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風がピタリと止んで、カーテンはまったく動かない。そのせいで部屋は薄暗く、耳鳴りがしそうな程に、しんとしていた。
そんな中、執事から、うっかり失言されてしまった屋敷の主人ことグレンシスは、相変わらず片手で顔を覆ったままでいる。
突如振りかかったこのアクシデントに、どう対処して良いのかわからないのだ。
もちろんグレンシスは、薬湯を口移しで与えた行為──ずばっと言うと、キスをしたことを、ティアに黙ったままにするつもりはなかった。
ちゃんと伝えるつもりだったし、うやむやにするような不誠実な態度を取るつもりなんて、これっぽっちも無かった。
ただその告白は、自分のタイミングで……という思いはあった。
まさか、こんな流れで、しかも第三者の口からポロリと吐かれるとは、夢にも思ってなかった。
ちなみに無言でいる執事のルディオンは、自分の失態に深い後悔と言葉にできない申し訳なさを感じていた。
ただ、屋敷の主人に向ける視線は、動揺の中にしっかり憐憫が含まれている。執事とは総じて察しが良い生き物なのだ。
そして、その視線を痛いほど感じ取ったグレンシスは、顔を覆っていた手を離し、ルディオンに視線を向けた。
何はともあれ、やるべきことは、まずこれだった。
「……悪いが、席を外してくれ」
「かしこまりました」
ご主人さまの命令は絶対。
なのでルディオンは、すぐさま一礼して部屋を後にする。
若干、この混沌とした空気から逃れられることに、僅かにだけれど安堵したことは、彼だけの秘密である。
パタンと扉が閉じられ、部屋は再び、重苦しい沈黙に包まれる。
息をするのすら苦痛を覚えるこの空気の中、グレンシスは椅子から立ち上がり、ティアの手から薬湯を取り上げ、サイドテーブルに置く。
それからベッドに腰かけた。先ほどより離れて。でも、手を伸ばせば、ティアに触れられる距離で。
そして、無の表情になってしまったティアに向かって口を開いた。
「ティア、勝手なことをして、すまなかった」
「……」
叱られた子犬のようにしゅんと肩を落とすグレンシスだけれど、ティアからの返事はない。
なぜならティアは現在、絶賛現実逃避中。必死に、混乱の向こう側にある言葉とは何か?という意味のないことで思考を埋めている。
けれど、熱でロクに動かない頭で考えたところで、そんな言葉、見つかるわけがないし、グレンシスの表情は、どれだけ意識を逸らしても視界に映り込んでくる。
そしてその美しい顔を無視できるわけもなく……根負けしたティアは、なるべく感情を殺してグレンシスに目を向けた。
「ティア、本当に悪かった。……お前がこのまま目を覚まさず、死んでしまうかもしれないと思ってしまったんだ。そう思ってしまったら、不安で怖くて……。だから、つい……あんなことをしてしまったんだ」
辛そうに言葉を紡ぐグレンシスから、自分が意識の無い間、どれだけ心配してくれたのかが、ひしひしと伝わってくる。
ティアはそれが申し訳ないと思う、でも、とても嬉しいとも思ってしまう。
「熱を出したくらいで、死んだりなんかしませんよ」
素直になれないティアは、気恥ずかしさを誤魔化すように、素っ気ない口調でそう言った。そしてきっとグレンシスはそうだなと言って、あっさりと流すと思った。
けれど、違った。
グレンシスは、ここでなぜか不機嫌な表情になる。その顔は怒っているというよりも、なんだか拗ねているようだった。
けれど、すぐに何か観念したかのような表情になり、口を開いた。
「……そうなのかもしれないな。だが、お前が目を覚ますまで、その不安がぬぐい切れなかったんだ」
まるで、悪戯が見つかったかのようなバツの悪さを含んだグレンシスの口調に、ティアは軽く息をのむ。
次いで『どうして?』という言葉を飲み込んだ。
それは、冷たい印象を持つはずのブルーグレーの瞳が、たった一つの感情だけを映し出していたから。季節に例えるなら、冬ではなく今のもの。
