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”移し身の術”は他人にしか使えない。
だから自分の怪我を、術で治すことができないティアは、人一倍慎重に行動する。
そして、いつでも移し身の術が使えるように、人一倍体調に気を使う。
そんな理由で、怪我を負うことなどめったになかったし、熱を出すことなど、これまためったにないことだった。
ただそれは、母親が死んでからの話。
幼い頃は、ティアはあまり身体が丈夫ではなく、季節の変わり目には決まって風邪をひき、熱を出していた。
そして母親が一晩中、ティアの枕元にいて看病をしてくれていたのだ。
その頃ティアの母親は、今のティアのように娼婦としてではなく、下働きをしていた。だから、ティアはいつでも寂しい夜を過ごしていた。
けれど、病気になれば熱で節々が痛んで、発熱特有の怖い夢を見て目を覚ましても、いつだって母親がそこにいてくれて……ティアはちょっとだけ体調を崩すのが嬉しかったりもした。
そして、18歳になって久方ぶりに体調を崩したティアは、熱にうなされながら夢を見ていた。
まだ幼い頃の夢。母親が生きてきた頃の夢を。
『辛そうだな。……変わってやれたら良いのに』
朦朧とする意識の中で、そんな言葉がティアの耳朶に響いた。とても懐かしいと思った。
そして、大きな手がティアの頬に張り付いた髪を払う。次いで、おでこに乗っていた布が除けられ、額に再び大きな手が乗せられる。
『かなり熱いな』
辛さを滲ませた溜息が、聞こえてきた。
そして額に乗った手が、頬を撫でる。けれど、その手が離れていく気配を感じ、ティアは嫌々と首を横に振った。
『……駄目だ。冷やさないといつまで経っても熱が下がらないぞ』
───嫌なの。手で冷やして欲しいの。
夢うつつの中、すっかりこの手を母親のものだと思い込んでいるティアは、幼少の頃に戻ったかのように、全身で甘える。
そうすれば声の主は、一瞬だけ、たじろいだような気配をみせた。けれど、ティアの手を振り払うことはなかった。
『まったく、仕方のない奴だな』
まんざらでもなさそうな苦笑を含んだその声に、ティアはとても満足する。
そして、その手に頬を摺り寄せながら、ティアは再び眠りに落ちた。
ただ、母親の手にしたら、やけにごつごつしていたなぁとか、母親の声にしたら、やけに低かったなぁと思ったけれど、自分に向けてちゃんと慈しみを感じ取ることができた。
だからティアは、その違いは些末なことと斬り捨てて、それ以上深く考えることはしなかった。
***
現実を知ったら、羞恥のあまり身悶えしてしまう夢(?)を見ていたティアが、目を覚ましたのは気を失ってから2日後。
まずティアはベッドに寝かされていることに驚いた。次いで視界に天井が飛び込んできた。
幾何学模様を組み合わせた柄に、なんとなく見覚えがあった。
少し考えて、思い出す。アジェーリアに投げ飛ばされた時に見た天井の柄に良く似ていることを。
……微妙な気持ちになって、視線を外す。
そうすれば、今度は大きなクマの縫いぐるみが飛び込んできた。ちなみに、ティアの隣で大人しく添い寝をしてくれている。一人で寝るのが寂しいとでも思われたのだろうか。
ただこのクマの縫いぐるみには、見覚えがなかった。けれど、もう一つ、ティアの膝に乗る程の同じクマの縫いぐるみには見覚えがあった。
補足するとそれは、大きなクマの縫いぐるみとティアの身体の隙間に押し込まれている。
これをどこで見たのか………ティアは瞬きを4回してから思い出した。
グレンシスの屋敷。ティアにと用意された客間のベッドの上に鎮座していたのを。
つまり、ここはロハン邸!?え?いや、ちょっと待った。一体全体、何故に自分がこんなところに!?
