかしら」
そう、確かにマリアンヌはダンス以外のことなら何でもできる。基本的にはとても優秀で勘所もいい人物だ。正解の形を知れば、上達も早いに違いない。
金色の猫はニッと笑うと、いくらでも練習に付き合うと請け合ってくれた。
* * * * *
舞踏会の日、マリアンヌはこの日のために選んだ金色のドレスと青い髪飾りを身につけた。王子の髪と瞳の色に合わせた色だ。
公爵家の人々にとっては王子が腹を立てて出て行った日が最後なものだから、今日王子が迎えにくるのかと皆ハラハラしていたが、もちろん王子はマリアンヌを迎えに来た。
王子は彼女の姿を見ると嬉しそうに青い目を細め、王子らしい口調で丁寧な挨拶をした。
「この前は、ひどい言い方をして申し訳ありませんでした」
「いいえ、私の方こそ。これまでずっと一緒に出席もせず、本当に申し訳ありませんでした。今日は迎えに来ていただいて、とてもうれしいです」
「こちらこそ、そのドレスと髪飾りを選んでいただいて光栄です。とてもよく似合っている。一曲目は、私と踊っていただけますか?」
「もちろんです。ですが、あまりダンスは上手くなくて。きっとご迷惑をおかけすると思いますが……」
「でしたら、今日は私とだけ踊ってください。私にならいくら迷惑をかけても構いません」
「まあ、そんな」
「よければ、これからもダンスの練習をいたしましょうか」
王子はそう言って金色の猫と同じようにニッと笑ったので、毎日練習をしてくれた人が誰だったのか、マリアンヌにはもうすっかりわかってしまった。
「ぜひ、お願いいたしますわ」
目に涙を浮かべながら、マリアンヌは笑って返事をする。
「庭園でもよろしいかしら?」
王子は少し考えてからスッと顔を近づけると、マリアンヌにだけ聞こえるように囁いた。
「玄関から来た方が良くないか?」
もう完全にあの猫と同じ話し方をしている。マリアンヌは目元の涙を拭いながら囁き返した。
「猫の姿も見たいので」
「なんで??」
マリアンヌは笑いながら、もっとたくさん話がしたいとそう言った。
* * * * *
王子主催の舞踏会は、それはそれは見事なもので、三日三晩続いた。
初めて二人揃って姿を見せた王子とその婚約者の美しい姿に、人々は感嘆の声を上げた。
ダンスの方もさぞやと期待は高まったものの、マリアンヌのダンスはお世辞にもうまいと言えるものではなかった。いや、かなり下手だった。すごく下手だった。
それでも“ダンスの下手な人”レベルにはなっていて、奇怪な呪術のような動きで人々を怖がらせることはなく、マリアンヌ本人としては上出来だと満足した。魔法のドレスで繰り返し練習した甲斐はある。
何よりパートナーの王子が、ずっとうれしそうに自分を見つめてくれている。
王子は何度も足を踏まれ続けていたが、彼女がどれほど上達したのかは、彼が一番よく知っている。怒るどころか誇らしくさえあった。
二人は楽しくて、何度も何度も踊っていた。
期待はずれのマリアンヌ。人々はヒソヒソ声で囁き合ったり、扇の陰で嘲笑ったりしていたが、あんまり二人が楽しく幸せそうに踊るのでいつしか陰口を言うのが馬鹿馬鹿しくなった。
いつもは型通りのダンスをしていた貴族たちも、音楽と相手に合わせて踊るだけで、確かに楽しいものだと、いつも以上に舞踏会は盛り上がった。
マリアンヌと王子は心ゆくまで踊り続け、時々休んでは一緒に食事をしたり話をしたり、舞踏会をめいっぱいに楽しんだ。
もうマリアンヌは完全無欠の完璧な令嬢ではなかったが、以前よりもずいぶん自分に自信が持てるような気がしていた。
あんなに迷惑をかけても、みっともない姿を見せても、愛情を示してくれる人がいるというのはこんなにも幸せなことなのか。
自分をよく見せたいと思う気持ちはまだあるけれど、そうでなくても大丈夫というのは心強かった。
王子を見れば、変わらない笑顔を返してくれる。
いつもと同じ、王子様然とした完璧な微笑み。でも、その笑顔は少し照れくさそうだ。
誰もが憧れる王子様の笑顔の奥には、怒ったり苛立ったりする普通の人がちゃんといると、マリアンヌはもう知っている。そのことを少し照れているような、うれしそうな、そんな顔。
これから二人で過ごす時間を思うと、心があたたかくくすぐったいような幸せでいっぱいになる。
マリアンヌはもう一度踊りましょう、と王子を誘い、二人は笑い合いながら大広間の真ん中へと歩いて行った。