ティアの心の中にあったはずの疑問は、怯えの感情に変わった。
なぜか、うっかり『どうして?』と聞いてしまったら、自分とグレンシスの関係全てが変わってしまうような気がして。
そして、今、グレンシスの瞳がティアに何を訴えているのか、理解はしていなくても、本能で何かを察したティアは思いついたままの言葉を紡ぐ。
「以前……傷を癒されたことに、何か引け目とかを感じているんですか?もうお礼は頂いていますので、気にしないでください」
ティアはそれを口にしてみて、なんだか的外れなことを言ってるような気がした。けれど、何が正しくて何が間違っているのかまではわからなかった。
そして、そのあやふやなものはグレンシスにも伝わってしまったようで、彼は、少し形の良い眉を下げた。
「いや……」
グレンシスはティアの言葉を否定するかのように、首を緩く横に振った。けれど、その口調はとても歯切れが悪いものだった。
でも、次に発した言葉は芯のある、グレンシスのちゃんとした意思のあるものだった。
「引け目など感じていない。ただ、俺にも術が使えたならどんなに良かったかとは、ずっと思っていた。ちなみに、俺は習得できないのか?」
「無理です」
「……そうか」
きっぱりと答えたティアに、グレンシスは落胆の表情を見せた。
反対にティアは、とても困ってしまう。いつもと様子が違うグレンシスに。そして、このまま彼がもっともっと落ち込んでしまいそうで。
ティアは自分のあずかり知らぬところで、ファーストキスなるものを終えてしまったことに対して、確かに混乱している。
ただそれは驚きと戸惑いという気持ちが強く、不快な気持ちは一切ないのだ。
だって、記憶はないとはいえ、好きな人から口付けを受けたのだから、嫌なわけなどない。
だから、少しでもグレンシスが逆ギレをしたり、横柄な態度を取ってくれたら、ティアはそれを理由に怒ったり責めたりすることができるのに。そしていつもの不遜な態度に戻ってくれるはずなのに。
こんな落ち込んだ表情など、グレンシスには似合わないことをティアは知った。
いや、違う。ティアは悠々と、そして尊大な態度でいるグレンシスのほうが好きなのだ。そして彼らしいとも思っている。
なのに、グレンシスはずっとティアに対して、申し訳なさそうな態度でいる。今までのように、開き直る気配はない。
それにティアはちゃんとわかっている。
グレンシスが口移しで自分に薬湯を与えた行為は、意地の悪い気持ちからでもなく、妙齢の女性をからかう気持ちからでもなく、本当に、心から心配してくれた気持ちからだということに。
だからティアは、この一件は自分で幕を降ろすことに決めた。
「あのですね。えっと、これは、」
「ん?」
かすれた声でティアが言葉を絞り出せば、グレンシスは短く返事をした後、びくりと身を強張らせた。
次にティアの紡ぐ言葉に怯えるかのように。
そんな騎士様を見て、ティアはわざと茶化すように、こう言った。
「救命行為だったんですよね?」
「……あ、ああ」
グレンシスは少しの間の後、頷いた。
ただ、その語尾は肩透かしを食らったかのように、ぐにゃぐにゃと情けなくぼやけてしまっていた。
その反応に僅かにティアは不満を覚えた。でも、グレンシスの顔から怯えが消えたので概ね満足する。
「じゃあ。良いです。私、怒ってません」
──だから、忘れます。
最後の言葉は飲み込んだ。だって、嘘になるから。多分、一生このことは忘れない。
これまでグレンシスを思い出して幸せな気持ちになっていたように、きっとこれも、同じように大切に記憶の箱の中にしまうだろう。
……まぁ、すぐには取り出したりすることはしないだろうけれど。
「そうか」
グレンシスは、ティアの言葉を聞いて、ただ静かに頷くだけだった。まるで噛み締めるかのように。
それと同時に、この部屋を包んでいた気まずい空気が、風が吹き込んでもいないのに一瞬で消えた。
そしてティアは、言葉にすることはできないけれど、グレンシスが『このことは忘れよう』と言わなかったのが、とても嬉しかった。