ティアはたちまちパニックになる。
ちなみに、大きなクマの縫いぐるみの首には、深緑色のリボンが。そして小さい方には、ゴールドピンク色のリボンがある。
その配色についての説明は必要ないだろう。
ちなみにこれは、ロハン邸のメイド達が気を利かせて付けたもの。なのだが、残念ながら今のティアはそれどころじゃなかった。
そしてティアは、あわあわと反対側に目を向けた途端、更にぎょっとした。
ベットのすぐ横に椅子があり、そこにグレンシスが腰掛けていたから。
ただ、グレンシスは眠っていた。腕を組み、長い脚も軽く組んで。
カーテンは閉じられていて、部屋は薄暗い。けれど、窓は開けてあるから、風が吹くたびにカーテンが揺れて、夏の日差しが部屋に差し込んでくる。まだ昼間のようだ。
ゆらゆらと揺れるカーテンに合わせて、陽の光が目を閉じているグレンシスの顔に当たり、美しい陰影を作る。まつ毛と鼻梁の影は、もはや芸術の域を超えている。
そして全てをひっくるめたその姿は、まるで彫刻のようで、その神々しさに眩暈すら覚えてしまう。
……ただグレンシスは、とても窮屈そうであるけれど。
無理もない。グレンシスは大きな体躯の持ち主。だから、ティアが普通に座れる小ぶりの可愛らしい椅子は、彼にとったら規格外になってしまう。
でも、しつこいようだが、狭そうに椅子に身体を押し込めていても、グレンシスが美しいことには変わらない。
ティアは、葛藤した。やはり、起こしたほうが良いのだろうかと。でも、このまま見つめていることを選んだ。
なにせ物言わぬグレンシスは、普段より10倍はカッコいい。
何より遠慮なく視界に入れることができるし、眠っているグレンシスはティアに突拍子もないことを言ったり、やったりしないでくれるので安心して見ていられる。
───このままずっと眠っていてほしい。
ティアは、かなりガチでそう思った。
だが、そんなささやかな願いも空しく、ティアが掛布団の中で、もぞっと身じろぎをした途端、彫刻と化していたイケメンは、血の通った人間に戻ってしまった。
「起きたか」
「……はい」
ちょっとだけガッカリ感を覚えたけれど、ティアは素直に頷いた。
そうすれば、グレンシスは立ち上がり、流れるようにベッドの端に腰かけた。そして身をかがめ、ティアを覗き込む。
「熱はまだ下がっていないか。……ティア、何か食べれそうか?薬を飲む前に、何か胃に入れておいたほうが良い」
「………」
グレンシスの労りのある問いかけに、ティアは何も答えることができなかった。
意地悪で無視をしているわけではない。承諾もなしに彼の屋敷に連れてこられたことに腹を立てているわけでもない。
ただ単に、口を開くには向かない状況だから無言でいるだけ。
二人は現在進行形で、互いの額と額がくっついているのだ。そして、グレンシスの息が、ばっちりティアの頬にかかってしまっていたりする。
ティアはぎゅんっと身体が火照るのがわかった。もちろんこれは、体調不良による発熱ではない。
ひとまず離れて欲しい意思を伝える為に、ティアは掛布から自身の手を取り出す。次いで、そっとグレンシスの腕に触れる。
けれど、無言の訴えは棄却されてしまった。
ただ、その手は振り払われるわけではなく、なぜだか、グレンシスの指にからめ取られてしまう。
いや、待って。違う違う。そういう意味で手を出したわけじゃないっ。
これではまるで、自分が手を繋いで欲しいと、ねだっているようではないか。
ティアは混乱を極めた。
けれど、口を開けばグレンシスの顔のどこかに自分の唇が当たってしまいそうだし、首を横に振ったとしても結局、同じリスクを伴う。
さて、どうしたら良いのだろう。
ティアが途方に暮れ、逃げの最終手段として、再び眠りに落ちようとしたその時──ノックという救いの手が差し伸べられた。




