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客人をティアの元へと案内するミィナの表情は、ひどく怯えている。
まるで何日も餌を与えられていない獰猛な肉食獣と同じ檻に入れられているかのようだった。
「どうぞ、お入りくださいませ」
ひどく強張った声でメイドに入室を促された、獰猛な肉食獣───もとい、バザロフは案内してくれたミィナに礼を言うこともなく大股で部屋に入った。
そして着席した途端、向かいの席にいるティアに目を向けた。
「お久しぶりです、バザロフさま」
「ああ」
これまで鬼でもへぇこらしそうな程の形相を浮かべていたバザロフは、ここでやっと表情を柔らかいものに変える。
「倒れたと聞いた時は肝が冷えたが、元気そうで良かった」
バザロフは目尻の皺を深くして、大きな手でくしゃくしゃとティアの頭を撫でた。
ティアがロハン邸にお世話になり始めて、今日で8日目。
うち、2日は意識が無かったので、体感的には6日目である。
小食なのは変わらないけれど、熱はとっくに下がっていて、ティアは、ほどよく健康な状態である。
けれど、まだまだ予断は許さないと言われているし、足の捻挫も完治まであと少しなので、未だに病人扱いのまま。
さすがにそれは、ちょっと過保護すぎるのでは?と、思うけれど、それでもグレンシスを始め使用人たちは皆、ティアに親切だった。
だからずるずる甘えたまま、ティアはロハン邸に未だに滞在中。
けれど、やることがなく暇を持て余していたりもする。
なのでこの来訪はとっても嬉しかった。父親代わりであるバザロフがお見舞いに来てくれたのなら、なおのこと。
そんな気持ちから、ティアは照れ臭そうに唇に弧を描く。けれど、すぐに表情が暗くなる。
「せっかくバザロフさまからご依頼いただいたお仕事だったのに、こんな結果になってしまい、申し訳ありませんでした」
「……っ、何を言っているんだ」
しゅんと俯くティアの肩を、バザロフは優しくつかんだ。そしてこちらを向けと促すように、ティアの名を呼ぶ。
「無理をさせてしまったのは、儂の責任だ。それに、怪我まで負わせてしまって……本当にすまないことをした」
「いえ、そんなっ」
深々と頭を下げるバザロフに、ティアはびっくりして長椅子の上で飛び跳ねた。
なにせこの足の怪我は、ティアの一人相撲による負傷。誰に責任があるものではないのだから、ティアは両手を胸の前で振って、オロオロとしてしまう。けれど、バザロフはなかなか頭を上げてくれない。
互いにまごつく時間が過ぎる。けれど、それを止めたのは、堪えきれないといった感じで、下を向いたまま小さく笑ったバザロフだった。
「ふっ、それにしても、随分可愛らしい恰好をしておるな、ティア。部屋に入った時、クマの縫いぐるみのほかに、でっかいビスクドールがいるかと思って驚いたぞ」
「……」
父親代わりのこの人が朗らかな笑顔に戻ってくれたことは嬉しいけれど、自分の格好に触れられるのは、あまり嬉しくはない。
ティアは、ちょっとだけ眉間に皺を刻んだ。
そんなビスクドールと間違えられたティアの服装は、水色のギンガムチェックのワンピース。
この季節でも過ごしやすい木綿素材で、デザインは身体を締め付けるものではなく、ゆったりとしたハイウエストもの。切り返しの胸の部分と袖には細いレースのリボンが付いている。
そして頭にも同じレースのヘッドドレスが乗せられていて、まさに生きる人形であった。
ちなみに、この身支度の全てはミィナとアネッサの手によって。
バザロフが見舞いの為に来訪するという連絡を受けた際、ご主人さま以外の前で寝間着などとんでもないと、二人が血相変えて、強引にティアの身支度を整えたのであった。
ティアからすれば、バザロフに寝間着姿を見られるより、グレンシスに見られる方がよっぽどこっぱずがしいのであるが。
ただ、なんだかそれを口にするのが憚られ、着せ替え人形よろしく鏡台の前で大人しくすることしかできなかったのだ。
そんなわけで、この姿はティアが自ら望んだことではない。でも、年頃の女性らしく、ほんのちょっぴり浮き立つ気持ちもある。
そんな葛藤する気持ちを隠せず、ティアは、ついワンピースの裾を掴んでもじもじとしてしまう。
