クラリネットの自己主張
クインテットのクラリネット奏者のファンでした。
クラリネットが巨大化していた。
あともう少しでワンルームの窓ガラスを割る所だった。
二千六百ミリの長さが部屋の中、空間を貫いている。
かつての英国がアフリカ大陸を分割したような、不自然なまっすぐさ具合であった。
さて、ここまで状況を説明しておいてなんだが自分でもいっている意味が解らない。
「これは……とてつもない自己顕示欲!」
音大に通っているというバイト仲間、たまたま家の近くまで遊びに来ていたひと。
音大でバイオリンを弾いているバイト仲間と共に、私はちょっとした電信柱のサイズにまで巨大化してしまったクラリネットの姿を眺める。
クラリネットは父から譲ってもらったものだった。今生の別れとして譲り受けた……という事情はまったくない。実家に置き場所がないため、とりあえずアパートに暮らしている私のもとにテキトーに送り付けただけであった。
「このクラリネットは今すぐにでも音楽を奏でたくて、奏でたくて、奏でたくて震えているんだろうね」
「震えるというか、吹かれなくちゃ意味がないでしょうよ」
手前、音楽のことにはまるで知識がないため、クラリネットについてもリコーダーがもっとごてごてとして扱いづらくなったもの、という認識しかない。
「何はともあれ、このままだと困るねえ」
バイト仲間はクラリネットの具合について語る。
「きっと何かしらの拍子で自分自身の現状が認められなくなっちゃたんだよ。どうして俺はこんなところでただの置物になっているんだ! とかさ」
「んなこと言われてもなあ……」
正確にはクラリネットは何も言っていない。
しかし予想について、理屈ならそれとなく理解してしまえる自分がひどく厄介だった。
「で、どうすれば不満を解消してくれると?」
なんにせよ、変身を解かなければ俺の生活がままならない。
「簡単だよ、好きなだけ音楽を吹いておけば、そのうち疲れるか満足するかで元の姿になってくれるよ」
泣きたいときは泣きたいだけ泣かせておけばいい。みたいな案である。
「でもなあ……」
こんなワンルームで、このサイズのクラリネットを吹き荒せば、ご近所迷惑の域を超えてもはやテロリズムである。
「それなら大丈夫」
バイト仲間が俺の手を引いた。
というわけで俺たちはバイト仲間の実家の近く、他に誰もいない広大な畑のど真ん中にいる。
そこで優雅にクラリネットの音色を聴いていたのであった。
「大丈夫なのかよ?」
私の心配にバイト仲間が答える。
「大丈夫だって。ここうちの土地だから、何か文句があったらおじいちゃんに対応してもらうから」
「あ、いや……そうじゃなくて、クラリネットはこれで満足してくれるかってことだよ」
「ああ、なんだ、そっちか」
こんな寂しい所で、観客も聴衆もない場所で一人寂しくコンサートをする。逆にクラリネットの心情、というものがあるとして、惨めさを掻き立てやしないか。
「そう卑屈になることはないよ」
バイト仲間は励ましている。俺に対してなのか、クラリネットに対してなのかは分からない。
「だってほら、こんなにもいい気持ち」
バイト仲間と一緒に耳を澄ます。
何の工夫も必要とすることなく、クラリネットは俺たちに音色を届かせる。ただそれだけだった。
息継ぎは豊かに空気を含む、まるで可憐な少女の弾む呼吸のよう。
低音はなめらかに響く、ふたの中で眠るチョコレートの粒のように濃厚。
高音は軽やかに駆け抜ける、初夏に生まれた仔馬が草原を走る足取りのごとく。
音程の変化は滞りなく、故郷に帰る勇猛果敢な兵士のように勇ましい。
音の伸びは果てしなく、やがて実を結ぶためにもゆる若い芽のように先を望む。
実に美しい音楽、心が鼓膜を介してシナプスを彩っていた。
「うん、悪くないな」
素直に感動している自分自身が意外だった。
しかし音楽が素晴らしいことには変わりない。
「そうだねえ、このまま好き放題に吹かせておけば、多分いつかは機嫌を直してくれるよ」
「それってどのくらい?」
「いつか、五日ぐらい?」
「マジか」
俺の驚きについて、バイト仲間は憂いのような感情を予感したと思う。
しかし実際のところ、私は楽しみがまだ続くことにわくわくとしているのであった。
感情を言葉にすることはしない。
言葉を発するよりも、今は音だけを聞いていたかった。
「どうしたものかね」
問いかけられたので、答えてみる。
「さあ。でも、たまには音楽だけを聞きまくる一日があってもいいんじゃないかって、そんな願望だよ」
個人的願望。
叶えられる日が少しでも多いことを、クラリネットの切ない音色に願った。