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グレンシスの不遜な態度は、ティアにとったらとても安心できるもの。行き詰まりだと思っていた眼前に、ぽっと明かりが灯ったようだった。
その小さな明かりは、心の尖ったところを春の陽に撫でられた氷のようにやさしく溶かしていく。
終わってしまったと思い込んでいた二人の関係が、まだ細い糸で繋がっていた。それに気付いた途端、ティアの鼓動が、緩やかな坂を下るように自然に早くなる。
オイルランプに照らされた部屋は、ほんのりと赤く染まったティアの頬をしっかりとグレンシスの目に移している。
グレンシスは再びくすりと笑った。その目は愛しい人へ向けるそれ。
「その程度のことだ。お前が断ろうとしていたことくらい知ってるからな」
「……本当ですか?」
半信半疑のティアに、グレンシスは少し悲しそうな表情を浮かべる。
「それくらいは自惚れさせてくれ」
そう言った後、グレンシスはバツが悪そうにそっぽを向く。けれど、すぐに片手で顔を覆った。
まるで見てはいけないものを目にしたように……。
「この部屋は、少々きついな」
ポツリと呟いたグレンシスの言葉の意味はとてもよくわかる。
ここはメゾン・プレザンの一室。つまり娼館の一部屋だ。
前回と同じ部屋ではないけれど、ここも中堅クラスの客の部屋。
ここは優雅な調度品に包まれているし、本日も変わらず1階のエントランスホールのすぐ横のラウンジからは、楽団の演奏が続いている。
何より相も変わらずお膳立てされたこの空間で、一番主張をしているのが天蓋付きの大きなベッド。……確かにグレンシスの言う通り、少々、いやかなりキツイ。
「……ですね」
グレンシスの言葉に同意したティアは、そぉっと距離を取ろうとした。
が、その肩にグレンシスの手が触れた。
まるで離れるなと言わんばかりに。優しく、有無を言わせずに。
「なぁティア、さっき言いかけた言葉、聞いても良いか?」
「さぁ?なんのことでしょう?」
さっきの事とは、中途半端に終わった説明の続き。もちろんティアは全力ですっとぼけた。
それにしても、このタイミングで聞くのはかなり趣味が悪い。しかも目の前にあるベッドから目を離さずに言うなんて。
何があっても絶対に言わない。
そんな意志を込めてティアは一文字に唇を引き結ぶ。
そうすれば、グレンシスは残念そうに肩を竦めた。でも、それで終わりではなかった。
「そうか。なら、仕方がない諦めよう。……ではこれは?」
そう言いながら、グレンシスはティアの顎に手をかけた。そして、顎を持ち上げたまま、親指の腹でティアの唇をなぞる。
「おれは……もう少し自惚れて良いか?」
最後のグレンシスの言葉は吐息交じりだった。
ブルーグレーの瞳は、今は氷水のような冷たさではなく、真逆の色を湛えていて。
会えない間、どれだけグレンシスが自分のことを想っていたのか、痛い程に伝わってくる。
なによ、もう。わざわざ言わせようとするなんて。意地が悪い。
ティアはそんなふうに心の中で毒づく。でも、気付けば求められるがまま、瞳を閉じていた。
終わりにしてしまった恋に身を委ねるのを、今だけ自分に許すことにする。
そしてグレンシスも目を閉じ、引き寄せられるように二人の唇が触れ合おうとした瞬間───ガチャリと扉が開いた。
「あーら、タイミングが悪かったかしらねぇ。ごめんなさぁい」
マダムローズの声音は、どうしたらそんなに申し訳なさを感じさせずに、謝罪の言葉を紡げるのか聞いてみたくなるほどの、それだった。
しかも片方の唇を引きゆがめ、意味ありげなあざ笑いすら浮かべている。
間違いなく、完璧な確信犯であった。
だが、グレンシスはマダムローズに対して苛立つ様子はない。むしろ、命を救われたことに感謝すらしている。
なぜならマダムローズのすぐ横で、青筋立てて剣の柄に手を伸ばしているパパロフがいたから。
そしてティアは持ち前の小動物のような素早さで、グレンシスから距離を取る。
頬の熱はまだ残っているけれど、精一杯、やましいことは何もしていないという表情を必死に浮かべて、マダムローズとバザロフに無言のアピールをする。
部屋に一触即発な空気が満ちること15秒。
溜息を付きながらバザロフが剣の柄から手を離したのをきっかけに、マダムローズがティアに向かって、ぞんざいに口に開いた。
ただそれは、ティアにとって驚愕する内容だった。
「ティア、あんた今からこの騎士のお世話になりな」
「はぁ!?」
素っ頓狂な声を上げながらも、なんだか以前も同じようなことがあったなとティアは思った。
ちなみに前回自分と同様なリアクションをした騎士様は、目を丸くはしているようだが拒絶の空気は欠片も出していない。
良いのか!?それでっ。
ティアは、思わずグレンシスの袖を掴んで問いただしたくなる。
が、誰がどう見てもマダムローズとバザロフに賛同している彼に詰め寄ったところで、何の意味があるのだろうか。
ティアはすぐに思考を切り替え、マダムローズに向かって口を開く。
「あの……り、理由を教えてください」
「時間がない。向こうに着いたら話す。行くぞ」
ティアの要望をぴしゃりと却下したのは、マダムローズではなくバザロフで。
「えー」
驚きというより、悲鳴をあげたティアだけれど、マダムローズもバザロフも、さあ行けと言わんばかりに目で訴えてくる。
まるでティアの声など聞こえていないように。
───やっぱりこれも、以前と同じだ。
初夏の季節の出来事を思い出し、ティアは心の中でそんなことを呟く。
けれど、全てが同じと言うわけではない。
例えば、ティアの肩を抱いて廊下へと出たのはバザロフではなくグレンシスだったし。
そして、バザロフはマダムローズに向かって「賭けは続行だからな」と訳の分からない言葉を吐いているし。
そしてマダムローズは、目つきは鋭いのにちょっとだけバザロフに向かってはにかんでいたりもする。
でも、大まかなところは、ほぼほぼ同じ。
ティアは一変した状況に思考が追いついていけず、瞬きを繰り返している間にあれよあれよとメゾン・プレザンを後にし、バザロフの馬車に放り込まれてしまっていたのだから。
余談だけれどロムはそのころ、ティアの見送りをせず、失恋の辛さに耐え切れずに食糧庫で男泣きをしていた。
そして、それを慰めるように艶っぽい目でドゥールがロムの背をいつまでも撫で続けていた。……その後、二人がどうなったかは誰も知らない。