たったそれだけの仕草で、バザロフはティアの気持ちを汲み取ってしまう。けれど、わざと声に出して問うてみた。
「どうやら、ここでの生活は、快適か?」
「はい」
すぐに頷いたティアであったが、少し迷ってから再び口を開く。
「……でも、そろそろ戻ります。娼館のことも心配ですし。何より、ここにいると私……身体がなまっちゃいます」
そう。グレンシスの屋敷での生活は、娼館での生活とは正反対だった。
誰よりも早く起きて、ベッドから一向に起きてこない姐さまたちを叩き起こすこともなければ、皿洗いに洗濯にと下働きに追われることもない。
貴族のように、ただ座ってぼーっとしていれば、お茶や食事がもたらされる。
けれど時は金なり。働かざるもの食うべからずの生活を送っていたティアは、この世に、こんなぐうたらした生活が存在することは知識の上では知っていた。
けれどティアは、どうにもこうにも、慣れることができないでいる。
やっぱり自分の居場所はここではないと痛感させられる。
そんなふうに、ずぶずぶと物思いに沈んでいくティアを引き上げるように、バザロフはティアの肩を軽くたたいた。
「娼館の事はマダムローズに任せておけ。今はそんなことは考えなくて良い。それに、これまで休みなく頑張ってきたんだ。自分への褒美だと思って、ゆっくり過ごしなさい」
「……それはなかなか難しいかもです」
そう言って、心の底から溜息を吐くティアにバザロフは苦笑した。
「普段から頑張り過ぎているティアには、居心地悪いかもしれないがな」
そうじゃない。
慣れることはできないけれど、居心地が悪くないから、こんなに困っているのだ。
今、バザロフが座っているのは、ベッドのすぐ横にある一人掛けの椅子。普段、グレンシスの固定席でもある。
そしてティアは長椅子に腰かけている。本来なら身分が上のバザロフが、ここに座るべきなのだが。
バザロフは未だにティアの足が完治していないことを知っているので、わざと一人掛けの椅子を選んでくれたのだ。ティアに無理をさせないように。
そんな気遣いを嬉しく思うティアだけれど、今回ばかりは、少し複雑だ。
なぜなら、一人掛けの椅子に、グレンシス以外の人間が腰かけているのを目にすると、とても違和感を覚えてしまうから。
……とても良くない兆候だ。
ティアは爪を噛みたい衝動に駆られる。
一度でも甘えてしまえば、味をしめて、もっともっとと求めてしまう。これは可能性じゃない。明確に見える未来だ。そしてそうなる未来は、さほど遠くない。
やはり、ここに居るのは間違いだったかもしれない……。
ほんの少しだけティアは、自分を甘やかせてしまったことに、後悔の念を覚えてしまった。
そんな憂えた表情を浮かべるティアに、バザロフは何か言いかけた。
けれど、軽く頭を振って、わざと明るい口調で口を開く。
「まぁ、何にせよ元気なティアを目にすることができて良かった。さて、そろそろ行くとしよう」
「もうですか?……あ、ごめんなさい」
わざわざ見舞いに来てくれたのに、責める言い方をするなんて。
ティアは、自分の失言に気付いて、両手を口元に当てた。
それを見たバザロフは、カラカラと笑う。
「ティアに引き留められるなら、会議を無視して、もう少しここに居たいんじゃが……悪いな。実は、部下がグレンの屋敷に行くと言ったもんでな。儂もちょっとだけと無理言って付いて来てしまったんだ」
「まぁ、そう……だったんですか。会議は大切な公務でしたのに……」
更に自責の念にかられるティアに、バザロフは慌てた様子で首を横に振る。
「すまん、すまん。余計なことを言ってしまったな。悪かった。会議など、くだらない連中の無駄話に過ぎないのだから多少遅れたってかまわん。小うるさい儂が居ない方が、皆もせいせいしているだろう」
バザロフは何でもないことのように言うけれど、ティアからすれば、どんな言葉を口にしても墓穴を掘りそうな気がして、黙ってしまう。
そして、しばらくの間の後立ち上がり、バザロフの袖を少しだけ引いた。
「──……バザロフさま。では、せめて玄関まで、お送りさせてください」
「こら、無理をするな。怪我がまだ治っていないだろ──……あー、いや、やっぱり送ってもらおう」
「はい」
ティアの小動物のようなつぶらな瞳で訴えられたら、剣鬼と称されたバザロフであっても、拒むのは容易なことではないようだった。




